世紀末の帝國 第二次世界大戦後海軍概要
自己満足第2段
1.大戦を経て
明治40(1907)年の帝国国防方針採択以来、アメリカ合衆国を仮想敵として軍備増強を進めてきた大日本帝國海軍であるが、その姿勢は第二次世界大戦が勃発して日本が連合国側に立って参戦しても変わらなかった。日本海軍は同盟国となったアメリカを依然として仮想敵のトップを考えていたのである。この方針に対して“海軍艦隊を守るために現実を無視した”という批判が絶えないが、開戦時点で戦後情勢の見通しがあったわけでもなく必ずしも組織防衛のための方針というわけではあるまい。
昭和15(1940)年に日本はドイツに宣戦したにも関わらず仮想敵をアメリカとして昭和25(1950)年の完成を目指す第5次軍備充実計画が策定され、海軍軍備はこれに基づいて行なわれた。大戦中ということで計画の一部が中止ないし延期されて戦争に必要な物資に資材がまわされ、海防艦など護衛艦船の建造が増やされたが、艦隊決戦用軍備の充実そのものが中止されることは決してなく、不十分な海上護衛によって損害を受けた陸軍の顰蹙を買うことになった。
かくして昭和25年には駆逐艦を中心に小型艦艇は計画をほぼ達成したが、大戦中の技術的な進歩が従来の艦隊整備の転換を海軍に迫ることになった。
なお昭和25年末時点における海軍の主要な戦力は以下の如くである。
戦艦×8(扶桑、山城、伊勢、日向、長門、大和、武蔵、信濃)
空母×9(鳳翔、赤城、加賀、飛龍、祥鳳、翔鶴、瑞鶴、大鳳、翔鷲)
重巡洋艦×12
軽巡洋艦×19(うち防空巡4)
駆逐艦×125(秋月型×22、艦隊型×103)
海防艦×76
潜水艦×141
となっている。
こうした海軍の対米第1主義は戦後の国防政策に暗い影を落すことになった。空軍独立問題がその顕著な例である。戦後になって陸軍航空隊を中心に海軍航空隊を併せて独立空軍を新設しようという動きが本格化したのであるが、海軍は対米戦略で重大な役割を果たす海軍航空隊、特に陸上航空隊を手放すことを拒絶し、空軍独立そのものにも反対の立場をとった。結局、艦隊決戦のための陸上攻撃機部隊を海軍に残すことで決着がつき昭和29(1954)年に空軍は独立を果たしたが、海軍の抵抗は政府及び空軍の海軍不信を招く結果になった。
2.核戦争対応型海軍への脱皮
技術的な進歩とは航空機の発達と原爆、そして誘導弾の登場を指す。特に昭和21(1946)年にアメリカが開発に成功した原子爆弾のインパクトは大きかった。爆撃機に搭載した原子爆弾の前には従来の海軍の作戦構想はまったく意味を為さなくなったからだ。
かくして昭和22(1947)年に第7次軍備充実計画が策定された。その内容は艦隊戦力については現状を維持し、核戦力の配備を目指すというものである。後に支那内線に介入して泥沼に嵌った陸軍の開発計画とも合流し、核兵器開発の主流は海軍が握ることになった。その背景にあるのは報復核戦力の整備という国家戦略的な防衛の視点というより核時代の海戦への対応という少々捻じれた思想であった。
核開発を進める一方で従来型装備の改善も進められた。最も重視されたのは防空能力の向上である。核戦争対応型を目指すという観点からも原爆を装備した爆撃機を迎撃する能力が必要であった。
昭和24(1949)年に九式高射装置が制式化された。これは電探、高角砲を連動させ、空中の目標を追尾できるという優れもので、帝國海軍が始めて手に入れた現代的な対空砲であった。高角砲を装備する艦艇に順次搭載され、防空能力を底上げした。
