信号冒進
冬らしい冷たい空気に満たされた神楽町総合運転所の事務所に、人影はほとんどいなかった。
運転所内にある列車の入換えが始まり、遠くで列車がレールを軋ませながら走行する音を聞きながら、ハヤトは事務所一階の入り口から地下の更衣室へ向かった。
入り口を開け、自分のロッカー前まで歩くとハヤトは自然と隣のロッカーに目をやった。
「・・・まぁ、来てはいないよな。」
いつもやかましくはしゃいでいる隣人の不在を確認し、ハヤトは一人呟いた。
高校のときからそうだったが、亮太のバカ話を聞いていると、悩んだ心も晴れるかと思ったが都合よく彼がいるわけではない。
普段はあいつのしょうもない会話を鬱陶しがっているハヤトだが、こと悩みが発生すると亮太の能天気ぶりに頼ってしまうあたり情けなく感じていた。
見てもしょうがない隣のロッカーに蓋を閉めるように自分のロッカーを開け、手早く乗務員征服に着替える。
備え付けの鏡を見て、帽子のてっぺんからつま先まで身だしなみをチェックし、ハヤトは乗務員点呼場へ向かった。
「おう!、高峰!。久しぶりじゃねえか!。」
事務所三階の点呼場入り口のドアをハヤトが開けようとしたときだった。
その声にハヤトが振り向くと、顔なじみの先輩の姿が目に飛び込んできた。
「堀上さん、お久しぶりです。あっ、今は掘上係長とお呼びしたほうがよろしいですかね?。」
「おい、やめろって。先月昇進したばかりで、それ以前に俺は何にも変わっちゃいねえよ。」
中肉中背の男は、気さくな笑い声で返してきた。
堀上は年こそハヤトと十五も離れているが、実年齢より若く見え、どの後輩にも人当たりが良い兄貴分的な存在だ。
本人は気にしているが、おでこの広さがトレードマークになっている。
ハヤトも新米運転士として新任したばかりの頃に、堀上に何かとお世話になっていた。
先月管理職登用試験に無事合格し、堀上は名実共に神楽総合運転所の現場リーダーとして指揮を執っている身だ。
「いや、堀上さんが出世していくことが自分のことのように嬉しいです。これからも頼りにさせて下さい。」
「何言ってんだ。頼るのはこっちのほうよ。俺は現場から遠のく以上、的外れな指示だって出すかもしれん。そのときは嫌な顔せずよろしく頼むよ、な?。」
堀上はハツラツにハヤトの肩を叩いた。
そう言われるとハヤトはなんだか照れくさくなった。
「はい。」
ハヤトは頭の後ろを掻きながら短く返事をした。
「はは。ええーとそう言や俺何で高峰を呼びとめたんだっけ?。何か大事な用があったからだとは思うんだけど・・・。」
堀上は天井に視線を向けながら、所用の中身がなんだったか思い出そうとしている。
「何ですか、係長になっても度忘れ癖は健在ですか?。」
「この野郎、好きに言いやがっって!。・・・っってああああ!!!、思い出したわ!。」
手のひらに、片方の握りこぶしをポンと叩いて堀上が叫んだ。
それから一瞬の間も置かず堀上は続ける。
「ウェルニアから来てるお姫さんのことで話があるんだ。少し時間いいか?。」
その言葉は、二人に起こっていた笑いを沈黙に変えるのに十分すぎる文言だった。
「王女の無期限研修延期ですか?」
耳を疑ったと言わんばかりに目を丸くしたハヤトは、堀上の言葉をオウム返しした。
「いや、俺もさっき受けた通達なんだよ。ちょうどお前があのお姫さんの世話役やっているし、直接の関係者以外を経由して本人に言うのは情報漏えいになるから早く言わなきゃって思ってたんだ。いやぁ、今日は偶然早く高峰が出てきてくれて良かったよ。」
「研修の中止理由は何ですか?。」
間髪入れずにハヤトが詰め寄る。
ハヤトのただならぬ形相に掘上が気圧された。
「い、いや、それが何にも教えてくれなかったんだ。」
「え?」
ハヤトが詰め寄せていた足を半歩下げる。
ハヤトの普段出さない雰囲気に違和感を覚えつつも堀上は冷静に説明した。
「いやな、俺が連絡を受け取ったのは外務省の役人さんだったんだよ。しかも鉄電で。」
鉄電、その言葉をハヤトは心の中で反芻した。
正式には鉄道電話と呼ばれ、一般の電話回線とは鉄道公社独自に張り巡らされた電話回線だ。
この回線が敷かれたのも、万が一災害や戦争などで一般回線が崩壊した際にバックアップ用に使うためだった。
しかし、現在は鉄道公社専用の回線として、日々の業務に利用されている。
なので、緊急の事態でもない限り、鉄道関係者以外から鉄電がかかってくることはまずない。
その通常では考えられない相手からの電話を掘上は受け取ったのだ。
