#2
2017年、太平洋
北緯11度22分、東経142度35分
am9:23
水深3200メートル。ドルフィン号であればマリアナ海溝の底まで2時間も掛からないが、探査機はドクの操作でゆっくりと進んでいった。
ここまで期待していた生物の姿は見られていない。時折、体長2センチにも満たない小さなエビやクラゲなどを見かける程度だ。
チャールズは隣に座るタカハシに声を掛けた。
「もう少しで世界の海の平均深度に到達しますよ。ここから先で見られる物は、ここだけでしか見られない物も多いでしょう」
「私が前回潜ったのは1000メートルまでだったからね。先ほどから心臓のドキドキが止まらないよ」
「僕たち2人もここから先は未知の海域ですよ」
「ええ。有人でのマリアナ海溝探査自体、我々を含め4度しか行われてませんしね」
「なるほど。この海底への旅が記憶にも記録的にも貴重なものになることを期待しているよ」
チャールズは耳鳴りを抑えるため、こめかみに手を当てた。お世辞にも広いとは言えないコックピットの中ではドクが立てる操縦桿の僅かな音や、シートを擦る衣擦れの音が必要以上に大きく聴こえた。
深度計はもう少しで8000メートルに達しようとしている。円形の窓の向こうは真っ暗な闇の世界が広がっているばかりで、探査挺から伸びるライトは数メートル先で周囲の闇に呑み込まれてしまい、視界に入って来るのは極小さな泡やライトに反射する小さな何かだ。甲殻類か又はそれらの死骸かもしれない。
先ほどから隣のシートでタカハシが居心地悪そうに何度も体の位置を直している。少なくともあと5時間は窮屈な思いをしてもらわなければならないのだが、それは自業自得と言うものだ。我慢してもらわなければならない。チャールズは再び窓の外に視線を戻した。
タカハシが伸びをした。船内を見回し、小さく溜め息を吐いた後で左腕につけた腕時計に目を落とす。ドルフィン号のコックピットの中では少し前から沈黙が支配していた。僅かな作業音がやけに騒がしく感じる。
この探査挺の設計技師であり操縦士でもあるドナルドと海洋生物学者で大学教授のチャールズはそれぞれの作業に没頭している様に思われた。
腕時計を確認すると潜水から2時間弱が経っている。会話が途切れてからはまだ10分かそこらだ。
初めこそは未知の世界、深海への期待と畏怖に興奮を押さえることが出来なかったが、今は息苦しさに、胸焼けを起こしかけていた。
丸く切り取られた窓枠の中、暗く映し出された深海を覗く。深くなるにつけ外の景色は黒一色に染まり、生命の気配を感じることは困難になった。
ドナルドの肩越しにモニターを覗くと、ドルフィン号の船首下方に取り付けられた水中カメラがゆっくりと動きながら左方の岩肌を映し出している。カメラが動いているのではなく、我々が乗る探査挺が動いているのだと気付くのに数瞬かかる。頭に酸素が行ってないのか、どうにもいかんなとタカハシは苦笑を噛み殺した。
スラスターのスクリュー音が僅かな振動となってコックピットに響く。右に旋回しつつ海底の岩礁を離れながらドルフィン号は徐々に速度を上げて海底を目指した。