また早期警戒能力向上のために旧式駆逐艦に大型レーダーを装備したレーダーピケット艦に改修し、さらにレーダー哨戒潜水艦を整備した。
空母部隊は艦載機のジェット化が進められ、昭和20年に初のジェット艦戦である麗風の配備が開始された。しかし麗風の射撃管制システムの能力は十分とは言いがたく迎撃能力に疑問符がついた。帝國海軍が満足しえる艦戦を入手できたのはそれから10年後のことで、皮肉にも仮想敵であったアメリカのF-4ファントムII戦闘機であった。
さらに対艦攻撃能力の向上も図られた。特に重視されたのは誘導弾の開発であった。大戦後半にドイツ軍が使用した対艦誘導弾に注目した帝國海軍は魚雷の後継兵器として開発を開始した。しかし高度な技術を要する誘導弾開発には時間がかかり、昭和35(1960)年に二〇式空中水雷が制式化された。対艦誘導弾は水上艦及び一部の潜水艦に装備され、艦隊の切り札として扱われた。
そして昭和40(1965)年には日本初の原子力潜水艦が就役した。日本海軍潜水艦隊ははじめて敵水上部隊を潜航状態で追撃できる艦を得たのである。
一方、昭和29(1954)年には念願の核実験に成功して原子爆弾を完成させ、数年後には水爆を完成させた。これより帝國海軍は核戦争対応型海軍への転換を急速に進めていくのである。
昭和30(1955)年、帝國海軍は第8次軍備充実計画を策定した。内容は核戦争への対応を謳ったもので、少数の艦艇から成る戦闘グループを多数整備し、それを広大な海域に分散して配置することで核攻撃に対する抗堪性を確保し、兵装の核弾頭化、長射程化を推し進めるというものである。
前述の対艦誘導弾は実用化されると真っ先に核弾頭化された。また分散した艦隊を指揮するために通信能力の抜本的な強化が図られ、現代の海軍のC4Iシステムへと繋がる。
一方で戦艦や重巡洋艦といった大型戦闘艦は新時代の海戦に対応しておらず後継艦計画は全て白紙撤回された。残存艦は退役されるか、後述の支那方面艦隊へと委譲された。代わって海軍の主力となったのは機動力に優れ量産の効く駆逐艦であった。
3.支那内戦と海軍
泥沼の支那内戦に介入して多大な血と金を大陸で消費している陸軍を尻目に黙々と次世代への戦争の準備を進めた海軍であったが、支那内戦と無縁というわけにはいかなかった。
海軍における支那内戦の担い手となったのは支那方面艦隊であった。海上護衛総隊と遣外艦隊を統合した組織で、その任務は共産党向け物資の海上輸送阻止、海上からの陸軍及び国民党軍支援、そして海上からのソ連軍介入の阻止である。主力となったのは大戦中に多数量産された海防艦であり、主に臨検任務に使われた。また海軍陸戦隊も上海などの沿岸都市で邦人保護のために、また中共ゲリラに対する海上から強襲攻撃を実行し、活躍したのである。こうした海軍陸戦隊の諸活動は後に海軍陸戦隊の海兵隊化の過程で大きな意味を持つようになる。
昭和20年代後半になると連合艦隊で不要となった重巡洋艦や旧式戦艦、さらにジェット化に対応できない小型空母(鳳翔、飛龍、祥鳳)が委譲された。巡洋艦や戦艦は艦砲射撃による対地支援で威力を発揮し、小型空母はヘリコプターと旧式艦爆を搭載して陸戦隊を輸送・支援するコマンドー空母として活用された。こうした諸所の艦艇の活躍は陸軍や同盟列国からも高く評価された。それをうけ帝國海軍は大戦期に海上護衛総隊向けに建造した水上機母艦4隻をコマンドー空母に改装した。
