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世界には私たちしかいないでしょう?




 ここは、精神病院隔離病棟の面会室だ。

 病室の外は雨が降っていた。

 雨音を聞きながら、私は婚約者と話をしている。部屋には監視カメラがあり、長い間は話していられない。


「調子はどう?」

「良くはないかな」

「そう……」


 弾まない会話をしながら、私は具合の悪そうな婚約者を見つめる。別段何を話すことがあるわけでもないが私はそこへ通っていた。


りん、ここから出たい。なんとかしてくれない? これは国の陰謀なんだよ。俺を秘密裏に殺して事をなかったことにしようとしてるんだろうけど、俺は絶対それを阻止しないといけないんだ。俺が国の陰謀に屈したら凛も殺されるかもしれない」


 もう何度目か分からない説明を私は聞いていた。


「…………先生には話をしてみるけど……私に蒼真そうまを出してあげられる権利がないから」

「最近、凛のこと集団ストーカーしてる人がいるって話したけど、早くしないと凛が殺されてしまうかもしれない。こんなことは止めてほしいって首相に手紙を出してみたりしたんだけど返事がなくて。俺をこんな理不尽に閉じ込めて、迫害をした責任を取ってもらわないとならないのに。凛からも言ってくれない?」

「……うん。分かった。話はしてみるよ。あと、私の前の話は集団ストーカーとかじゃなくて、ただのナンパだったと思うよ。そんなに心配してくれなくても大丈夫」


 私の婚約者――――蒼真は重度の統合失調症だ。

 病識がなく、自分を統合失調症だとは思っていない。国の陰謀でこの精神病院隔離病棟に入れられていると思っている。

 実際の経緯として、蒼真は加害を加えてきたと思い込んで、赤の他人に対して暴力行為をして警察沙汰になり、責任能力無しとして不起訴になった後、強制入院になった。

 彼自身、病識がない為に統合失調症扱いをすると怒りを露わにするため、私はその話題に触れないようにしていた。


「いつ頃出られるようになるか、先生に私からも聞いてみるね。ここから出たらどこに行きたい?」

「俺はいろんな場所から監視命令が出てるし、どこにも行けない。今もずっと監視されてるし、俺と接触してるから凛も監視されてる……」

「じゃあ……それがなくなったら行きたい場所ある?」

「…………海に行きたいかな」

「海? 泳ぎたいの?」

「ずっと閉鎖空間にいるから、開放的な場所に行きたいとは思う」

「そっか。じゃあここから出たら一緒に海に行こう。水着も買っておいてあげるね」


 混沌とした噛み合わない会話を、私は蒼真と続けていた。

 毎月、できるだけここへ足を運んで蒼真と会話をしている。


 桜の舞い散る新たな命の芽吹く春も

 蝉が大合唱するうだるような暑さの夏も

 少し肌寒くなってきた枯れ葉舞い散る秋も

 静まり返るほどの白の暴力を振るう冬も


 私は蒼真と話をするために、蒼真の閉じ込められている精神病院へと足を運んだ。

 蒼真の症状は落ち着いたり、再燃したりを繰り返していたけれど、明らかに蒼真は衰弱していってるようだった。

 明らかに痩せて行っているし、口数もどんどん減って行った。

 そして、私に対して疑心暗鬼になることも多くなった。私が国の陰謀とグルなのではないかと疑い、声を荒げることも多くなってきた。


 私は……ただ、蒼真に幸せになってもらいたいだけなのに。




 ***




 蒼真は中学校でいじめがあり、ひきこもるようになったらしい。

 それからずっと何年もひきこもっていたけれど、そんなある日、蒼真は統合失調症を発症。

 その後、精神病院に強制入院になり、少し症状が改善して退院した際に蒼真はアルバイトを始めた。

 そこで私と蒼真は知り合った。

 私は蒼真の教育係だった。教育係とは言っても、私も会社では大したことはない位置なのだが。私からしたら上が厄介事を私に押し付けてきただけの印象を受けた。

 彼を見た第一印象としては「覚えのいい子」だった。気の利かない部分はあったけれど、蒼真は教えたことを間違えることなく丁寧にやっていた。

 私は淡々と仕事を教えていたが、それなりに仕事にも私にも慣れてきた頃、蒼真が気になることを言った。


「貝原さんは、監視されていても平気なんですか?」


 どういう意味なのか解らなかったけれど、上司の目が光っているところで仕事をするのは平気なのかという意味かと私は捉えた。


「んー、社会ってそういうものなのかなって思う。互いに監視し合って、悪いことができないように見張り合ってるんじゃないかな? 他人の事なんて、どうでもいいけど」

「俺はずっと監視されてるんです。国から監視されてて、今も外から監視されてるんですよ。あそこに黒い車が停まってますよね? あれは国が監視するためにここへ派遣しているんですよ」

「…………?」


 私はある疑問をここで持った。


 ――統合失調症?