内容はどうであれ、通達の公的重要度および守秘義務のレベルも必然と上がる。
事情を分かったであろうハヤトの様子を鑑みて、堀上は説明を続けた。
「まぁ、その外務省さんも公には極秘とされてるお姫さんの来訪も知っていたから、そのお姫さんが都合上しばらく日本に来れないそうだ。なるべく早く担当の人に伝えるようにって念も押されたよ。勿論語他言無用の釘も刺されたし。まったく、係長なって早々心臓に悪い仕事をさせやがってよー、国のお偉いさんも。」
半分愚痴に変わって堀上は深くため息をついた。
そんな堀上の心情を気にする余裕もなく、ハヤト脇腹が疼きだした。
無意識に手を横に当て、昨日のことを思い出す。
フェミルが今まで鉄道に関わっていたことが全て内密で、その事にダリアンが激怒して昨日の今日だ。
フェミルの研修中止と無関係であるはずが無い。
それじゃ、彼女とはもう会えないのか。
フェミルのことが心配なのは勿論、マルバラの悲劇に関してハヤトはまだ真相を知らなさすぎる。
フェミルの母が犠牲となったこと、イズンの酒場で罪と言ったアルムの眼差し。
焦りが心臓の鼓動に表れ、ハヤトの呼吸が速くなる。
「・・みね、・・・高峰!!!!。」
名前を呼ばれ、咄嗟にハヤトは顔を上げる。
自分の呼びかけに気づかないハヤトを、堀上が心配そうに見つめていた。
「どうした?。顔色悪そうだけど。あの姫さんに何かあったんか??。」
怪訝そうに尋ねられ、ハヤトは逡巡した。
「い、いや特に、何も変わったことは無いですよ。フェミルは、あっいえ、フェミル様は公務でお忙しいと常おっしゃられていたのでその関係だと思います。それにやはり一国のお姫様ですし、僕も何かと気苦労が絶えなくて心配になっていたんです。はは。」
「なるほど、まあそうだよなあ。あんな美女がいつもお隣にいるんじゃ緊張も拭えねえだろ。普段物怖じしねえ高峰でもそうなら、俺なんて卒倒しちまうよ。まっ美人お姫様の隣にいてるおめえは正直羨ましいぜ!。」
堀上はそう言うなり、またいつもの調子に戻り始めた。
「はは、そうですね。僕も日々勉強だと思って精進します。」
内心を悟られないようにハヤトは引きつりそうな表情をどうにか後ろにしまって答えた。
「ああ、お前なら何とでもなるさ。応援してるぜ。・・・って、やべ、次の運転士が点呼に来るじゃねえか。急がねえと。」
じゃあなと、颯爽な別れゼリフで堀上はフロア奥の点呼場へ駆けていき、ハヤト一人だけがその場に取り残された。
留置線を横切り、エスペランザの待つ発車線にハヤトは着いた。
堀上さんからの思わぬ話に時間を取られたため、、ハヤトは気持ち急ぎめに出区点検を終わらせて運転台で発車準備をした。
まもなく信号は青に変わり、ハヤトは力行ノッチを入れてエスペランザは動き出した。
運転所構内を抜け、本線にさしかかった頃にポツポツと雨粒が前面ガラスに当たる。
雨は徐々に勢いを増し、エスペランザが最高速度の時速百三十キロメートルに達したときには、外は土砂降りになっていた。
雨だとブレーキが利きにくかったり、急加速だと車輪が空転して架線停電が発生するなど、輸送障害に至る要素が何かと増える。
走行音と雨粒が車体を叩く音が相乗し、ハヤトの不安を募らせる。
しかし、ハヤトは落ち着いた手つきでブレーキを操作し、特急エスペランザは始発の京都駅に到着した。
アールブ、日本人、種々雑多な人種が規則正しくホームに列を成し、列車に続々と乗り込んでくる。
人が多いのはいつもの光景だが、普段以上にたくさんの乗客がいるようにハヤトには思えた。
”お待たせいたしました。特急エスペランザ一号、ウェルニア王国直通王都イズン行き、ただいま発車いたします。”
ホームアナウンスが流れ、プルルルルルルと警報ベルが響いた。
ハヤトは乗務員室出入り戸からホームの安全確認をする。
雨が降っているから、駆け込み乗車してくるお客さんが転ばないが心配だったが、無事車掌がドアを閉めて出発合図のベルがが鳴った。
ハヤトは運転席に戻り、出発の指差喚呼をした。
「時機よし、パイロットランプ点灯よし、信号よし、出発進行。」
力行ハンドルをゆっくりと手前に引き、エスペランザはモーターを唸らせながら京都駅を出発した。
京都の下町を横目に、エスペランザはヴォンという圧縮音と共に、ワープ区間である山科トンネルに突入した。
視界が一瞬にして信号の明かりしかない暗黒へ変わる。
また、あの国へ行くのか。
ハヤトの心は、トンネルの暗闇に負けず劣らず沈んでいた。
瞬間、ダリアンが浴びせた言葉がまたよみがえる。
”マルバラの悲劇で母は犠牲になった!”
