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そう。そんな所だったのだ。昨夜は。
今朝だって、ランドセルに教科書だのノートだのを詰め込みながら、「おい、昨日描いた名前のやつは忘れねえで、入れたか?」と確認してやったら、「入れたもん。」とミリアは上機嫌にランドセルの中からパンダの写真の付いたノートを取り出してみせた。
「今日、先生とみんなに発表するんだもん。」自慢げに言った。「きっとミリアすっごいって言われちゃう!」
ミリアは上機嫌でいつもは二切れしか食べない朝食のサンドウィッチを三つも食べ、牛乳も二杯もおかわりし、そして勢い込んで学校へと行ったのである。
そのミリアが熱だなんて、しかも、インフルエンザかもしれないなんて。
学校の門を潜り、リョウは駐車場にバイクを停めると、赤い長髪を恥じるのも忘れ、慌てて事務室に顔を出し、次いで案内された保健室へと赴いた。
「失礼します。遅くなりました。黒崎の兄ですが……。」
「お待ちしていました。」と何やら棚の整理をしていた中年女性が柔和な笑みを湛えつつリョウを見たのと、
「リョウ!」とベッドから声が響いたのはほぼ同時であった。
カーテンがひらりと開き、中からは真っ赤な顔をしたミリアが泣き出しそうな、何か訴えたいような強張った顔つきで、リョウを見つめていた。
「おお、おお、どうした。顔赤いな。……どうも、お世話になりました。今からタクシー呼んで、さっさと病院連れて行きますんで。」
「……そう、本人にも言い聞かせたんですけれども……。」困ったように養護教諭はミリアを見遣った。
「昨日のしゅくだい、まだ先生に見せてないの。こくご、5時間目だから。」
「なんだよ、宿題なんてどうだって構やしねえだろう。お前、インフルエンザかもしんねえんだぞ。」
「でもダメなの。だって、だって、ミリアの意味を教えてあげなくちゃ……。一番素敵なんだから、すっごく……。」
「ああ。昨日の。」リョウはぼんやりと、自分はミリアの由来を何と教えてやったかなあなどと考える。「んなの、熱下がったらでいいだろう。」
「だめ。そんなの、だめ。だってミリアの名前のこと、教えてあげなくちゃ。」と言いつつも、それが無理難題であることを薄々感じ取ってはいるのであろう。ミリアは哀し気に俯いた。
養護教諭がふうと溜め息を吐く。「先程も言ったんですよ。宿題は元気になってから出せば大丈夫よって、ですが。よっぽど大事なんでしょうかねえ。」
「昨日、名前の由来を保護者に聞いてくるっていう宿題が出たらしいんですよ。そんで、俺が言ったことをメモしてて……。」
「そうなんですか。」
「じゃあ、ノートだけ渡して、先生か友達に読んで貰ったらいいだろう。お前、もしもインフルエンザとかだったら、んなこと言ってらんねえぞ。みんなに移ったらとんでもねえテロだぞ。みんなひっでえ熱が出て、クラスが壊滅しちまうんだぞ。」
「……そうなの。……わかった。」
養護教諭はほっと溜息を吐くと、「それでは、担任にノート渡しておきますね。何のノート?」と側に腰を屈める。
「こくごのノート。」
ミリアはベッド脇に置かれたランドセルから、パンダの表紙のノートを取り出した。
「じゃあ、私に貸して頂戴。先生に渡しておくから。」
「うん。」
「そしてクラスのお友達に、発表しておいて貰えるように言っておくわね。そうすれば大丈夫でしょう?」
ミリアは赤い顔のまま肯き、安堵したようにノートを手渡す。
「ったく我儘な野郎だなあ。本当に色々世話んなります。じゃあ、今からタクシー呼んで、病院連れていきますんで。」
「ええ、そうして下さい。もし陽性でしたら、学校に連絡下さいね。出席停止扱いになりますので。」
「はい、わかりました。」
事務室の前のベンチに座ってタクシーを待つ間、額に冷却シートを貼り付けたミリアは熱い体をリョウに凭せ掛けて、「どこの病院行くの?」と掠れた声で尋ねた。熱が高い癖に、どこか嬉しそうなのである。
「駅前のRクリニック。」
「お注射する?」
「かもな。」
「……。」ミリアはにわかに不安気な眼差しになった。
「何だ。怖ぇのか。」
ミリアは不機嫌そうに首を横に振る。
「……大丈夫。ミリアはクールでかっこいいから。」
驚いたようにリョウはミリアを見下ろす。
「それにいちばんで、うつくしいから。」
ぷっとリョウは思わず噴き出す。
「……リョウがそう言った!」
「そうだ、そうだったな。」
ほんの少し開けられた廊下の窓から、ふわりと冷風が吹き込んで頬を掠めていく。ミリアを認めてやれるのは、ミリアに自身を与えてやれるのは、もしかすると自分しかないのかもしれない。責任感めいた庇護欲がリョウの中で沸き起こっていくのであった。