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世紀末の帝國 第二次世界大戦後陸軍概要

 独楽犬の自己満足第一弾

1.終戦と支那内戦

 昭和21(1946)年に第二次世界大戦の終結したが、日本陸軍にとって平和の訪れとはならなかった。中国で内戦が始まったからである。

 大戦終結後に満州は分割された。北側に中華人民共和国が成立して、南の中華民国と対立している。それがアジアにおける東西冷戦の最前線であった。そして両者の間で激しい戦いが始まったのである。

 日本陸軍は大戦終結時には歩兵師団61個、戦車師団4個の兵力を保持していた。うち内地には戦車師団1個、歩兵師団11個を配備しており、どれも1944年に連合国軍が朝鮮半島において釜山に追い詰められた時に編制された200番台の本土防衛師団である。そして欧州には12個師団が展開しており、朝鮮には4個師団が駐留していた。そして残りの兵力、3個戦車師団及び34個歩兵師団が満州に配置されていた。当面の日本陸軍の任務はソ連及び中華人民共和国の攻撃から中華民国を守ることにあった。

 しかしながら65個師団に及ぶ大兵力を維持し、250万人に及ぶ青年男子を軍に拘束することは世論上も経済上も許容されないことであり、兵力削減が迫られていた。

 陸軍は欧州派遣の12個師団をドイツ西部占領任務の為の4個師団(第61~64師団)に再編した。これが所謂60番台の欧州師団である。さらに戦地から常設師団を復員させ、それにあわせて順次本土防衛師団を解散した。ただ対ソ防衛の必要から北海道及び樺太の3個師団(第201、209、211師団)は維持されることになった。また多くの各種独立部隊もこの時に廃止された。

 そして陸軍は終戦の翌年、昭和22(1947)年初頭に新たな軍備計画を策定した。陸軍部隊の兵員160万人(平時編制)、現役師団47個へと兵力を削減するというものである。これが第二次軍備充実計画で、ソ連及び中華人民共和国の正規軍を念頭に置いて、装備の近代化により全面戦争に備えるというものであった。

 それによると平時編制は内地18個歩兵師団及び1個戦車師団、台湾1個歩兵師団、朝鮮4個歩兵師団、支那16個歩兵師団及び3個戦車師団、欧州4個師団となる。

 特に支那駐屯部隊を統べる関東軍にはソ連との相対する部隊として重視され3個戦車師団から成る機甲軍を含む精鋭5個軍が配備され、装備更新も最優先されることになっていた。そのうち歩兵2個軍が共産中国との国境線に配備され、他の2個歩兵軍が第2線を形成し、各師団は独自に戦車隊を持ち、それとは別に各軍には機動打撃用の戦車旅団や複数の野戦重砲連隊、そして軍内の全砲兵を指揮する権限を有する砲兵司令部が置かれる。一方、機甲軍がその間で反撃を引き受ける計画であった。

 だが大陸では中国共産党の支援を受けたゲリラが各地で遊撃戦を展開し、内戦状態に陥った。日本陸軍は介入せざるをえなくなり、中華民国軍並びにアメリカ軍とともに泥沼の内戦に引きずり込まれることになる。

 当初、日本陸軍の介入は軍事援助、軍事顧問団の派遣程度であったが、昭和20年代後半になると共産軍の抵抗が激しくなり日本軍部隊が直接介入するようになった。ゲリラ討伐と為に各師団から大隊単位で部隊が引き抜かれ、多くの独立混成旅団が編制された。これらの部隊は最初の頃には関東軍が直接指揮していたが、後に支那警部司令部として独立した。

 しかし、第一線部隊から多くの部隊を引き抜いた結果、正規師団の戦力が穴だらけになり大きく落ち込むことになった。


2.軍の近代化

 ゲリラとの非正規戦という想定外の戦場に直面し、策定したばかりの軍備計画の修正を迫られることになった陸軍ではあるが、兵員削減と近代化は滞ることなく実行された。

 昭和22(1947)年4月、一部部隊を除き戦時編制が解かれて多くの兵士が復員し、兵員は200万程度に落ち着いた。その一方で新型装備の配備と機械化、自動車化が進められた。