ハヤトはエスペランザと共に、今まさに悲劇が起きた現場の真っ只中を走っている。
ガタンゴトンというジョイント音と、トンネル内の蛍光灯の灯りがスライドするように前から後ろへと流れていく。
ハヤトにはその灯りが、この事故で亡くなった人たちの魂のように映った。
成仏できない犠牲者が助けを求める声が走行音と共に聞こえてきそうだ。
現実から目をそらすように、ハヤトは青く光る信号だけを見つめ、ギュっと力行ハンドルとブレーキハンドルを握る。
アルムに罪と言われ、ダリアンに断罪されたからといってハヤトには何の非もないはず。
それなのに自分は立場上、罪の意識を拭えなかった。
何百人もの命を奪った組織に属しているのだ。
当時、ハヤトには無関係だったとはいえ、被害者から言わせれば納得できることではない。
しかし・・・。
ハヤトは前方を見つめたまま考える。
自分に何ができただろうか。
過去に戻ってあの悲劇を防ぐとでも言うのか。
絶対安全な鉄道を成し遂げるという道半ばの努力を、さも完遂したかのようにウェルニアの人たちに・・・フェミルに豪語するのか?
自分でも信用に足らない御託しか並べられず、ハヤトは苛立ち混じりに唇を噛み締めた。
そのときだった。
ジリリリリリリリリリとけたたましい警報音が鳴り響き、エスペランザが急減速し始めた。
反動でハヤトは運転台で前のめりに押し出されそうになりながら必死に着席の体勢を保つ。
「な、何だ!!?」
パニックで脈拍が急上昇し、視線が定まらない。
目に飛び込んできたのは、ブレーキもかけていないのにブレーキ表示灯が非常を示していること。
速度計の下に光るATSの動作表示灯に故障のランプはついていない。
ハヤトは頭が真っ白になる寸前のところで何とか現状を確かめようとした。
ATSは長年の改良を重ね、保安装置そのものが故障したら独自の診断回路で装置の異常を発見して自動的に非常ブレーキがかかる仕組みになっている。
しかし、それはあくまでも故障を検知したときの話だ。
今、運転台の故障ランプは何度見ても点灯している様子はない。
信号を見落としたのかと思ったが、ずっと前方に注意を払っていたからそんなはずはない。
ハヤトは自らに問う。
じゃあこのブレーキは何なんだ?