 本をよく読む私は、統合失調症の患者の手記や、症状などが書かれている本を読んだことがある。その本の内容を思い出した。

 ただ、これだけで素人が病気だと決めつけるわけにはいかない。


「なんで監視されてるの?」

「俺の頭の中に特殊な信号が送られてきているので、それを外部に漏らしたりしないかどうか見てるんです。あと、俺がその特殊な信号に基づいて行動したら世界の安寧が脅かされるほどのことになってしまうんですよ。今もずっと信号が聞こえるんです」


 私の中にあった疑念が確信に変わった。冗談などを言っている様には見えなかったので、ふざけているわけではないだろうと思った。

 どうするべきか悩んだ。

 放っておけばいい。別に私には関係ない。彼がどうなろうと私には関係ない。

 だが、統合失調症で事件を犯してしまった人のニュースを何度か見たことがあった。このまま放っておけば、もしかしたら蒼真も事件を起こしてしまうかもしれない。

 放っておけば自分には関係のない話だった。

 だが、周りに馴染めずに困っている蒼真が、私にだけ時折見せてくれる笑顔を思い出し、この件に踏み込んでしまった。

 何度も放っておこうと思ったが、時折弱々しく笑っている蒼真の顔がチラついた。

 私は蒼真の連絡先を聞いておいた。そして、なんとか彼とプライベートで会う約束を取り付け、家にお邪魔した際に彼の親に彼の病状を話した。

 彼の親は、彼の病状を分かっていながらも彼を放っておいていた。


「……私は報告しましたよ。彼がどうなってしまうか、私には分からないです。家族の問題でしょうから、立ち入ったことは言いません」


 それが、間違いだったのかもしれない。

 悪化していく彼の病状について、私は理解していた。

 蒼真に病院に行くように言ってみた事もあったけれど、蒼真は「病気ではない」と言って病院には行きたがらなかった。


 それを……無理にでも連れていった方が良かったのだろうか。

 今でもそれは疑問に思う。

 彼の意思を、心を殺して、無理やりにでも病院に連れていった方が良かったのだろうか。


 蒼真は妄想や幻聴に苦しみ始めていた。

 仕事もできなくなって辞めてしまった。それでも、頼れる人がおらずに縋ってくる蒼真に対して、私は突き放すことは出来なかった。

 病院に連れていくというのは蒼真を裏切ることになる。

 強制入院になれば「どうして」と蒼真は私に言うだろう。私を恨むかもしれない。もう、二度と私に笑ってくれないかもしれない。

 誰にも笑顔を見せない蒼真が、私にだけは笑ってくれているのに。

 それを、奪い取ることが正しいのかどうか私には解らなかった。


 結局、蒼真は妄想に逆らえずに事件を起こしてしまった。


 私は、間違っていたんだろうか。


 蒼真がいる留置所から手紙が来て、何があったのか私は知った。

 幸いにも暴行を受けた人は後遺症も残らなかったし、生きているということが不幸中の幸いだった。

 蒼真と私は手紙のやりとりを何度かした。

 そのいずれも妄想症状が激しく「助けてほしい」という旨が綴られていた。

 その手紙を見ても、私にしてあげられることはなかった。


 そして、不起訴になって入院になった後、やっと私たちは再び出会うことができた。

 ひどくやつれてしまっている蒼真を見た時には、酷く心が痛くなった。


「…………」


 久しぶりに会って沢山話したいことがあったはずなのに、いざとなると何の言葉も出てこない。


「お久しぶりです」


 蒼真はそう言っていた。


 そうして私は病院に通っていたが、いつになっても蒼真が出られる気配がなかった。

 この事件で両親とのつながりが切れてしまったらしく、両親は手紙もよこさなければ、面会にも来ていないらしかった。

 そこで、私が身元引受人になるという考えに至った。

 それには何か法的な繋がりがあった方がいいだろうと考え、その結果……


「……結婚する?」


 そう私が口に出したとき、蒼真は何度も瞬きをして戸惑っている様子を見せた。

 私は、正直結婚というのは気が進まなかった。

 蒼真との結婚に気が進まないのではなく、結婚そのものに私は気が進まなかった。

 だが、法的に認められる家族というものは、立場として利用する他以外の使い道が分からない。

 ここがその使いどころだと私は思った。


「驚いています……嬉しいです……すぐには返事はできませんが……」

「そう……まぁ、考えておいて」


 そんな返事だったが、蒼真は最終的に承諾してくれた。

 しかし、簡単には結婚の話は進んで行かない。蒼真はなかなか婚姻届けにサインをしてくれなかった。

 してくれなかった……というよりも、できる状態ではなかったという方が的確なように思う。

 私も蒼真を急かしたりはしなかった。

 そうして、ズルズルと関係は間延びしていった。




 ***




そして今。


「凛……俺を助ける気なんてないんでしょう? 俺をここに閉じ込め続けるのに、国からお金をもらって偵察をしているんだ」

「……違うよ」

「なら、どうして助けてくれないんですか!?」


 痛い。


「俺は凛を信じていたのに……!」


 心が痛い。


「どうして!?」


 やめて。


「結局お金が目当てなんでしょう!?」