一方、潜水艦戦力の増強が著しいソ連海軍は共産党を支援し日本や同盟列国を牽制するために東シナ海や日本海に潜水艦を派遣し、偵察活動を繰り返すようになった。そうした潜水艦に対する警戒も支那方面艦隊の重要な任務であり、海防艦や水上機母艦、前述のコマンドー空母を組み合わせて対潜チームを編成して活用した。
こうした活動は国民党が敗北し、日本が大陸から手を引く昭和37(1962)年まで続くことに成る。
4.対米海軍から対ソ海軍へ
さて、第1章と第2章で戦後の日本海軍連合艦隊の変遷を述べたが、その仮想敵はあくまでアメリカ海軍であった。東西冷戦体制が固定化しようという時になっても海軍はアメリカ海軍との核のパイ投げを想定した軍備を整備していたのだから現実との乖離が甚だしい。対ソ戦も想定していなかったわけではないが、“世界一の海軍であるアメリカ海軍に勝てれば、ソ連海軍に対しても当然勝利できる”程度の考えであった。
昭和30年代になると政府ないし陸軍は支那内戦後を見据えた対米関係の構築に動き始めた。日米は一応のところは協力関係になったが、あくまでも支那内戦に対する暫定的なものであった。それを正式な同盟関係まで格上げするというのが政府及び陸軍の構想である。冷戦体制を思えば当然のことであろうが、海軍は日米同盟に反対の姿勢を貫いた。アメリカと同盟関係になれば第一の仮想敵をソ連に転換せざるをえなくなり、脆弱なソ連海軍が相手では大艦隊の維持を正当化できないからだ。
海軍は政府や議会の第三極主義者(ド・ゴール主義に影響を受けたアメリカとの距離を置くべきという論)と手を結び、日米同盟反対運動を巻き起こした。
しかし、時流には逆らえず昭和37年に日本軍は支那より撤退すると日米同盟締結への動きが強まった。翌年には従来の陸海空軍省を束ねる兵部省が設置され、陸海の国防方針を統一することが決定された。そうなると海軍も対米から対ソへのシフトを余儀なくされた。それは大艦隊の大規模削減すら迫るものである。ただちに検討すべきは“何を目標として戦力を整える”であり、アメリカの大艦隊に代わる仮想敵を設定することであった。
昭和40(1965)年、遂に日米同盟が締結され、それとともに久々に帝國国防方針が改訂された。米ソ間で進むデタントなどへの外交的配慮もあって、名指しこそ避けられているものの第一の仮想敵国はソ連とされており、明治40年帝國国防方針以来続くアメリカを仮想敵国とする海軍軍備計画は完全に覆されたのである。
その時点での主要戦力は以下の通りである。
戦艦×4(長門、大和、武蔵、信濃)
空母×7(加賀、翔鶴、瑞鶴、大鳳、翔鷲、鳳翔、蒼龍)
コマンドー空母×6(飛龍、祥鳳、瑞穂、日進、若宮、新高)
重巡洋艦×4
軽巡洋艦×19(うち防空巡8)
駆逐艦×156(防空駆逐艦×36、艦隊型×61、対潜型×29)
海防艦×56
原子力潜水艦×1
潜水艦×108
5.対潜海軍か対地海軍か
海軍は昭和38年の兵部省設置にあわせて第9次軍備充実計画の策定を急いだ。そして次世代の海軍の有様について2つの見解が示された。
1つはソ連海軍の巨大な潜水艦隊の撃退を目標として強力な対潜海軍を構築すべしというものである。主な提唱者は駆逐艦乗りを中心とする水雷屋であったが、その熱心な様を見てこれまでの海軍の対潜作戦の担い手でありながら冷遇されてきた海上護衛総隊や支那方面艦隊の面々は苦笑したとも呆れ果てたとも言われる。しかしながら、米ソ両軍が潜水艦の原子力化を進め、その能力は急激に向上していることを鑑みれば対潜への注力は至極当然のことのように思えた。