 主な新型装備を挙げれば五式中戦車とその車体を用いた各種派生型車輌である。

 五式中戦車は550馬力の液冷式ディーゼルを搭載し、八八式高射砲を改良した44口径75ミリ主砲と37ミリ主砲を装備した強力な戦車で、アメリカ軍の開発した各種特殊徹甲弾を使えばT-34-85に対抗できた。昭和23(1948)年には発動機を空冷ディーゼルに換え、副砲を廃して主砲をアメリカ製の52口径76.2ミリ砲に換装して火力を上げている。さらに50年代には砲塔を一新して主砲を90ミリ砲に換装した五式中戦車改が登場している。

 その主な派生型として五式砲戦車と七式自走砲がある。五式砲戦車はソ連戦車に対抗する為に五式戦車の車体に105ミリ戦車砲と固定砲塔を備えた対戦車車輌である。主砲は後に三式高射砲を改造した120ミリ主砲に換装されている。

 七式自走砲は五式戦車の車体に105ミリ榴弾砲M2を備えた密閉式砲塔を載せた自走砲であり、一式105ミリ自走砲の後継として開発された。密閉式砲塔は戦場では最も危険な敵の砲弾の破片から乗員を守り、また九七式戦車の車体を用いた一式に対してより大型の五式戦車の車体を用いたことで砲弾をより多く搭載できるようになった。

 またそれと並行してアメリカからの装備導入が進められた。M26重戦車やM24軽戦車といった戦車。203ミリ榴弾砲M2(ア式二十糎榴弾砲と呼称)、155ミリ加農砲M1(ア式15糎加農砲と呼称)といった野戦重砲。それに各種牽引車やトラックなどである。これらの新装備は軍の近代化に大きく貢献した。

さらに重砲の不足を補うために各種の噴進(ロケット)砲の開発が進められ、昭和24(1949)年に正式採用された九式24連装十三糎噴進砲はその決定版であった。

 だが、これらの新型装備や近代化の恩恵に与れたのは関東軍部隊だけであった。

 戦車を例に見ると上記の装備を関東軍が導入していた頃、内地や朝鮮の戦車部隊の主力は新砲塔型九七式中戦車や一式中戦車が占めていた。支那警備司令部隷下の部隊に至って新砲塔への改造さえしていない九七式中戦車や八九式中戦車の姿もあった。

 組織面でも格差が目立った。関東軍歩兵師団には固有の連隊規模の師団戦車隊が設けられ、また砲兵連隊は自動車化された10センチ榴弾砲装備の直接支援大隊3個と15センチ榴弾砲装備の全般支援大隊1個から成る部隊に改編された。しかし内地師団は師団固有の戦車部隊を持たず、砲兵連隊も7センチ半野砲と10センチ榴弾砲の混成の直接支援大隊のみから成っていて、馬曳の砲も多く残存していた。

 内地部隊の近代化が進むのは昭和37(1962)年の大陸大撤退を経た後のことである。

 なおドイツに駐留する欧州派遣軍4個師団はアメリカから装備を貸与され、アメリカ式の訓練を受けた完全自動車化師団であった。そのため、これらの師団は陸軍近代化の試金石として機能した。故に当時の士官たちにとって欧州師団勤務は出世コースであり、実際に大陸撤退以降の陸軍参謀総長は全員が欧州師団勤務経験を持っている。


3.空軍の独立

 昭和20年代末に近づくにつれて日本の国防体制に重大な転機が訪れようとしていた。すなわち独立空軍の創設である。

 空軍独立論は昔より存在した。特に昭和10年代に入るとソ連の航空兵力増強やドイツの空軍独立の影響から陸軍から空軍独立の提案がなされたが、海軍の反対により潰れたことがあった。

