面張牛皮(三十と一夜の短篇第24回)
とある男がいた。
「楽して生きたい。楽しく生きたい。あぁあああああ、宝くじが当たったらいいな、買ってないけど」
男はだれからも好意を持たれることのない人であった。
外見は極めて普通、凡人でしかなく、才能としても凡人でしかないものであった。その性格も、優れたところなど何もなく、人のいいなどもない。
悪人というほどの、凶悪な感情を持っているわけでもなく、また、大きく悪事を犯すほどの度胸などなかった。
男の趣味は、ギャンブルと女遊び。
けれど酒、煙草などは全くなのであった。
人付き合いが上手いというわけでなく、男のために貢いでくれるような人などが、いるはずもない。
それであるのだが、彼の財源の多くは、自分の働いたものよりも他人からもらったものの方が多かった。
本人の収入が少ない、というものも理由にはあるかもしれない。
「こんにちは」
「はい、こんにちはー」
挨拶に笑顔で挨拶を返すことはできるのであるが、そうであるのに、第一印象で与える好感をなくしていくことの、プロフェッショナルのような男である。
なぜならば、男は遠慮という言葉を知らないからであった。
そして、あまりに自分の欲に忠実であるからであった。
幼い頃から男はそうなのであった。
これは、小中学生の頃のこと。
「必要ないのならもらえないか?」
そう言って、だれも必要ないなどと言っていなくとも、大体のものを他人からもらっていたのであった。
日本人というのは不思議なもので、嫌であっても、そうはっきりと嫌とは言えないようなことがあるものだ。
無理だとはっきりと断らなければ、男はそこに付け込むような人であったというのに。
給食のおかわりを、必ずもらうくらいのことは、そう珍しいことでもないのだろう。
ただし彼は量を食べる方ではなかったので、先生に隠れて持ち帰ってしまうことがほとんどであった。
それだけで彼は終わらない。余りでなくてももらおうとするのがこの男であった。
これは、小学校から高校までの十二年間のこと。
男は自分の文房具を持ったことがなかった。
というのも、貸してくれと言ったなら、貸してくれる人が、どのクラスでも一人くらいはいてくれるからだ。
頼られて断れない人が、いくらだっているものだからだ。
「筆箱を忘れちゃったから、貸してくれないかな?」
そう言って頼む男は、悪びれる様子を見せたこともなく、さもそれが当然かのようにすらしていた。
忘れたなどと、忘れる筆箱を持ってもいないくせに。
貸している側だって、毎日のことならばそれはわかることであろうが、忘れたので貸してくれと男は頼むのである。
ノートさえ、小中学校は配布されたもので、高校に至ってはルーズリーフをもらってのことであった。プリントなどの裏面の白紙を使うことも多かった。
それでもきちんと板書はするのだし、それなりレベルに勉強はできる。それなりレベルの高校へ入っている。
そういうところもまた、男の凡人らしいところであったろう。
やがて大人になった男は、普通の会社に普通に就職した。
どこを取ってもやはり普通だったのだが、その遠慮のなさと、欲深さというのは普通というには過ぎており、学生時代から男は変わりはしていないのであった。
仕事を始め自ら収入を得るまでになったというのに、極端に収入が少ないだとかそういうわけではないというのに、彼は新たなものに魅力を感じてしまっていた。
最初に言ったように、男の趣味はギャンブルと女遊びである。
金が掛かるのだ。
なのだから男は人に集ることを止められないのだ。
「金がほしい。もっと楽して楽しく生きたい」
あまりに欲望に素直であった男は、口に出してそのようなことを言うような人であった。
人前であろうと、それこそ仕事場で仕事仲間と一緒にいるのだとしても、男は平気でそのようなことを言うのだ。
そうして金を貸してくれと、誰彼構わず頼み込むのだ。
頼む料金というものも、遠慮が含まれているだとかではなくて、自分が上手いように借りれるように、上手いラインを探すのだった。
高すぎない、人を選ぶ、男は人にものをもらい慣れていた。
男はそれに慣れていることと同時に、陰口を叩かれていることを知っていても、それを無視して気付いていないように自分を騙すのが何よりも上手かった。
そこもまた、凡人とは違うところであったのかもしれない。
ある意味では才能と呼べる。そういった場所で才能を持っていた男は、本人はそう望むばかりであったが、十分に楽して生きているのであった。
男は努力というものを知らず、愛というものも友情というものも知らなかったかもしれないが、上辺だけで見せられたそれを信じるという才能を持っていたので、そこに何かを思うでもなかった。
極端な言い方をしてもいいのなら、ポジティブだというわけだろう。