この主張は多くの海軍士官より支持を得た。海軍の相手は敵国の海軍という日本海軍の伝統的な価値観に合致するからである。また海軍を中心とする戦争観も海軍士官たちの心を惹きつけた。
もう1つは実際に生起する可能性が高いのはソ連との全面戦争ではなく台湾や朝鮮半島における局地紛争であり、それに対応する為に水上艦の対地火力向上や水陸両用戦部隊の増強を図るべきであるというものである。さらに日本は島国ながら大陸に近いので周辺国は比較的小型の上陸用舟艇を多数使用する着上陸作戦を実行可能であり、そうした攻撃に対応するには断続的になる航空攻撃よりも持続的な攻撃が可能な艦載砲填兵器による方が効果的であるという主張も同時になされた。
主な提唱者は核兵器の登場と航空機の発達により艦隊決戦の主役の座を失った戦艦や巡洋艦を中心とする大砲屋で、大戦時に各種の上陸作戦に接してからアメリカ海兵隊的な組織への発展を目指すようになった海軍陸戦隊も同調した。
対地海軍は伝統的な海軍観から逸脱していたが、アメリカと同盟関係になり、ソ連海軍は甚だ貧弱で、欧州列国海軍もアジアから撤退していく状況では大規模な海軍同士の戦闘が生起する可能性が低く、若手士官を中心により現実的な構想と見る向きもあった。また元来上陸作戦は陸軍の担当であり、それを海軍が担うようになれば陸軍との予算争いの面で有利になるという考えもあった。ただ海軍作戦が陸軍作戦に従属するものになることを恐れる声が強かった。
さらに兵部省からは海軍にも戦略核部隊の創設を要求してきた。当時、兵部省は空軍を中心に報復核戦力の充実を目指していた。その中心は巨大な核爆弾を運搬可能な唯一の兵器であった重爆撃機であったが、核の小型化、戦略弾道弾の実用化の目処がついたことから核兵器のミサイル化、さらに米ソと同様に潜水艦に搭載することで生存性の向上を目指したのである。
そうした議論を経て完成した第9次軍備充実計画であったが、その内容は両者を取り入れた折衷という実に日本的な結論であり、当時の大転換を迎えた海軍の混乱ぶりを物語るとともに大艦隊への執着が伺えるものであった。
マル9計画が掲げた海軍の基本原則は2年後に策定された兵部省による最初の陸海空統合計画である第一次国防力整備計画にも受け継がれ、昭和40年代の10年間における海軍軍備の指針となった。
計画の内容は大戦型の軽巡洋艦の半数と戦艦の配備数を維持し、対潜駆逐艦の増勢、潜水艦の対潜艦化、海軍陸戦隊の両用部隊化を図るというものである。ただ陸戦隊の母体となる揚陸艦については第二次大戦時からの戦車揚陸艦が主体で、充実しているとは言いがたい。この当たりが駆逐艦部隊の発言力の大きさが伺える他、強力な揚陸船団を保持していた陸軍船舶兵団との兼ね合いもあったのだろう。
その基本戦略は前述の水上機母艦改造コマンドー空母1隻にヘリコプター搭載型駆逐艦1隻とアスロック搭載駆逐艦2隻の駆逐艦グループ2個を配置した対潜グループを4個編制し、正規空母部隊の援護下でソ連潜水艦掃討にあたり、また鎮守府艦隊は海防艦をもって宗谷、津軽、対馬の三海峡を封鎖してソ連潜水艦の封じ込めを目指すというものである。ただ軍備充実は連合艦隊優先であり、鎮守府艦隊は第二次大戦期に建造された海防艦が退役時期を迎えていたが後継艦建造のペースは低調であり、暫くは既存の海防艦の寿命延長と旧式駆逐艦の移管で凌ぐことになった。
また戦略部隊は原潜開発の遅れから、当面は大型の通常動力艦で戦略原潜の代替として、将来的には戦略原潜5隻体制を目指すことになった。またミサイルはアメリカからポラリスミサイルを導入し、核弾頭のみ国産化することとなった。