 そして第二次世界大戦後、再び空軍独立が叫ばれるようになった。その背景には大戦中のソ連爆撃機による本土空襲の経験から統一的な防空組織の必要性が訴えられるようになったこと。そして核兵器の登場により、その運用を担う戦略爆撃部隊が必要になったことがあげられる。

 そこで海軍は再び反対論を掲げた。陸軍主導による空軍独立を嫌い、また艦隊決戦において重要な役割を果たす陸攻隊を手放すことになるからだ。

 結局、対艦攻撃任務の為の陸攻隊は引き続き海軍に所属し、最初の空軍の軍令機関総長を海軍側から出すという譲歩が海軍側に対して為され、ようやく空軍の独立が決まった。

 かくして昭和29(1954)年、陸軍航空隊および都市防空任務を帯びる陸軍高射師団、海軍航空隊の局地戦闘機部隊と一部の陸攻隊が統合されて大日本帝國空軍が誕生した。

 これにより陸軍は都市防空や各種航空作戦という任務を空軍に譲り渡し、前線での陸戦に専念することになる。また陸軍の人員は航空部隊の空軍への移管により130万人程度に削減された。


4.核の時代と欧州撤退

 欧州派遣部隊は欧米各国陸軍の装備や戦術の思想を吸収する上で大きな役割を果たしたが、その一方で内地から遠くはなれた土地への恒久的な駐留は帝國政府にとって大きな負担となっていた。また支那内戦が続き、内地では戦時体制が継続する中、日本の防衛には直接的には関係ない欧州への部隊派遣は国民感情にも反していた。ドイツ第三帝国から分離独立したドイツ連邦共和国の軍備保有に日本がもっとも積極的だったのはそういう背景がある。早くドイツ自身に自国を防衛する能力を持たせて、派遣部隊を撤退させたかったのだ。

 昭和30(1955)年にはドイツ連邦軍が編制され、同時にドイツ連邦共和国はNATOへと加盟して西欧同盟に参加することになった。これによって日本は駐留軍を撤退させることになり、段階的に部隊を削減させて昭和33(1958)年には日本陸軍部隊は欧州から姿を消した。

 その頃、世界では核開発が急速に進められており日本も例外ではなかった。核兵器の小型化技術が発達し、戦略兵器から戦場で使われる戦術兵器へと発展したのである。核兵器は空海軍の管轄と考えていた陸軍も戦術核兵器への対応を迫られることになった。

 陸軍が小型の戦術核兵器を導入したが、投射手段を欠いていた。国産のロケット砲を開発したものの、その性能は芳しくなかった。そこで昭和33年、アメリカから対地ロケット弾であるMGR-1<オネスト・ジョン>を導入して遂に戦術核兵器を戦力化する。昭和36(1961)年には陸軍初のミサイル兵器である二一式誘導噴進砲<菊花>が制式化され、陸軍の核装備体系は充実化していくのである。

 その一方でソ連の核搭載爆撃機を迎撃するための防空強化も進められた。空軍がアメリカから陣地固定式の対空ミサイル、ナイキ・エイジャックスを導入したのを見て陸軍も同様の兵器の導入を決め、昭和40(1965)年に車載式で機動力の高いアメリカ製のミサイルであるMIM-23<ホーク>を導入した。ホークは優れた能力と発展性を有しており、技術の進歩にあわせて順次改良が施され、平成期まで現役であった。ホークは各軍や方面軍直属の高射砲兵連隊に配備された。


5.支那撤退と近代化の進捗

 泥沼化した内戦は昭和30年代には国民党の不利は明らかになりつつあった。腐敗した国民党は大衆の支持を失い、またアメリカや日本では長きにわたる内戦への介入に対して批判が相次ぎ、支援が先細りになりつつあった。