努力の末に手に入れる、そんな発想は持ってもいない男であったからか、男は”もったいない”という感情は、少しも持ち合わせていなかった。
ただほしいと思うから手に入れ、いらないと思うから捨てる。
男に必要なのは、それだけのことであり、「ほしいものは自分の手で掴み取ってこそ価値がある」などと言う言葉が、この男の正反対には存在しているのであった。
したいように、気ままに、けれどそれ以上を望むようにもっと楽して生きたいものだと男は望んでいた。
そのような男が、偶然に出会った女がまた、とてつもない美人であって、また男の好みをそのまま具現化したかのような女なのであった。
いつものような女性と触れ合う目的でなくて、珍しく酒を飲みたい気分であったものなので、初めてにも近しく男が女性サービスのないただの居酒屋へ行ったときのことなのであった。
隣の席にいるだけの、関わりなど持つはずのない、同じときに同じ店にいただけの、単なる客同士なのである。
二人とも一人でいたことも、幸運な偶然とするならば、運命とも呼べることかもしれない。
「あなたのようなお美しい方が、お一人でこのようなところにお越しなのですか?」
一目惚れ、男は話し掛けてしまっていた。
プライドなど少しも持っていないからだろうか。人見知りも緊張も、経験がないこの男は、断られることを恐れることもなく、何を思われることも何と言われることも厭わないのだった。
やはりそれは、行きすぎてはいるものの、ポジティブと言えることなのだろう。
「あら、美しいだなんて、揶揄わないでくださいまし。本当にあたしが美しかったらば、素敵な連れがいるはずですし、きっと高級ディナーでもご馳走してくださるはずですわ」
ビールジョッキを片手に、胸元が大きく開きミニスカートの恰好で、よくぞまあそこから口調だけで上品に見えるなどと思えたものだ。
けれど男は周囲など何も見えていないようで、女のその美しい顔と美しい声だけに騙されてしまうのであった。
「ここで話し掛けて頂けたのは嬉しいですけれども、本当に美しいというならば、あたしの分の料金も払って頂けたり、プレゼントを頂けたりするのでしょうね。もらうんならとびっきり大きな宝石がいいわ」
静かに丁寧な口調で、お淑やかな微笑みで女は語る。
「あたしは美しくなって、素敵な男性からの好意を頂きたいものですわ。たとえば、あなたみたいな素敵な方が」
「僕でいいのか。それなら、僕ならば、美しい君にとっくに好意を寄せているよ。君も僕を望んでいるということは、晴れてカップル成立じゃないか。これから僕の家へおいでよ」
「まあ、それは素敵ね。あなたのお家へお邪魔させて頂くわ」
この女と出会ってより、男に変化の兆しが見えていた。
「あたし旅行へ行きたいのだけれど、お金もらえないかしら?」
「あたしもっとお洒落な服がほしいのだけれど、お金もらえないかしら?」
「あたし料亭へお食事へ行きたいのだけれど、お金もらえないかしら?」
二人は交際が始まって、同居へまで発展して、遂には結婚へまで辿り着いたわけなのだが、女の口癖は「お金もらえないかしら?」というものである。
とても男の稼ぎでは、賄いきれるような女ではなかった。そして気持ちもあるとは思えず、男が働いている間に、女が別の男とのときを満喫していることも、明白なことであった。
けれど艶めかしい女の魅力には勝てず、男は一緒にいられるならば、そう文句を言うこともない。男にとっては、女が家を出て行ってしまうことが、女に別れを告げられてしまうことが、何よりも恐ろしいことであった。
人からものをもらうところは相変わらずだが、好きだったギャンブルも女遊びも止め、仕事も一所懸命に死に物狂いでするようになったのだ。
それ自体はよい傾向なのだろうが、男が努力するほどに、女は欲を増していき、その度に男は人を頼る回数を増していった。
そこまで行っても、犯罪には一切手を出さないところと、借金をしようとはしないところは、人から無料でものをもらって生きて来た、男の慣れと性格上のことなのだろう。
そんな日々が四年ほど続いて、男が生きているのか死んでいるのかもわからないほどに、疲労しきってしまっていた頃、それは突然に訪れた。
男が最も恐れていたことであった。
「ごめんなさい。これ以上、あたしのせいで壊れていくあなたを見ていたくないわ。だからあたし、出て行くことにするの。今まで本当にありがとう」
欲は隠れることもなく、言葉だけ思いやりのふりをしても、明らかに乗り換えようとしているのが見え見えであった。
「……逃がすわけねぇだろ。金を払っても出て行くって言うなら、もう金は払わない。自由を与えたせいで、外の世界へと逃げ出したくなるのなら、自由など見せやしない。それで十分かよ」
男は、生まれて初めて大きな罪を犯した。