その為に必要と算定された戦力は以下のようになる。
戦略部隊
戦略潜水艦×5
水上打撃部隊(2個水上打撃グループ)
戦艦×3
軽巡洋艦×5
防空艦×8
対潜艦×4
空母機動部隊(3個空母グループ)
正規空母×6
防空艦×12
対潜艦×6
対潜部隊(4個対潜グループ)
コマンドー空母×4(後に対潜巡洋艦×4)
防空艦×8
対潜艦×24
潜水艦隊
原子力潜水艦×8
通常動力潜水艦×50
鎮守府艦隊
対潜艦×48
かくして先進国の海軍でありながら砲填兵器主体の艦艇を一貫して現役艦艇として扱う欧米列国にはない奇形の艦隊が20世紀末まで続くことになった。
なお昭和50年末時点における海軍軍備は以下のようになる。
戦艦×3(大和、武蔵、信濃)
空母×7(大鳳、翔鷲、鳳翔、蒼龍、大鷲、天鷲、瑞鶴(練習空母))
コマンドー空母×3(日進、若宮、新高)
軽巡洋艦×10(改阿賀野×5、防空巡×4、対潜巡×1)
防空駆逐艦×24(秋月×4、睦月×12、黒潮×8)
対潜駆逐艦×62(若竹×19、茉莉×10、松×12、山雲×5、改秋風×16)
海防艦×20(色丹×15、菅島×5)
戦略潜水艦×5
攻撃型原子力潜水艦×3
巡洋潜水艦×22
対潜潜水艦×39
6.経済危機とオケアン演習の衝撃
対潜作戦及び対地作戦を海軍の二大戦略とするマル9体制は昭和45(1970)年策定の第二次国防力整備計画に引き継がれた。二次防では従来のコマンドー空母の後継となるヘリコプター空母が計画されたが、正規空母への資金集中のためにヘリコプター巡洋艦へと変更された。海軍の基本戦略である対潜強化よりも正規空母に予算の重点を置いたところを見ると、未だに海軍自身が次世代の自身の有様にについて定まった見方を確立していない事が伺える。しかし、それでも軍備はマル9を基本として着々と進められたのである。
しかし、昭和50年代に新たな変化をもとらす2つの衝撃が帝國海軍を襲うことになる。
1つは日本を襲った経済危機である。昭和46(1971)年のニクソンショックと昭和48(1973)年から始まるオイルショックのダブルパンチは日本の高度経済成長を終焉させたのである。経済成長はそれまでの急成長から一転してマイナス成長に陥り、臣民は急激なインフレーションに苦しめられた。政府はインフレ抑制のために緊縮財政を推し進めた。
当然ながら軍部にも予算削減が求められたし、また今後もこれまでのような高度経済成長を前提とした軍備増強を推し進めることは不可能になった。陸軍は朝鮮派遣軍の大幅な削減、空軍は新型戦闘機の計画中止という形で予算削減を断行し、海軍も軍備縮小を迫られた。
最初に削減対象となったのは正規空母であった。比較的小型で艦載機の大型化に対応できない大鳳の退役が昭和55(1980)年頃に迫っていて、その後継艦計画が進んでいた。しかし予算は認められず、第三次国防力整備計画においても盛り込まれなかったので空母6隻体制の維持は不可能になった。さらに駆逐艦や海防艦の建造計画が縮小され、既存艦の近代化改修で間に合わせることになった。
また佐世保とともに対馬海峡封鎖を担う鎮海鎮守府の縮小が決定され、直属の艦隊が廃止された。さらに内地の鎮守府艦隊も規模縮小が進められた。さらに改阿賀野型の後継となる巡洋艦の建造も延期され、改阿賀野型の最終艦は40年以上も現役に留まることになった。
