ウェルニア入国
まさに別世界だった。
トンネルを抜けると、数十メートルはあろう巨木が密集するケビュンの森を駆け抜けた。
日本でなら樹齢千年はあろう樹木が茂る森となると、太陽の光は差し込みにくいはず。
だが、それはここでは通用しない常識だと分かった。
無数の葉の隙間から差す太陽の光の筋が地面の草木を照らして辺り一面をエメラルドグリーンに輝かせている。
ハヤトは運転中だから、前方に集中しなければならないが、それでも外の光が絶景だと分かるレベルだ。
もし列車から降りて森の景色を見たならば心奪われるのは容易に想像できた。
後日時間ができたら是非行こうと決心して、ハヤトは次の信号機が黄色灯を二つ点灯させてることを確認し、ゆっくりとブレーキをかけた。
ふとフェミルのほうを一瞥すると、横目ですぐに分かるくらいの笑みを浮かべていた。
それは、初めて見た絶景にはしゃぐ幼さと、故郷に帰ってきた安堵が混じっているようにも見えた。
見てるとハヤトの心まで落ち着いてくる。
すぐに進行方向に向き直ると、伸びる線路の先が拓けてきた。
足を踏み入れたら二度と戻れなくなりそうなほどの樹海なのに、もう抜け出そうとしている。
改めて時速130kmというスピードに驚きつつ、ハヤトは力行ハンドルを引いて速度を上げた。
シミュレータによれば、森を抜けると広大なヨルム平原を横切り、王都イズンまで一直線だ。
森の先から覗く平原の入り口を見つめ、ハヤトはハンドルを握り締めた。
ヨルム平原は想像以上に広大だった。
運転室から見える景色は、前へと永遠に続く線路とそれに沿う架線、風が吹いているのか、波のように靡く薄緑色の草以外何も無かった。
しかし、清々しいほど無機質な風景にとても不釣合いな物体が前から徐々に近づいてきた。
いや、こっちから近づいていると言った方が正しいかもしれない。
人の背丈ぐらいはありそうな四方に伸びた木製の古びた標識に、ハヤトはそこに書かれている内容に目を細めた。
“野生の翼竜に注意。警笛鳴らせ。”
ハヤトは朝読んでいたウェルニア運転時の注意事項を思い出した。
この広大なヨルム平原では時折遠くの山脈からはぐれてきた翼竜が飛んでくることがあるらしい。
ウェルニアでは。翼竜は馬と同様に調教して人が乗ることも可能らしいから直接の危害になることはないとされている。
しかし、鉄道が開通してからしばらくの間、何も知らない野生の翼竜が低空飛行で架線に絡まり、列車が頻繁に普通になったことがあって、鉄道では彼らドラゴンが悩みの種だったようだ。
幸い翼竜には高い学習能力が備わっていたようで、そのような事故はほぼほぼなくなったそうだが、用心のためさっきのような標識が線路脇に仰々しく立てられているのだそうだ。
安全の担保とはいえ、運転士が見る以外に用途の無い標識にあれほど目立たせるのは、大げさじゃないのかとハヤトは思った。
なにより、せっかく異世界にきたムードを台無しにされているような気がして釈然としなかった。
仕事中にそんな不謹慎な思いが、難を引き寄せてしまった。
「ハヤト様!。前を!」
フェミルが前方斜め上を指し、ハヤトも目線を上に上げた。
進行方向の上空に黒い羽をバタつかせながら近づいてくる物体がいた。
迷子になったドラゴンが行き場の見当をつけずに空でのたうち回っている。
遠くでくると列車の方向に気づいて、何を血迷ったか列車へ飛んできた。
まずいな。
このままだと架線にかかるどころか列車と当たる。
運転室に緊張が奔り、ハヤトは足元の汽笛ペダルを力一杯踏み抜いた。
ピイイイイイイイイイイイイイイイイ
車内にいても耳をふさぎたくなるほどのけたたましい警笛が鳴り響いた。
外で聞けばさぞ轟音だろう。
まだ距離の離れていた翼竜に響くほどか心配だったが、幸い奴はすぐ危険を察知して線路からそれるように平原の彼方へと消えていった。
ハヤトは心の中で胸を撫で下ろした。
チラッとフェミルのほうを見やると、冷や汗からすぐに切り替わったであろう安堵の情が見て取れた。
「フェミルありがとう。助かったたよ。危うくぶつかるところだったね。」
「いえ、私も驚きました。ここ数年はドラゴンの接触事故は聞いていませんでしたから。まだまだ油断はできませんね。」
「そうだね。」
やおらかな返事とは裏腹にハヤトはまだまだ緊張の感が拭えなかった。
またドラゴンが来ないとも言えないから、ハヤトは視界広く前方に目線を移した。
外は雲ひとつない青空が広がり、エスペランザはガタンゴトンと軽快なジョイント音を発しながら疾走している。
