★第七話 そっくりさん……?
意識を失ったラグネイトは微笑んでいた。
彼は深い闇の底でかつて主との幸せな時間を追体験していた。
アニマ・ベーカー
かつてオルティスを統治していたベーカー候の一人娘とのかけがえのない日々を―――
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「ねぇラグだっこしてぇ~」
はいはいお安いご用ですよアニマ様
ラグネイトはいつものように主の両脇に手を入れそっと抱きかかえる。羽のように軽いアニマは抱きかかえられると同時にラグネイトの首に手を回す。
その際に舞った長い髪から若草のような素朴な香りが漂ってくる。ラグネイトはその匂いを嗅ぐのがなによりも好きであった。
「ねぇラグこの本をよんでちょうだい。じょうずにやってね」
アニマは退屈しているといつもそうせがんできた。ラグネイトはその度に仰せのままにとビブラートをきかせ情感たっぷりにおとぎの世界を語って聞かせた。途中からは感情が入りすぎて何度かむせる事もあった。
フィナーレと同時にどうでしたかと問うてみると反応がない。そうした時はアニマがうつ伏せになって静かな寝息を立てているのが大体であった。
「…ぐー、ぐー、ラグ……ながいわ………」
そのたびにラグネイトは天真爛漫な主が風邪を召さぬようそっと毛布をかけてあげるのであった。
「ねぇラグぶたさんの真似をして」
もちろんだブー、とラグネイトは即座に人語を忘れて家畜になりきる。四つん這いになって鼻を鳴らしながらアニマの周りをグルグルと周る。
そんなラグネイトを見て、アニマは頬を紅潮させ瞳をうるませながら手を叩いて喜ぶ。
そのうるんだ瞳を見るたびに、ラグネイトは理性を失いかけほんとうの獣に何度もなりかけるのであった。
ラグネイトとアニマ、二人はいつも一緒であった。
物心ついた時からたった一人で寄る辺もなく、街のかたすみで震えながら死を待つだけの孤児だったラグネイト。そんな彼にアニマが手を差し伸べ救ってくれたことから二人の関係は始まった。
「おにいさん、よければうちにおいで」
それからラグネイトはアニマのたっての願いで専属の付き人となり、彼らは本当の兄妹のように仲良く育っていった。
ラグネイトは自分を生かしてくれたアニマに恩を返そうと全身全霊で仕え、その忠義はすぐにアニマの両親であるベーカー候も認めるところとなっていった。
通常ならば女性の付き人に任せるような身の回りの世話さえもラグネイトに任せられていたのだから、その信頼がいかほどのものであったかがうかがえる。
だが孤児であった時からは比べ物にならない充実した日々を過ごすラグネイトではあったが、彼にはどうしても払拭できない疑問があった。
なぜアニマが自分を救ってくれたのか、ということである。
気まぐれでもなく、金持ちの道楽でもない、アニマと一緒にいればそうではないことは容易に分かる。
だが果たして年端もいかぬ少女にそんな聖人のような所業ができるのであろうか、何度も裏切りを経験し辛酸をなめてきたラグネイトにはどうしても理解が出来なかった。
心の底からアニマを信じることが出来ない、いつしか疑念が忠義に水を差すとも限らない、そう考えると彼の眠りは日に日に浅くなり、日中もその事が頭の片隅を占め居ても立っても居られなくなってしまうようになってしまう。
そんな日々が長く続き、とうとう耐えられなくなったラグネイトはある日、勇気を出してその理由をアニマに問うてみた。
「いったいなぜオレを助けてくれたんですか」
しかしアニマは顔をそむけるのみで、その理由を決して教えてくれることはなかった。
それ以来、ラグネイトは己を納得させるためこう結論づけた。
アニマは人間ではなく、女神さまなのだと―――
そうでなければ無償の愛をもって行き倒れかけていた見ず知らずの人間に施しを与え救ってくれるはずがない、と。
オルティスの他のどんな名の知れた慈善家でもなしえない無償の愛、彼女が女神さまだと考えれば、すべてに合点がいくのだ。
無茶苦茶な論理だがラグネイトはそう思い込む事で心の平穏を得ることができた。そしてアニマに対する忠誠はやがて信奉へと変わっていった。
女神に仕えることができる己の幸運にラグネイトは毎日打ち震えて、安眠を得ることが出来たのであった。
「ねぇラグ……お願いがあるの。私をアナタのお嫁さんにしてちょうだい」
だが、そんな心の平穏は長くは続かなかった。
数年後、許嫁の存在を明かされたアニマは深夜にラグネイトを呼びつけ愛を告げたのであった。
うるんだ瞳に紅潮した頬、ブタの真似をするラグネイトを見ていた時とは違う、成長した美しいアニマの視線は明らかに恋する女の眼差しであった。
一目ぼれ、ずっと好きだった、そんな告白が続きラグネイトはただただ戸惑う事しか出来なかった。
なぜならその時にはアニマのことを人ではなく女神だと信じ切っていたのだから。
またそう信じ切っていなければ己の責務を果たすことが困難になるほどアニマは美しく成長してしまったから。
アニマの肢体を直視しないようにいつものように伏し目がちになるラグネイトの瞳をのぞき込みながら、アニマは問う。
「お願いよ。私を連れて逃げてちょうだい」
ブタの真似をしていた時、あれはいつのことだったか、
ラグネイトは瞳に映るアニマが美しすぎて、やはり彼女のことを女神だとしか思えなかった。
そしてそう思い込むことで逃げ道を作った。
この時、彼はまだ何の覚悟もできていなかった。
「アニマさま……すみません、オレには畏れ多いことです……」
そしてその結果、ラグネイトはすべてを失い、永遠の闇に飲み込まれることとなってしまったのであった―――
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「…………う、うぅ」
「―――あら、目が覚めましたか?」
暖かい、覚醒をはじめたラグネイトがまず最初に感じたのは頭部全体を包み込む温もりであった。
そして次に感じたのは頭の下に広がる柔らかい感触、どうやら誰かの膝の上に寝かされているようであった。
一体だれが――
視線を上げて太ももの主の顔を確かめる。
そしてその瞬間、ラグネイトの瞳からは涙があふれ出した。
女神がそこに居たのだ。
「……ア、アニマさま、い、生きてらっしゃったんですね……」
紫がかった髪色、優しく穏やかなまなざし、本人も気にしていた控えめな胸、全てが記憶の中のアニマと一致していた。
だがアニマと呼ばれたその少女は目をぱちくりさせると、ゆっくりと首を左右にふった。
「あにま? 人違いですよぉ、わたしはルーナって言うんです。それよりまだどこか痛みますかお兄さん?」
アニマと同じ顔をした少女はラグネイトの知らない名を告げ、そしてたおやかに微笑んだ。