 昭和37(1962)年、遂に国民党政府は瓦解して中華民国は共産党の支配する中華人民共和国に吸収されることになった。日本陸軍は朝鮮に撤退することとなり、大陸での権益の一切を失ったのである。国内では自由民権運動が勢力を拡大しており、この大撤退も相まって陸軍の権力は低下する一方であり、大幅な兵力削減は不回避な状況であった。

 大陸からの撤退後、日本陸軍の基本戦略はソ連や中共による攻撃を朝鮮半島で食い止めるというものに変化し、それに向けて部隊の大幅な改編が行われることになった。新装備や人員の配置は朝鮮駐留部隊を最優先とし、内地の部隊は朝鮮軍部隊の後詰めとしての役割が期待された。また韓国軍への軍事援助も一段と拡大した。

 当時の日本陸軍の兵力は人員100万人、師団数は内地18個歩兵師団及び1個戦車師団、台湾1個歩兵師団、朝鮮4個歩兵師団、支那16個歩兵師団及び3個戦車師団の43個師団で、これらの師団を内地18個歩兵師団及び1個戦車師団、台湾1個歩兵師団、朝鮮8個歩兵師団及び2個戦車師団の30個師団まで減らし、兵力を60万人程度まで削減する計画である。

 幸いなことに満州からほぼ全ての重装備を回収することに成功しており、それを利用して全軍の兵器の近代化、均一化を行うことができた。昭和30年代から40年代にかけては国の軍備に対する方針は核戦力整備中心主義であり、戦車や火砲といった陸軍の主要な装備の更新はあまり重視されなかったが、大陸の重装備を回収して内地の部隊に分配することで全師団の戦力をようやく関東軍優良師団の水準まで引き上げることができたのである。これにより昭和40年代後半までに全ての歩兵師団が師団直属の戦車連隊、全般支援大隊を持つ砲兵連隊を保持するようになった。その一方で大陸での戦いを想定して開発された兵器は支那内戦後の戦略環境の変化に対応しているとは言いがたく、その点では問題があった。

 軍縮計画は昭和42(1967)年までに段階的に実行された。師団は相次いで廃止され、また大陸に配置されていた様々な独立部隊や後方支援組織も廃止されたことで多くの余剰人員が生まれ兵員の削減が可能になった。

 また装備面だけでなくソフト面での改革も進められた。特に人事育成面でそれが顕著だった。

 まず陸軍高級将校の登竜門である陸軍大学校の教育内容が大幅に改変された。戦術教育中心だった従来のカリキュラムに、国際情勢、国家戦略に関する過程が多く盛り込まれ、より大局的な視野を持った高級将校の育成を目指した。そうした改革は段階的に進められ、陸大82期(昭和41(1966)年入学、42(1967)年卒業)時に完成した。

 また高等教育機関卒業者を対象にした甲種幹部候補生制度は多くの下級将校を供給し戦時中の軍拡を下支えしたが、質の方はいまいちだった。そこで韓国陸軍と共同でアメリカ軍のROTC(予備役将校教育課程)を研究し、昭和38(1963)年に学生軍事教育団制度を導入した。学生軍事教育団は志願制で、学費を国が負担するなど多くの特典が用意され学生の意欲を高め、予備士官の質的向上を目指したのである。

 こうした人材育成の改革により生み出された人員が昭和50年代以降の陸軍改革を推し進めていくことになる。


6.昭和40年代末の危機

 支那内戦の軍縮期に質的な強化を成し遂げた帝國陸軍ではあるが、急激な情勢の変化に後手後手に対応したという感が否めず、根本的な部分については以前と変わらなかった。また政府も陸軍の改善に必ずしも前向きであったわけではない。前述したように政府の国防計画は核戦力の整備に重点が置かれ、予算配分も空海軍に多くが注がれていた。その為に前に述べたように新装備の取得は必ずしも陸軍の希望通りにいかず、また人員の充足率も低くなっていた。陸軍の総兵力は60万人程度を目指していたが、実際の兵員数が50万人を下回ることもあった。

