プロローグ
わたし、葉室光莉はしがない会社員だ。
ごく普通の中小企業の事務員として働いている。
家族もいるし、仕事もそこそこに順調で、二十歳を迎えてまだ三、四年ながらに『人生を謳歌できている』と自負できるほど、大した苦境もなく日々を過ごしていた。
同じ職場で働くわたしの上司はコワモテのおっさんで、いわゆる男尊女卑代表みたいな最悪な性格で大嫌いだし、その上司を見るだけでも虫唾が走るほど不快だけど、まあ、これもよくある話だと思っている。
「葉室さん。一緒にランチでもどう?」
「……はあ。まあ、いいですよ」
断るとは微塵も思っていないような声で、オフィスでそう声をかけてきたのは、今わたしが愚痴を零した上司。当人だ。
わたしをランチに誘うためにわざわざ昼休みの時間を合わせてきたのか、薄ら笑いで見下ろしてくる顔が怖いし気持ち悪い。
しかしわたしは一介の会社員。そして下っ端だ。フロアのなかで一番権力を持つ男の直々の誘いに断れるはずがない。嫌な顔をなんとか隠しながら書類をまとめ、渋々頷いてカバンを持つ。話を聞くと、どうやら社内の食堂ではなくわざわざビルを出て外食に行きたがっているようだった。わたしがこの男を相当に嫌っているのは同僚の中では有名な話で、上司の背中越しに合掌をしてくる女性社員がちらほらと見える。……はい、はい、はい。名前は覚えた。さりげなく食事中に名前を出して、次からはあの他人事ヅラをしている同僚たちを誘うように仕向けよう。
ビルを出て歩きながら、わたしは上司と微妙な距離を取りながら傍らを歩いた。社員証がビール腹に弾かれてぽよぽよと跳ねているのすら気色が悪い。この男はよく思いつきで傍迷惑だったり理不尽だったりする命令を我々に下す。ここ数年でずいぶん好き勝手に振り回されたので、わたしの憎悪は大変深い。
「葉室さんさぁ、手際いいよね」
「はあ、ありがとうございます」
「愛想も良くてさぁ。おかげで社内の雰囲気が良くて助かるよ」
「はあ。恐縮です」
自慢ではないが業務に使用するアプリケーションやソフトを使う速度、それからタイピングに関しては元々かなり早いほうだ。凝り性なところがあるし、昔から機械を触るのが好きだったから。愛想が良いというのは、社内の険悪な雰囲気が仕事の効率を下げるのを防ぐために行動していたらいつの間にか同僚や先輩後輩の機嫌をとるポジションにいただけである。努力は怠っていないものの、この男にそれを褒められても全く嬉しくない。
のんびりと歩いている。
わたしの心の中は穏やかではないものの、世界は平和だ。
「葉室さん、何が食べたい?僕が奢ってあげるよ」
「結構です。流石に悪いので……」
「おい!! 落ちてくるぞ!!」
「──え?」
上司の言葉をすげなくあしらっていると、ふいに耳を劈くような悲鳴と、逃げろ、走れという怒号が辺りを包んだ。
あまりに突然のことに、わたしが呆然としていると、真上からお日さまの光が注ぐ正午であるはずなのに、わたしと上司は影に覆われた。
ハッとして上を向くと、鉄筋が落ちてきているのが分かった。
目を見開いた瞬間、世界から一切の音が消える。
スローモーションみたいにゆっくりと落ちてくる複数の鉄筋を茫然と見上げながら、必死に駆け出そうとすると、隣の男がまだ我に返っていないのか、上を見上げて硬直している。
咄嗟に腕を引くが、無駄に重くてびくともしない。だけどそれが我に返るきっかけだったらしい。しかし、その上司がわたしに視線をやるより早く、わたしはそのふくよかな体に思い切り体当たりをかましていた。
当然、わたしに全力で押し出された上司は日光を浴びているアスファルトに転がっていく。
それが、わたしが見た最後の光景。
──呆れた。
視界はすぐに黒く塗り潰されたけれど、ほんの少しだけ意識があった。ブラックアウトする寸前まで思考を回して、わたしは心から自分に呆れていた。
あの男が世界で一番好きじゃないとすら思ったのに、いざとなったらこれだ。
嫌いなら、見捨てればよかったのに。よりにもよって、あれを助けて死ぬなんて最悪すぎる。
納得なんかできるはずがない。こんな結末で満足できるわけがない。未練なんかたくさんある。旅行も、結婚だってしたかったし、80才までは生きたいって思ってた。
……思っていたのに。
自分の全部をかなぐり捨ててまで助ける価値なんかなかったのに、わたしの手は勝手に動いてしまった。
最悪だ。
最悪だ。
──最悪だ。しかし、やってしまったことは仕方ない。時間は巻き戻らないものなのだ。
(……神様。叶うなら、もし、叶うのならもう一度──わたしに人生を謳歌するチャンスをください……。)




