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1.

 梅雨の合間の晴れ間がのぞくある日。

 深い紫色の暖簾を揺らして一人の男が出てきた。背の中程まで伸ばした黒髪に、典雅な和服姿の男は日差しに眩しそうに目を細める。

 ここは聖堂。骨董品を扱う店だ。この店がある場所は戦禍を免れた古い町屋が残る、石畳の通り。車が入れないほど狭い道もたくさんある。だから行きかう人も少なくまた地元民が多い。

 古き良き日本の風景が残っているので、時々観光客らしき姿があるのもまた、この通りの特徴だ。

 聖堂の店主は、長いまつ毛の下の瞳をついと空へと流した。色素の薄い柔らかな印象のそれが、朝方まで降っていた雨の名残を感じさせない晴れた空を見る。

「もうそろそろ明けそうですかねぇ」

 まだ入道雲まではいかないけれど、夏の装いになってきている雲を見て独り言を零す。そのまましばらく辺りを眺めていた店主の瞳に、不意にそれは入り込んだ。

「おや」

 店主の視線の少し先、隣の家屋の影に一人の少女が立っていた。怯えたように大きな瞳を潤ませた少女――少女というにはまだ少し幼いその子は、店主に気づくと慌てて駆け寄って、勢いあまるくらいに店主の上質な着物に縋りついた。

「……どうかしたのですか?」

 店主は少しばかり驚きながらもにこやかに声をかける。少女のまっすぐな黒髪を、ほっそりとした手で撫でてやりながら。

 少女は大きな黒い瞳で店主を見上げた。よく整った、愛らしい顔をしている小さな口許が何かを言おうとしているがうまく言葉にできないらしく、そのうちきゅっと引き結んでしまった。

 店主はそんな少女の視線に合わせるように、ひざを折る。普段から柔和な印象の強い男の表情が一層柔らかく優しく微笑んだ。

「うちに入りますか? 何かお菓子を出して差し上げましょうねぇ」

 困ったように、泣き出しそうに見つめて来る少女の手を、店主はそっと自身の手で包んだ。

 

 店の中に入ると、少女は不思議な感覚を覚えた。その場の空気がとても清浄で安らぐような。そして何よりも今まで見えていなかったものが見えるような感覚。

 今までも見えていたのだが、それはどこか曇って見えているような、遮幕が一枚かかっているような感覚だったのだが、この店に入った途端それがなくなり、色鮮やかなものがいっきに目に飛び込んできたような気がした。

 目を丸くしている少女を、店主は見ながら小さく笑う。

「ここに座っておいでなさい。お茶とお菓子を持ってきますね」

 古めかしい、だけど座り心地のいいソファに少女を促して、店主は一旦離れた。

 奥にある厨房で少女のために冷たいお茶と焼き菓子を、自分用にあたたかなお茶を淹れて再び少女の元へと戻る。

 少女はおとなしくソファにちょこんと座っていた。

「口に合うといいのですが」

 店主の言葉に、少女は興味津々といった様子で出されたものを眺める。そのまま小さな手でお茶を、そのあと焼き菓子を口にした。

「美味しいですか?」

 店主の言葉に少女は小さく頷いた。店主は少し安堵したように微笑し、綺麗な所作でお茶を飲んだ。

「あなたはいつから、あそこにいたのですか?」

「分からない……」

「そうですか」

 初めて聞いた少女の声は小鳥が鳴くように可愛らしかった。店主は答えてくれたことが嬉しくて一層笑みを深める。

 決して高価ではないけれど、質の良い和服姿の少女。髪は黒くまっすぐで腰まで伸ばしている。足もとは足袋と草履。

 今どきではない装いと、何より見かけたときにすぐに分かったのは、少女がすでにこの世のものでは存在。

 ここ、聖堂にある品々に宿っている者たちと同じだということ。

「ここの居心地はどうでしょう?」

 店主の言葉に少女は首を傾げた。

「とっても、気持ちがいい」

「そうですか。ではしばらくここにいるといいでしょう」

「……いいの?」

 少女は意外なことを聞いたように瞳を瞬いた。しかし店主は何を気にすることがあるのかと言わんばかりに笑いを零した。

「出会ったのも何かの縁でしょうしねぇ。店の中にはたくさんのものがいますし、きっと仲良くなれるものもいるでしょう。私は一向に構いませんので、あなたさえよければいてくださってかまいませんよ」