 しかしながら昭和40年代後半になると陸軍に根本的な改革を求める様々な危機が襲うことになる。

 第一の危機はアメリカの大幅な政策転換である。ベトナムからの撤退、共産中国との和平、そしてソ連とのデタント外交。こうした一連のアメリカの動きは軍内部に“アメリカ軍は頼りにならず”という空気を生み出した。

 第二の危機はソ連の脅威の増大である。デタント期にもソ連は一貫して軍備増強に努めており、特に海軍力の増強が著しかった。それは日本海が天然の防壁としての機能が失いつつあることを意味しており、ソ連軍の本土上陸の蓋然性が高まった。それは朝鮮半島での戦闘を第一に想定した防衛計画の破綻を意味するものだった。

 第三の危機は経済的な危機である。ニクソンショックとオイルショックのダブルパンチは日本経済の高度成長を終わらせ、急激なインフレが日本を襲った。政府はインフレへの対応のために緊縮財政を実施し、軍部も予算削減を迫られた。陸軍もさらなる戦力削減が求められ、さらに今後もこれまでのような高度成長が望めない以上は後の戦力回復も難しいと判断された。陸軍は否応なく新たな軍縮への対応が迫られることになったのである。

 第四の危機は戦争の形そのものの変容だった。昭和47(1972)年に勃発した第4次中東戦争では壮絶な機甲戦が展開され、わずか数日間の戦車の損失量はアメリカが欧州に派遣している戦車の総数を上回っていた。現代の陸戦は破壊力も展開のスピードも第二次世界大戦時のそれを大きく上回っており、第二次大戦時の陸軍の延長だった日本陸軍に対応できるものではなかった。

 昭和53(1978)年に策定された改定第三次国防力整備計画では本土防衛能力の向上が第一に謳われ、“数から質へ”という軍備の方針が定められた。

 それに先立ち、昭和50(1975)年までに朝鮮軍を中心として師団の削減、部隊の縮小、戦時にのみ動員される部隊の割合を増やして平時の兵力の縮小といった方針が定められ、昭和55年までに朝鮮軍は歩兵師団2個、戦車師団1個までに兵力を減らされ、余剰となった装備は韓国軍に譲渡された。また存続する師団も戦時のみ編制される部隊の割合が増やされ、実質的な陸軍兵力は38万人程度まで削減された。しかし、これらの軍縮は質的な強化は伴わず、陸軍の戦力はガタガタになっていた。


7.教育研究総監部の創設

 新時代に向けて動き出した陸軍が注目したのは、かつての日本陸軍と同じ敗北をベトナムで味わったアメリカ軍だった。アメリカ陸軍ではベトナム戦争期でガタガタになった戦力を立て直すために様々な改革が進められていた。日本陸軍が特に注目したのは新設された訓練戦闘教義司令部(TRADOC)だった。

 TRADOCは各国の軍備や兵器の開発、戦術・戦略の方針を分析し、次世代の戦争のあり方を構想し、それに合わせた将兵の訓練体系や装備開発計画の考案を任務としていた。湾岸戦争で威力を発揮したエアランドバトル・ドクトリンやM1戦車、アパッチ戦闘ヘリコプター、パトリオット対空ミサイルといった各種新兵器はTRADOCの研究結果に基づくものである。

 そうした兵器の研究開発、戦術の研究、そして将兵の教育訓練を一元化することによって統一した思想のもとに強力な軍隊をつくりあげようというのだ。

 日本陸軍もTRADOCの思想を取り入れ、陸軍の教育行政を担う教育総監部の組織改変に乗り出した。参謀本部隷下の陸軍大学校と陸軍省隷下の機甲本部、兵器行政本部の研究開発部門を教育総監部の下に配置換えし、教育総監の下に新たに協同戦術監部と陸軍協同戦術会議が設けられた。

 協同戦術監部は陸軍大学校を配下に収め、兵科の垣根を超えた諸兵科連合戦術や全軍統一の戦闘教義(ドクトリン)の考案を任務として、協同戦術会議は兵科間の意見を交換するとともに各部門から協同戦術監部へと意見を吸い上げ、また新たな戦闘教義の各兵科への浸透を目的としている。

