貧富の彼岸
山内さんは、顔を撫で付ける日光に目を覚ました。彼の寝ぼけ眼に広がる大海原が、蛍光色の青空から降り注ぐ金色の陽差しに遍く照らされ、オパールを思わせる薔薇色に輝いている。
「…朝焼けを見そびれちまったぜ。」
山内さんは、枕代わりの椰子の木に背中を預けたまま、布団よろしく羽織っている擦り切れた背広を払い除けると、目の前に広がる、花色の空と海とが織り成すコントラストに暫し見入ってから、そう呟いた。しかし白い砂浜に視線を落とすと、彼の目に映るのは、散乱する魚の骨や焚き火の焼け跡、そして昨晩飲み残した椰子酒が入った手製の樽。それらと美しい海とを見比べるにつれ、ようやく覚醒し始めた彼の意識に、痛飲した椰子酒の余韻が重くのしかかった。椰子酒の余韻――心臓の鼓動に合わせて反響する鋭い頭痛と、五臓六腑のムカつき、鉛の様な倦怠感。二日酔いを少しでも紛らわそうと、山内さんは息を吐いて天を仰いだ。彼は、自身がもたれかかっている椰子の木の、その天辺から規則正しく生え揃った格子状の葉の隙間から見え隠れする丸い雲の中に、もう会う事も適わぬ妻の輪郭を一瞬だけ認めた気がした。
「今頃、俺の死亡宣告でも受けて大喜びしてるんだろうな。」
筆の如く生い茂った髭を手で扱きながら独りごちる山内さんには、自分がこの絶海の無人島に漂着してから幾年月が経過したのか、既に定かではなかった。
――今から(恐らく)七年前。さる商社に勤めていた山内さんは、慰安旅行から帰る道すがら海難事故に遭遇した。彼ら「○○商事」に所属する企業戦士が乗り込んだクルーズ船が、浅瀬を遊泳していた鯨に折り悪く衝突してしまい、船体の浮揚力を掌る箇所に異常を来たしてしまった。確か、乗組員の誰かがそう捲したてているのを耳にした記憶がある。その結果、クルーズ船は瞬く間に浸水。更に運が悪い事に、船外に脱出した山内さん達を待ち受けていたのは、その海域を襲った数十年ぶりの大シケであった。灰色の海上から全身を強かに打ち付ける海水の飛礫と暴風に辛うじて耐えながら、ゴムボートへと続く滑走路を滑り落ちた社員達。乗客全員がゴムボートに跨がり、いざ漕ぎ出そうとした瞬間。ビル程の高さはある逆巻く大波がクルーズ船を襲い、乗員・乗客はものの数秒で荒れ狂う海に呑み込まれた。メレンゲの様な気泡を吐き出しながら没するクルーズ船。酸素に有り付こうと必死に藻掻く無数の人影。それらを淀んだ海中から見つめながら、山内さんの意識は途絶えた。その後山内さんは、現在の住み処となるこの無人島に打ち上げられ、奇跡的に目を覚ましたのだ。
(俺は生きてるのか。ここは何処だ。他の奴は無事なのか。)
あらゆる疑問符が過ぎり、目を白黒させながら、彼は砂浜の上で体を起こした。乱れた総髪には白い潮がこびり付き、髭は濡れそぼち、アルマーニの一張羅は、磯の香りをたっぷり含んだ海水とザラザラ纏わり付く大量の砂に蹂躙され、最早ブランド品としての価値を失っていた。辺りを見回す。誰も居ない。誰かの名前を叫んでも、大声に驚いた鳥の群れが遠くの岩山から飛び立つだけ。一頻り叫んだ後、何かに思い至った山内さんは大慌てで体中のポケットをまさぐった。
――無い!
船を飲み込んだ恐怖の大波が、今度は絶望という鈍器となって山内さんを殴り付け、彼の脳内を真っ白に染めた。彼は携帯電話を失くしていたのだ。ここに、島と外部との繋がりは完全に絶たれたのである。
それからの山内さんは、生き抜く事に必死だった。会社で交わした与太話や、テレビで得た知識だけを頼りに陸海を駆け回る内に、山内さんの生存本能は見る見る研ぎ澄まされていった。まず、素潜りで魚を捕らえ、熊や狼とやり合い、海水を飲み水に誂える機材を組み立て、嗜好品である酒をすら椰子の花から採取し、遂には食物の臭いを嗅いだだけで、それが有毒か無毒かを判別出来るまでに至った。だが、それと引き換えに彼は何かを失った。歯は殆ど抜け落ち、髪や髭は伸び放題。入浴とは無縁の身体からは腐臭が漂い、部下にひけらかしていたアルマーニは、今や寒暖から身を守る寝具と化している。彼が文明人であった唯一の証は、島の木々に正の字を刻み込む習慣のみである。だが、それが何する物ぞ。海を隔て、遙か彼方で暮らす人間達。彼らは、口当たりの良い偽善や欺瞞で己を飾り立て、他人を懐柔する癖に、一度窮地に陥ると、生への倦怠や虚栄心で満たされた空虚な檻に閉じ籠もる。そうやって、彼らは一度きりの人生を食い潰すのだ。渇きや飢えも、椰子酒の甘さも、獣肉の旨さも知ろうとせず。世俗を富める彼岸だとするならば、この島は貧しき彼岸。貧富の彼岸は三途の海によって繋がっている。その事に、我々が気付こうとしないだけなのだ。山内さんには、豊かさと引き換えに大切な何かを失った彼らの方が余程貧しく、愚鈍で、鼻持ちならず、ひたすら哀れに思えた。
島が夕焼けに染まる頃。山内さんの姿は、岩山の上に茂るブナ林の中にあった。お手製の罠で仕留めた兎を掴み上げた山内さんは、鬱蒼とした木々の隙間から覗く太陽に一瞥をくれた。ガーネットを思わせる石榴色の日光が、充足に満ち満ちた暮らしを手に入れた山内さんをあたかも祝福する様に、彼の顔を撫で付けながら、海と空と鮮血が滴る兎との境界を曖昧にしていく。
「やったあ!今夜はご馳走だあ!」
兎の死骸を掲げながら、来るべき夜を赫奕と照らす太陽に向けて歓喜の咆哮を上げる山内さん。その姿は、あらゆる柵みや秩序から解放された、さながら一匹の獣であった。