見えない力がウェルニアへの道を阻んでいるような感覚さえハヤトにはあった。
原因を探る思考の暇すら与えられず、エスペランザは無情にもトンネルの中で停止した。
今頃、車内は突然の停車でざわついているかもしれない。
乗客の心境を推し量ろうとしつつ、ハヤトは基本に立ち返った。
異常事態が発生したときは、まず指令に連絡だ。
まだ経験の浅い運転士が、自力で状況を打開しようとして余計にダウンタイムを伸ばしたケースは山ほどある。
スムーズに事を解決するなら、指令の指示を仰がなければならない。
ある程度冷静さを取り戻したハヤトは、列車無線の受話器を手に取ろうとした。
そのとき、ハヤトは遠くに見える景色を見てピタッと動きが止まった。
それは、前方の信号機が進行現示になっていることでも、気温差による結露で視界が霞んでいるからでもない。
エスペランザの数十メートル先にトンネルの出口が見えるが、外の景色から見るに次の大津京駅のホームだった。
目の前の事実を何の疑いもなしに受け入れるならば、エスペランザはワープをしなかったことになる。
はっとなってハヤトは即、手元の切換レバーに目を向けた。
虚数周波数電源供給レバーが“切”のままになっている。
それを見て、ハヤトは非常ブレーキの意味を恐ろしいくらい理解した。
同時に、ハヤトは運転士として最もやってはいけないミスを犯したのだ。
マルバラの悲劇の直後から、虚数周波数受信器は改良に改良を積み重ね、その過程で追加された機能の一つが”電源未投入防止対策”に他ならない。
虚数周波数に異常が無くても、運転士の取り扱い誤りで受信器が動作せず、事故に繋がる可能性がある。
その懸念から追加された機能が、虚数周波数受信器電源未投入時にワープ区間を走行すると自動的に非常ブレーキがかかる仕組みになっている。
機器側に問題は無いので、当然ATSは故障を検知することはないがブレーキは動作する。
そして、虚数周波数受信器の電源入れ忘れは、鉄道公社において”重大インシデント”と呼ばれる公的重大ミスとして扱われるのだ。
もし非常ブレーキが動作しなければ、トップスピードのエスペランザは先行列車に追突する恐れもある上に、隣接駅で副本線と呼ばれる通常後続列車を通貨列車のために退避させる線へ進路を構成していたら、速度の高いエスペランザは分岐点を通過するときに脱線するのは目に見えている。
ハヤトが犯したミスは、まさに信号冒進や速度超過と同じレベルだ。
ハヤトは自らしでかした過ちの大きさに、目の前が真っ暗になった。
心を暗黒に沈めている暇も与えず、列車無線のスピーカーが鳴り出した。
”こちら関西輸送指令です。8020M列車の運転士応答できますか。どうぞ。」
列車番号を聞き、ハヤトは自分が呼び出されていることに気づく。
当然と言えば当然だ。
全列車の運行管理をしている指令所から、特急エスペランザの走行位置は筒抜けになっている。
ウェルニア領内は、まだ指令用の無線設備は導入されていないため、エスペランザが無事ワープを終えたら指令所の位置情報モニターから列車の存在は消える仕組みになっている。
それなのにハヤトの運転するエスペランザはまだ日本国内にいるのだ。
ハヤトから知らせずとも、向こうから状況確認の一報が入るのは自然な流れだ。
ハヤトは苦渋の思いで応答した。
「はい、こちら8020Mの運転士ですどうぞ。」
「そちらの列車、山科トンネル内でのワープが完了していないようですが状況報告願います。どうぞ。」
目の前に誰がいるわけでもないのに、受話器から目をそらすようにハヤトは口を開いた。
「は、はい・・・、その、虚数周波受信器の電源投入失念によりワープせず、非常ブレーキ動作。そのままトンネル内で停車中です。」
一瞬運転室内を沈黙が包み込んだ。
「ええこちら、指令、復唱します。虚数周波受信器電源未投入による非常ブレーキ動作と言うことで内容よろしいでしょうか、どうぞ。」
相手の復唱がたどたどしいのは、何も仕事に慣れていないからではなく、ハヤトの犯したミスが半ば信じられないからだ。
「はい、内容その通りです。」
情けなさ混じりの小さい声でハヤトは応答した。
「了解しました。それでは後続列車の抑止および当該列車の運用変更をします。指令の指示があるまでしばらくお待ちください。なお車掌はお客様への情報周知お願いします。」
ピーっという回線切断音と共に、通話は終了した。
ハヤトは唇を噛み締め、受話器をそっとクレードルに戻した。
今頃お客さんたちは異常に気づいて、車掌はその対応に当たっていることだろう。
視線を運転台に落とし、ハヤトは手をぎゅっと握る。
バカ過ぎるったらありゃしない。
フェミルのことが頭から離れなかったから、虚数周波の電源を入れ忘れた?
そんなの言い訳だ。
自分の不注意がこんな大事件に発展したんだ。
しかし、ハヤトにはもうどうすることもできない。
ただ、指令の命令を待つだけだ。
程なくして、指令から命令が下された。
ハヤトが運転する特急エスペランザは隣接の大津京駅まで運転を継続。
お客様全員降車完了後、列車は臨時回送として神楽総合運転所へ帰還することとなった。