 かくして教育総監部は昭和56(1981)年に教育研究総監部へと改変された。これにより兵科を超えた全軍統一の戦闘教義の作成と、兵器の研究開発から将兵の教育訓練に至るまでの一貫した軍備計画の策定が可能になったのである。

 そして教育研究総監部が最初に掲げた軍備の方針が後述の“4つの近代化”である。


8.4つの近代化

 昭和56年末、協同戦術会議で昭和60年代以降の陸軍のあり方について“装備の近代化、即応化、高機動化、機甲化”という方針が採択された。

 “装備の近代化”とは旧式化が著しい各種兵器の更新であり、新戦車、新型榴弾砲の配備、各種ミサイルの開発・配備、MLRS及び攻撃ヘリコプターの導入といったものがその成果である。

 特に大陸撤退以降に軽視された野戦砲兵の近代化が急務とされ、三一式自走砲及び三九式榴弾砲の装備が急ピッチで進められるとともに、システム化も進められた。すなわち四一式野砲兵射撃指揮装置の配備である。これにより砲兵の射撃指揮のコンピューター化が行われ、これまで以上に迅速かつ高精度な射撃が可能になった。

 “即応化”とは奇襲攻撃、小規模なゲリラ攻撃、外国における事変への対処を念頭に、危機に即座に部隊を展開させ対応する能力を得ることを示す。従来までは平時には中隊以下の部隊は編制されず内務班が組織されており、戦時には予備役兵を動員して増員して内務班を基幹に小隊を編成することになっていた。しかし、この体制では戦時編制の完結まで時間がかかる。そこで連隊以下の部隊サイズを縮小し、師団全体の人員を削減して部隊そのものの機動力を高める一方で、現役師団は常時戦時編制を維持するものとして充足率を高めることを目指した。これが即応化である。

 平成元年までに全て師団が改編され、師団の兵員が平時1万3000人、戦時2万人強から常時1万5000人まで削減され、また朝鮮軍を縮小したことで師団の数も23個師団から21個師団に減らされた。その一方、充足率は高水準を維持するようになり、今日まで陸軍総兵力は42万人前後を推移するようになった。

 “高機動化”は陸軍部隊の戦略機動力を高めることで、少ない兵力で広い戦域をカバーできるようにするという構想である。輸送用の車輌が10年間で倍増され、現役部隊の完全な自動車化を達成した。

 また陸軍船舶兵団に奉天丸型RO-RO型輸送船4隻が新たに配備されるなど国外への遠征能力も増強された。さらに第5師団が海外派遣の第一陣となる緊急展開部隊に再編されている。その一方で船舶兵団は部隊の戦略機動に注力するために、これまで兵団の重要な任務とされていた敵前上陸任務を海軍に任せて放棄することになった。

 前述の朝鮮軍縮小は韓国の高度経済成長を遂げて独力で強力な軍隊を整備することが可能になるとともに、ナショナリズムが高まり韓国民が在韓日本軍削減を求める動きが強まったことが背景にあるが、陸軍が思い切った削減を実行できたのは“高機動化”の方針による戦略機動力の増強で補えるという判断があったからである。

 “機甲化”は現代陸戦において不可欠な戦車と装甲車両によって編制された機動打撃部隊を増強するというものである。“4つの近代化”以前の陸軍においては機動打撃部隊に該当するのは2個旅団編制の戦車師団2個に過ぎず、そのうち1個は朝鮮軍所属で同軍の縮小に伴い廃止されることになっていた。後の師団は装甲車両を増強されている部隊もあるものの、実質的にはどれも軽歩兵師団に過ぎなかったのだ。