 店主は少女にチカと名付けた。少女には記憶がなく、名前すら憶えていなかったからだ。

 店主は本来御魂となったものの過去――生前の記憶――を見ることができる。しかしそれは本人が記憶を持っていることが前提である。

 見ようと思えば見ることはできるのだが、店主はあえてそれをしなかった。

 チカにとってそれは、忘れたいからなくした記憶なのかもしれない。

 この幼い少女にとってなくていいなら、店主はわざわざ掘り返す必要を感じなかった。


 チカは店主の後ろをついて回った。聖堂の中では御魂のチカでも生きている時と同じように振る舞うことができる。それが嬉しくてならないチカを見ていると、店主は嗜めることができなかった。

「チカ、お皿を出してくださいますか?」

「うん」

 店主の言葉に、椅子の上に立ったチカが食器棚から皿を出そうと背伸びをした。小さなチカには上にある皿でさえ遠い。店主は食事の準備をしながらチカに視線を止めた。

 懸命に手を伸ばしているチカが可愛らしくて、店主が笑みを誘われる。万が一何かあってはならないので、その辺はしっかりと観察しながら、チカのしたいことを店主はさせるようにしていた。 

食事の手伝い、お店の掃除。庭の手入れなど。本当なら自分がしてしまった方が早いのだが、チカの楽しそうな様子を見ているのが店主にも楽しかった。

 二人で食べる食事もまた、チカは楽しくて仕方がないといった様子だ。食卓を囲みながら、店主は声をかけた。

「早いですねぇ。もう一週間ですが、慣れましたか?」

「うん。大丈夫」

 チカはあまり話すことをしない。何か聞いても、返ってくるのは短い返事くらいなものだ。しかしその分、表情が豊かだった。

 楽しい、嬉しいことにはあふれるほどに笑い、嫌なこと、気が進まないことにはむくれる。そんな当たり前の子供らしいところが店主にも可愛らしい。

 そして店主にとってもこの一週間が賑やかで、いつもより早く感じているのはチカのおかげだった。

 普段閑古鳥の聖堂なので、店主はあまり誰かと会話するということがない。勿論ご近所に買い物に出ては店のものと話すこともあるし、たまに来る客と話すことだってあるが、日常的ではない。

 まぁ、時々昔馴染みの黒い死神が遊びに来ることはあるが、あれも気まぐれで、店主にとってはある意味チカより手がかかる場合もある。なにで日常になってもらってはいささか困るのが現実だった。


 夜、店主は二階の寝室に蒲団を敷く。隣にはチカの蒲団も。

 風呂を済ませて髪を乾かしたときには、すでにチカは眠そうに瞼を下ろしかかっていた。浴衣に包まれた小さな体を軽々と抱きかかえてやり、店主はチカを蒲団に寝かせる。

「お蒲団を蹴飛ばしてはいけませんよ」

 チカの額髪を優しくすいてやりながら店主は小さく笑った。それにチカがうっすらと目を開けた。

 店主の顔を見ているのか見ていないのか分からないチカは、ころりと身体を動かし、そのままころころと店主の蒲団まで移動して行った。

 そこで気持ちよさそうに大の字で、あっという間に眠りに落ちていった。

「そこは私の場所なんですがねぇ……」

チカは必ず、店主と共に寝ようとする。それは初日からだった。

 いくら蒲団を敷いても必ず店主のそこに潜り込んでくるので、店主も呆れながらも受け入れているのだが、寝ぼけていてもそれは変わらないようだ。

「仕方ありません。もう私も寝るとしましょう」

 店主が寝るにはまだ少し早い時間だが、健やかに可愛らしい寝顔を見せられてはこの場を離れるのは気が引ける。こうして安心してくれているのは素直に嬉しいことでもあった。

 チカに蒲団をかけてやりながら、店主は部屋の灯りを落とした。

 横たわり、小さな背中をあやすように触れてやると、チカが小さく身じろぎする。甘えるように店主にすり寄ってきた子供に、店主の顔が綻んだ。

「あなたは一体どんな子に成長したのでしょうねぇ。器量がいいのできっととても美人になったでしょう」

 将来がもうない子供のことを悲しく思いながら、店主はチカの柔らかな頬を優しい指でひとつ撫でた。


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