2.
翌日、店主は目覚めて思わず首を傾げた。
すぐ横で眠っているチカを見つめた、色素の薄い瞳が珍しく丸くなっている。
「これは……」
すやすやと眠っているチカの様子はとても可愛らしいのだけれど、どうも昨日までのサイズとは違う。
浴衣の丈が膝より上になり窮屈そうに見えるし、実際眠っているせいで分かりづらいが、顔つきだって違う。髪も伸びている。
――明らかに成長している。
「どうしたことでしょうかねぇ」
御魂の存在は、自身が望めばどんな姿にも変わることができるのは知っている。
その類なのだろうか。店主は愛らしいまつ毛を下ろして寝息を立てている、チカの頬をするりと撫でて、しかしそんなことを考えても埒が明かないと苦笑した。
どんな姿でも、チカに変わりはないのだから。
さして物事に頓着のない店主らしい判断を下したところで、目の前の少女に声をかけた。
「チカ、朝ですよ。私は起きますが、あなたはもう少し寝ていますか?」
初日に黙って起きたことでチカがむくれて以来、毎朝店主は自分が起きるときにチカに声をかけるようにしている。
チカは店主のこれに少し遅れて反応した。こうして起こされることでさえ、チカにとっては嬉しいことのようで、大きな瞳で店主を見つけると半分寝ぼけたようにだが、にっこりと笑った。
「だっこ」
小さな手を伸ばして店主にねだる様子に、男はこちらも笑いながら応えてやる。
「はい。一緒に顔を洗いましょう」
簡単に蒲団を整えたあと、軽々とチカを抱えた店主は階下に降りていく。そのまま洗面所まで連れていくと、優しくチカを床に下ろした。
床に立ったチカが店主を見上げた後、ようやく異変に気付き奇妙な顔を見せた。
「気づきましたか?」
店主は面白そうに笑いながらチカにタオルを渡す。チカはそれを受け取った後、自分の足元を見下ろしたり手を見たり、そしてすぐ近くにある姿見を見て大きな目をさらに大きくさせた。
「……これは、何?」
あまり年齢としては大きな差はないのかもしれないが、それでも子供の数年の変化は大人より大きい。顔つきや手足の長さ、髪が昨日までと違うことはチカ本人にも一目瞭然だった。
「さぁ……私も何が起きているのか分からないのですが、あなたの魂自身には大きく影響はないみたいですよ」
チカとしての本質、魂の変化がないのは店主が見た時点ではっきりとしていた。だからそれほど心配する必要はないことをチカに説明してやると、少女は驚いたままだが納得したよう頷いた。
「顔を洗って、ご飯にしましょう。……ああ、その前に着替えをしなければいけませんね。その浴衣はもう、あなたには小さすぎますものねぇ」
言ったものの、店主は子供用の着物がないことを思い出して苦笑した。
チカの変化はその日だけではなかった。
数日おきに確実の成長していく少女に、店主は目覚めるたびに首をかしげることを繰り返すようになった。
ほんの数歳ずつでも、それが繰り返されればあっという間だ。そのたびに店主はなじみの呉服屋や近所の住人から、チカのサイズに合った和服を提供してもらい、伸びたチカの髪を切ってやったりした。
「チカ、お皿を出してくださいますか?」
「うん」
店主の言葉に、チカが手を伸ばして皿を取り出す。その様子を見て店主が笑みを誘われた。
この間までは椅子に乗って取っていた皿を、今は手を伸ばすだけで取ってしまった少女が振り返る。
「なぁに?」
長い黒髪を揺らして首を傾げた少女は、美しく成長していた。潤んだ大きな瞳に、白い肌とほんのり赤みを差した頬。ほっそりとしているが決して痩せすぎているわけではなく、背も低すぎない。薄紫の生地に牡丹柄の着物を着ている姿は、目を引くものがあった。
「いいえ。チカが可愛らしいものでつい」
店主の言葉にチカが一瞬驚いたように目を丸くしたが、その直後恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「からかわないで」
「そんなつもりはなかったですが、申し訳ありません」
くすくすと笑いを零す店主に、チカがますます頬を赤くした。
チカは成長しているとはいえ、性格に大きな変わりはないようだ。あまり話すことはなく、店主の言葉に素直に反応を示すし、自身の持っている感情もシンプルだった。
ただここ数日の夜だけは、今までとチカの様子が違っていた。
今まで通り、店主と同じ蒲団で眠っているのは変わらないのだが――明らかに、年頃といっていい姿になったチカと同じ蒲団ということに店主の気も引けるのだが、当のチカが聞かない――眠っている時にうなされたり泣いたりすることが多くなった。
チカ自身が深く眠っているために、起きてしまうことがないのは救いなのかもしれないが、それでも頻繁に見ている店主としては気になってしまうのも仕方がなかった。
もしかしたら、失っているチカの記憶と関係するのかもしれない。実際ここまで成長しても、チカは名前すら思い出せないようだし、よほど深く記憶を封じ込めているのだろう。
だけどそれが、チカの成長と共に浮上してきているのだとしたら、そう遠くない先で、チカはそれを取り戻すことになるのではないか。
店主の優し気な眉間に、わずかにしわが刻まれた。
「どうしたの?」
座卓の向こう側で食事をしていたチカが、不思議そうな顔で店主を見ている。少し考え込んでしまったようだと、店主はゆったりと微笑んで返した。
「なんでもありませんよ。今日はこれから何をしましょうか」
なんでもない日常を楽しむ少女と同じく、店主は少女と過ごすそれを楽しく思っていた。
夕方、チカが珍しく店主のそばを離れていた。夕食の下準備をしていた店主がチカを探しに庭に向かうと、少女は縁側に腰を下ろして、小さいが整えられている庭を見つめていた。
湿度の高いこの時期はとても涼しいとは言えないものの、日が陰ったことでいくらか涼みを帯びた風を受けながら、チカはどこを見るとこもなしにぼんやりとした様子だった。
店主は静かにタスキを解きながらチカの隣に腰を下ろした。
チカはそんな店主に視線を流した。長いまつ毛に囲まれた黒い瞳は、愁いを帯びてしっとりとしていた。
「どうかしましたか?」
店主はいつもと同じように声をかけた。色素の薄い瞳がいつもにもまして柔和に笑みを象る。
「分からない……」
チカもいつものように短く答える。しかしその顔には、どうにもならない寂しさや悲しみのような気配が含まれていた。
「そうですか」
店主は特に何も返さなかった。本人が分からないということに対して問い詰めることはしない。言葉にできない感情があることも、勿論知っているからだ。
「ただ……」
「はい」
「ただ何となく。寂しい……かな」
「……そうですね」
少女の瞳はいつも潤みを湛えている。それは瞳本来の美しさだが、今は感情の揺らぎからくる涙の潤みだった。
店主は細い腕を伸ばしてチカを抱きしめた。成長してしまったチカは、最初のころに比べると店主の腕の中では窮屈そうに見える。しかし店主は長身で、体格も和服に包まれて細く見えるが、チカを抱きしめることに対して苦労などなかった。
ふんわりと少女を抱きしめて、店主は安心させるように自身より小さな背中を叩いた。
「また、話せるようになったら教えてくださいますか? 私はいつでもあなたの味方です」
「うん……」
少女の中でどんな変化があるのかは分からないけれど、今こうしてしてあげられることは抱きしめて、安心させてあげること。
それくらいしかできないことが、店主にとっては寂しかった。