 そこで従来までの“戦車師団”と“歩兵師団”という師団の分類が廃止され、代わって戦車及び装甲車部隊から成る機動打撃部隊を“甲師団”、軽歩兵師団を“乙師団”、戦時に編制される特設師団を“丙師団”とする新たな分類法が導入され、甲師団はアメリカ陸軍の86年型重師団に倣い3個旅団から編制されることを定めた。

 朝鮮軍の戦車第2師団が廃止されると、所属していた戦車や装甲車を唯一の戦車師団になった戦車第1師団に移され、同師団は3個旅団編制に改編された。また内地の近衛師団、第2師団、第6師団、第7師団、朝鮮軍の第20師団の5個歩兵師団が甲師団に指定され、戦車が増強されるとともに歩兵の機械化が実施された。

 こうした改編は順次進められ、平成7(1995)年までに完了した。帝國陸軍は戦車師団とそれに順ずる機械化歩兵師団を6個師団保有することになった。

 そうした“4つの近代化”とは別の改革も進められていた。一例として統合常設参謀部の創設が挙げられる。

 昭和51(1976)年のソ連機亡命事件への対応が陸海空軍バラバラで不十分なものになった教訓から、平時より三軍統一の作戦計画立案及び突発的な事態への対処を行う軍令機関の必要性が唱えられた。こうした統合の試みは海軍からの強い抵抗を受けたが、政治主導で協力に推し進められ、昭和59(1984)年に陸軍参謀本部、海軍軍令部、空軍作戦本部の上位に位置する機関として統合常設参謀部が組織された。統常参謀部は平時には三軍の調整機関として三軍共通の作戦計画の作成や合同演習の運営、突発的な緊急事態への対処を行い、戦時には三軍の軍政機関を編入して大本営に改組されることとなる。


9.湾岸戦争以後

 平成2(1990)年の中ごろ、イラクがクウェートに侵攻してこれを占領した。湾岸危機の始まりである。大日本帝國政府は友邦サウジアラビア防衛のために中東派兵を決意し、陸軍は近衛師団を派遣した。

 翌年1月、多国籍軍は武力を以ってクウェート奪還作戦を開始し、湾岸戦争が勃発した。日本陸軍はイラク軍相手に勝利し、“4つの近代化”の方針の正しさを証明した。

 一方、教訓も多く得ることができた。野戦におけるGPSの有用性や通信能力強化、戦略機動力強化の必要性が明らかになった。こうした点は平成7(1995)年の阪神淡路大震災でも確認され、改善が急がれた。

 また装備の近代化もさらに進められた。四四式戦車の改良型、歩兵戦闘車、自走榴弾砲、偵察ヘリコプター、中距離地対空誘導弾などの開発、配備が行なわれた。ただ何れの兵器も“4つの近代化”の延長上のものであり、平成12(2000)年現在においても“4つの近代化”に代わる新たな指針は示されていない。しかしながら、ある程度の方向性は既に規定されているようである。

 おそらく平成10年代における陸軍の最優先課題は軍の情報化であろう。特にアメリカ軍が配備し始めている旅団以下部隊戦闘指揮システムに注目が集まっており、類似のシステムの開発が開始されているという。

 今後は兵器の質量の強化よりも情報化を重視する姿勢になるのは間違いない。情報の伝達を効率化すれば同じ兵器体系でもより威力を発揮できるのだ。ただそうした方針が具体的な計画になるには、まだ時間が必要である。


陸軍現有主要戦力

 兵力

  現役兵:約42万人

  予備役:約140万人

 主要兵器

  戦車2700輌

  火砲2450門(うち自走砲700)

 部隊

  野戦師団21個

   戦車師団1個

   機械化歩兵師団5個

   軽歩兵師団15個

  独立旅団6個

  挺身団(空挺部隊)2個

  山岳旅団1個

  その他諸部隊

  戦時特設師団13個

荻原「えぇと、これは?」

深海「前書きの通り、作者の自己満足だ」

荻原「前の上層部組織図と矛盾がありますが…」

神楽「そのうち修正するってさ」

深海「おい」

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