しかし最大の被害を受けたのは潜水艦隊であった。通常動力艦50隻と攻撃型原潜8隻、戦略原潜5隻の大艦隊を建造するのは到底不可能であったのだ。海軍は取捨選択を迫られて原子力潜水艦整備を優先し、潜水艦の数値目標を通常動力艦20隻と攻撃型原潜8隻、戦略原潜5隻に下方修正したのである。昭和55年時点で通常動力艦は57隻の大所帯であったが、その過半はオイルショック前に建造された艦で、更に原子力潜水艦の代替に過ぎない巡洋潜水艦15隻と戦略潜水艦3隻を含んでいる。オイルショック以降、通常動力潜水艦の調達数は減らされ潜水艦隊は急速にその戦力を減らし、平成2(1990)年に20隻まで落ち込むことになる。
もう1つはソ連海軍の急速な増強にある。主力である原子力潜水艦は質量ともに急速に発達を遂げ、さらに日露戦争と第二次世界大戦を経て壊滅的な打撃を受けた水上艦隊の増強も著しかった。特にキエフ級空母の登場はソ連水上艦隊が外洋へと膨張する兆候のように思われた。また海軍航空隊には新型超音速爆撃機(Tu-22Mバックファイア)の配備が進んでいた。
増強が進むソ連海軍はその威力を昭和45年と50年に実施されたオケアン演習によって西側に見せつけた。衝撃を受けた日本海軍は対潜、対水上、対空の全方位に向けて増強を求められたのである。
7.軍拡への舵取り、新対潜部隊構想
海軍はもとより兵部省でも経済危機による軍拡抑制方針を見直す動きが生まれつつあった。昭和47(1972)年にアメリカが南ベトナムより撤退し、昭和50年に南ベトナムが共産国である北ベトナムに吸収されたことは日本にとって衝撃的なことであった。省内では“アメリカは頼りにならず。防衛態勢強化が必要”という意見が徐々に大きくなってきた。
さらに日本国内でも国防を揺るがす大問題が起きていた。昭和51(1976)年にソ連のミグ25戦闘機が空軍の防空網をすり抜けて函館に着陸し、パイロットが亡命を求めてきたのである。この事件によって国防に関する様々な問題点が浮き彫りになった。
これらの事情により昭和53(1978)年に国防方針が閣議決定で変更され、三次防の内容も改訂された。
折りしも昭和54(1979)年のソ連によるアフガン侵攻により新冷戦と呼ばれる時代が始まった。西側では新保守主義と呼ばれる政治家たちが台頭し、軍拡ムードが強まった。ニクソンショック以降の経済危機を乗り越えた日本も同様で、昭和57(1982)年に成立した新内閣は行政改革と軍備拡張を推し進め、そのムードは昭和55年策定の第四次国防力整備計画にも反映された。
改訂三次防で示された海軍の所要兵力は以下の通りである。
戦略部隊
戦略潜水艦×5
水上打撃部隊
戦艦×3(大和型)
巡洋艦×4(栗駒型)
防空艦×2
対潜艦×4
空母機動部隊
正規空母×5
防空艦×10
対潜艦×8
対潜部隊
対潜巡洋艦×4
汎用駆逐艦×24
防空艦×8
潜水艦隊
原子力潜水艦×8
通常動力潜水艦×20
鎮守府艦隊
防空艦×1
対潜艦×40
改訂三次防及び四次防では、まず海軍艦艇の質的増強が図られた。特に防空能力の強化は最優先で進められ、新型空母艦載機の<旋風>の配備や各艦艇への短距離艦対空誘導弾やCIWSの搭載による個艦防空能力強化が進められた。さらに昭和60(1985)年に就役予定の翔鷲後継空母を原子力化することを決定した。