 お願い……。


 気が付いたら涙が溢れていた。

 私は言葉が出てこなかった。ただ、蒼真をそっと抱きしめるしかできなかった。

 そして、蒼真にしか聞こえない声で彼に言った。


「もう……逃げよう……私と一緒に……」

「…………」

「面会の終わり、隙を見て一緒に逃げよう」

「どこに……?」

「ここじゃない、どこかに……」


 そうして、私たちは逃げ出した。

 私は車に蒼真を乗せて、どこへいくとも分からない旅に出た。有り金を貯金から全部出して、私は今まで蒼真の体験できなかった体験をさせてあげようと、色々な場所に行った。

 ダーツ、ボウリング、シューティングゲーム……そんなたわいもない遊びを私たちは繰り返した。入ったこともないような高級レストランに入ってみたり、ホテルで枕投げをしたり、山の中に行ってバーベキューをしたり……本当に、些細なことだ。

 蒼真はずっと「国会議事堂に乗り込んで自分が受けた仕打ちの報復をするんだ」と主張していた。

 私はそんなことをしたらどうなってしまうのか知っていた。

 蒼真は今度こそ逃げられなくなって、永遠に塀の中に閉じ込められることになる。


「蒼真……海に行きたいって言ってたよね。海に行こう」


 私は適当な近場の海へと蒼真を連れていった。

 相変わらず、蒼真は具合が悪そうだった。早口に言葉をまくし立てるときもあれば、黙って無反応な時もある。


「着いたよ。ほら、行こう」


 蒼真の手を取って、私たちは浜辺を歩いた。まだ時間も早く、海には誰もいなかった。車も近くは通っていない。

 まるで、この世には私たちしかいないような気すらした。


 そうだったら、良かったのに。


 もしそうだったら、蒼真は誰かに敵意を向けたりしないのだろうか。

 あるいは、たった二人になった私に対して敵意を向けるだろうか。


「ねぇ……蒼真、今までで一番幸せだったことって、何?」

「…………憶えてない」

「私は……蒼真が初めて“凛”って呼んでくれた時かな」

「………………」

「それから、蒼真がやっとのことで敬語を辞めてくれたとき、嬉しかったなぁ……」


 朝日が眩しい。

 手を繋いでいる私たちの影を遠くまで朝日が伸ばしていた。


「………………」

「…………」


 私は蒼真と一緒に堤防まで来て、その淵に座った。


「座りなよ」

「………………」


 蒼真は大人しく私の隣に座った。


「………どうせ、私も蒼真も捕まればもう会えなくなるかもね」

「…………」

「逃げ延びるにも、もうお金がない。このままどこかでのたれ死ぬか、捕まって処罰を受けるかどっちかしかいない」

「………………」

「早まったことをしたかな。あのまま、ずっとあの場所にいたら、いずれ普通に出てこられたと思う?」

「いずれ俺の国からの処遇が明るみになれば、俺の潔白は証明される。だから、今すぐ国会議事堂に一緒に行こう」


 蒼真の目には、目の前の海は映っていなかった。

 隣にいて、私を見ているはずなのに、私の姿も映っていない。

 手を繋いでいるのに、その手の感触を感じている様には見えなかった。


「蒼真……もう、終わりにしよう。その苦しみも、全部……」


 私はズボンにさしておいた包丁を取り出し、蒼真の首に突き刺した。

 できるだけ苦しまないようにと思い、力いっぱい包丁を蒼真に刺して、切り裂いた。


「が……あぁ……」

「…………」

「……っ……り……」

「………………」

「凛…………」

「……………………」


 もう、苦しまないで。


 その考えしか私の頭の中にはなかった。


 私は、涙で前が見えなかった。

 ただ、見えるのは血に染まって首を押さえて苦しんでいる蒼真と、包丁と、とりとめのない後悔だけだ。

 溢れる血を見れば、致命傷だということは分かった。

 何度も刺して、これ以上痛い思いをさせたくなかった。

 その考えよりも、私はただただ取り返しのつかないことをした罪悪感のみしかなかった。


 どうして……


 どうして蒼真がこんなに苦しまなければならないんだろう。


 誰が悪かった?


 蒼真が悪かったの?


 親が悪かったの?


 医師が悪かったの?


 社会が悪かったの?


 私が……悪かったの?


 何が正しかったか分からない。


 でも、思い返せば蒼真が笑ってくれていたことだけは嬉しかった。


 それ以外はどうでもいいと思った。


 なのに結局、一番守りたかったそれを自分の手で壊すことになってしまった。


 これ以上、苦しんでほしくなかった。


 それだけだ。


 彼が望んだことじゃない。


 その罪を、今すぐにあがなう。


 私は持っていた包丁を自分の首に突き立てた。




 ***




「本日早朝、茨城県大洗町の沿岸部で男女2名が首に傷を負った状態で倒れており、病院へ救急搬送されました」


「搬送された先の病院で男性は死亡、女性は一命を取り留めました」


「女性の身元は現在確認中で、動機については“殺す他に救いはなかった”と供述していることが捜査関係者への取材でわかりました」




 END




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