海軍の主要部隊である対潜部隊の改変も決定した。これまでのハイローミックス体制を改め、所属する駆逐艦全てにヘリコプターを搭載して広大な海域を長時間継続的にカバーできる体制を目指したのである。一次防から二次防に整備されたアスロック搭載駆逐艦は順次新型艦と交代し、ヘリコプター搭載駆逐艦である山雲型駆逐艦は近代化改修が施された。そして改訂三次防艦隊を担う新型駆逐艦として夕霧型駆逐艦の建造が始まった。夕霧型は対潜ヘリコプターとアスロックミサイルを装備して優れた対潜能力を備えるとともに、ハープーンミサイルとシースパローミサイルを装備して対水上、対空もこなす汎用駆逐艦であった。
さらに昭和55(1980)年時点でも半数近くが第二次大戦型艦が占めていた鎮守府艦隊の海防艦戦隊にもようやく近代化の波が押し寄せ、以降の10年間で淡路型海防艦の配備が急ピッチで進んだ。
一方、水上打撃部隊の強化も実施された。栗駒型巡洋艦に続き大和型戦艦の近代化改修が実施された。しかし二番艦武蔵の老朽化が予想以上に進んでいたことから近代化改修は中止となり武蔵は退役となった。
さらにソ連水上艦隊への対抗のために陸上航空隊の戦力増強が図られ、夜鷹爆撃機及びオライオン対潜哨戒機の配備が急速に進められた。
また中東の事変から始まる石油危機、経済危機は海軍と陸軍の両用作戦の主導権を巡る争いに終止符を打った。予算上の問題が生じた上に、中東事変に対する日本軍の介入も本格的に考慮しなくてならない情勢となり、その場合は陸軍単独での遠征は不可能だからである。かくして第1派として敵前上陸を実施し橋頭堡を確保するのが海軍陸戦隊で、その後に橋頭堡拡大を陸軍が担うという役割分担が確立した。そして揚陸艦の更新もようやく動き出した。改訂三次防及び四次防を通じて知床型揚陸母艦が4隻整備され、海軍陸戦隊はようやく現代的な揚陸艦を手に入れたのである。
8.シーレーン防衛構想
昭和50年代末、昭和61(1986)年からの第五次国防力整備計画を策定すべく政府、兵部省、軍部が動き始めた。海軍部門における争点は昭和60年代後半―つまり平成初期―に就役予定の鳳翔後継空母であった。しかし兵部省を中心に空母5隻枠維持に懐疑的な意見が広く見られた。
兵部省は昭和60年代中に対潜部隊の一新を達成したいと考えていて、その為には五次防の期間中に多数の汎用駆逐艦を建造する必要があった。さらに原子力潜水艦、揚陸母艦、大型補給艦などの大型艦艇や大量の海防艦の建造計画が控えており、空母を優先すればそれらの計画が遅滞することが確実であった。ソ連海軍を最大の仮想敵とする今の海軍が遠隔地での攻勢作戦時に最大の威力を発揮する空母に沿岸防衛を疎かにしてまで力を入れることを疑問視する声が多かった。また陸上航空隊は五次防においてさらに60機の夜鷹追加配備を求めており、その為には空母機動部隊の削減もやむなしと考えていた。
折りしも時の内閣は“シーレーン1000海里防衛構想”を掲げていた。それは日本列島と台湾を結ぶラインでソ連軍の進出を阻止するとともに、日本からグアムまでの航路を安全を確立することにある。その実現のためには十分な打撃力を持って、空中及び水上艦、潜水艦などのあらゆる脅威に対抗できる作戦単位が必要であると考えられた。その回答として五次防では従来の機動部隊と対潜部隊、さらに潜水艦部隊が統合され、1つの作戦単位として扱うことになったのだ。
この構想が海軍連合艦隊を中心とする空母5隻維持派にとって致命傷となった。対潜部隊は4つしかないし、空母にあわせて新たに対潜部隊を増設するには莫大な予算と時間が必要な上に、数合わせの為に旧式艦を今後も長期に渡って維持する必要が生じるからだ。それよりかは部隊数を4個として空母も減らし、その浮いた資金を質的向上に費やす方が総合的に戦力向上になる。“量より質”というのが結論であった。
原子力空母の就役により隻数を削減しても、艦の原子力化、大型化により戦力を維持する見込みもできたこともあり、鳳翔後継艦は建造されないことになった。余剰となった艦載機部隊は夜鷹飛行隊ないし陸上哨戒機部隊に改編され、一部の部隊は陸戦隊支援の為に対地攻撃部隊に再編された。
昭和60年に五次防が策定された。それでは新たな機動部隊を創設して空母、対潜部隊をそこに集約して海軍の主力とすることが決められた。機動部隊は必要に応じて原子力潜水艦が配属されることになり、そのために攻撃型原潜が従来の8隻から12隻に増強され―対価として通常動力潜水艦は16隻に削減された―、また空母は4隻に削減されることになった。
五次防において示された海軍の所要兵力は以下の通りである。
水上打撃部隊
戦艦×2
巡洋艦×4
防空艦×2
対潜艦×4
機動部隊
正規空母×4
対潜巡洋艦×4
汎用駆逐艦×24
防空艦×16
潜水艦隊
戦略原潜×5
攻撃型原潜×12
通常動力艦×16
鎮守府艦隊
防空艦×1
対潜艦×40
陸上航空艦隊
陸上攻撃機×120
対潜哨戒機×120
五次防の艦隊構想は概ね20世紀末まで大きな変化もなく引き継がれていくことになる。
9.五次防艦隊の完成と今後
平成3(1991)年、山雲型の近代化改修と夕霧型の整備が完了し、五次防の機動部隊は完成した。それに付随する原潜増強も平成4(1992)年に念願の戦略原潜5隻体制を、平成6(1994)年に新鋭原子力潜水艦である球磨の就役で攻撃型原潜12隻体制を達成する。四次防及び五次防では数的には減少しているものの、全体的な近代化が進み、合計排水量も増加した。六次防以降は艦隊の規模と編制を維持しつつ近代化を推進していくことになる。
主な事業を取り上げればイージス防空駆逐艦冬月型、二番目の原子力空母である天雀、第二世代汎用駆逐艦五月雨型、新型海防艦与那国型といった艦艇の整備である。与那国型は鎮守府艦隊の従来の任務である沿岸における対潜活動だけでなく外洋において主力艦隊の作戦にも参加できる高性能艦である。
揚陸艦の増強なども行なわれたが、艦隊主力の近代化計画については平成7(1995)年の第七次国防力整備計画にだいたい盛り込まれ、平成10年代前半に概ね完成する見込みである。
今後の海軍に有様についてはまだまだ不透明である。課題として挙げられているのは、平成10年代後半に退役時期を迎える対潜巡洋艦4隻の後継艦であるが、正規空母に機能を集約する案や新型ヘリコプター揚陸艦と兼用にする案なのが出されている。
既に新型多目的揚陸母艦である能登の建造が行なわれ、平成13年度に就役予定である。対潜巡洋艦後継艦の有様は能登における運用試験の結果をまって下されるであろう。
海軍現有主要戦力(平成12年4月時点)
戦艦×2
正規空母×4
巡洋艦×4(栗駒×4)
対潜巡洋艦×4(芙蓉×4)
防空駆逐艦×19(黒潮×5、舞風×9、冬月×7)
汎用駆逐艦×28(山雲×3、夕霧×16、五月雨×9)
対潜駆逐艦×7(松×7)
海防艦×33(菅島×10、淡路×18、与那国×5)
原子力攻撃型潜水艦×12
原子力弾道弾搭載潜水艦×5
通常動力潜水艦×16
戦闘機×124
陸上攻撃機×120
対潜哨戒機×122
神楽「というわけで今度は海軍。アンチ海軍善玉論者らしく海軍には手厳しい内容」
荻原「で、次は空軍ですか?」
深海「いやぁ、それがまだない」
荻原「えっ!」