しばらくすると、何もなかった景色に、うっすらと建物の影が見えてきた。
まだはっきりとその姿を認識できていなかったが、徐々に輪郭が鮮明になる。
平原の中央に横一列に並ぶレンガ造りの城壁に、大通りほどの幅の橋桁が掛けられている。
城壁のうちには地上含三層になる広大な街が我が物顔で無数に立ち並び、超上層には、いくつも尖塔を空に向けて突く城が見えてきた。
誰が見てもそれが王城だと分かるくらい、威厳に満ちていた。
ハヤトはブレーキノッチを上げ、城外の停止目標目指してエスペランザのスピードを落とした。
目的地王都イズンは目の前だ。
イズンの駅は王城の一階、つまり第二城下町と城の中間に位置している。
高さにすると地上より数十メートル上になるため駅と線路を接続する手間を考えると城壁を突貫して第一城下町に造るのが適切のはず。
第一城下町は建物が密集しすぎていて鉄道を敷設する余裕がなかったというのが日本側の理由らしいが、一番大きいのが政治的なものらしい。
鉄道の建設が始まった当時、時のウェルニア国王、つまりフェミルの父が諸外国に国力を誇示する象徴として外見的にインパクトを与える構造にしたかったらしい。
そのため、平原から王都へ入る線路はレンガ造りの急勾配な連絡橋で城壁を飛び越え、城に吸い込まれるような形におさまった。
電気ブレーキの起動音と共にエスペランザは速度を落とし、ちょうど橋の差し掛かりに当たる水堀の手前で止まった。
再び力行ノッチをとり、橋梁に侵入する。
線路脇のだだっ広い街道には、行商人や旅人らしき通行人が列を連ね、城門の入り口で入都の許可を待っている。
それを横目にハヤトとフェミルが乗るエスペランザは、城壁を飛び越え、グングンと王城の終着駅を目指す。
数十メートルの高低差のせいで、城下町はどんどん小さくなり、建物の隙間を点ほどまでに縮んだ王都の人たちが縦横無尽に行き交う姿が見えた。
勾配に苦しむモーターの音が車内に静かに響く。
真正面に城が来訪者を迎えるようにそびえたち、線路が城のお膝元に吸い込まれているようだ。
よくもまあこんな大胆な構造にしたものだと感心のため息をハヤトはもらす。
列車は城の下層に入り、ホームに滑り込んだ。
王都イズンの最上部に位置する層は王城と城のまえに広がる四方数十メートルに及ぶ王城広場、そして第二城下町から続く大階段で構成されている。
王都の駅は王城広場のちょうど端に位置し、二面三線の形式をとっている。
つまり、列車自体は3編成留置することが可能だ。
現在はエスペランザの編成数と日本でのダイヤの関係上、二編成までしか停車することがないが、将来増発することを見越しての設計だろう。
頭上の太陽が城の尖塔で遮られ、列車の陰りが濃くなると共にエスペランザはホームを微速で移動する。
ホーム端の停止目標をハヤトは凝視し、先頭車の鼻先と揃う直前でブレーキをかけた。速度が0になる直前で衝撃緩和のために一瞬ブレーキを緩解し、すぐに非常ブレーキをとる。
「終点、王都イズン、十二:〇〇ちょうど到着。」
運転台搭載の時刻表を指差喚呼し、エスペランザは無事王都イズンに着いた。
ハヤトは重たい乗務員かばんを持ち、フェミルは助士席から腰を上げて、出入り口を開けてホームに出た。
駅は簡素石畳のホームが存在するだけで、ベンチや時刻表の類が一切ない。
ホームがちょうど城の地下解に位置するため、周りをレンガ造りの壁がホームを囲み、規則的に設置されているランプ灯が煌々と駅を薄明るく照らしている。
ぱっと見、地味な印象を受けるがハヤトは意外なことに気づいた。
エスペランザが着いたホームは去ることながら、向かいのホームにも誰一人として乗客らしき影が見当たらない。
いつも京都駅にエスペランザが着くときは大量のアールブと日本人が出てくるのにこれは不可解だ。
ハヤトは思わず隣にいるフェミルに聞いた。
「フェミル、何で人が居ないの?」
くっとフェミルがハヤトに向き、返答する。
「おそらく、彼らは駅前の王城広場で検問を待っていると思われます。」
「検問?」
予想していなかった単語が彼女の口から出てきて、ハヤトは聞き返した。
「はい、列車に乗ることはウェルニアから出国することと同じですので、城の兵士が出国証を検める準備をしているのでしょう。」
フェミルの説明にハヤトは頷く。
向こうで何気なく改札を通っているが、ここでは国境を越えるのと同じだよな。
違和感を解消したハヤトはさてと見渡して出入り口を探す。
ハヤトが経路を見つける前にフェミルが一歩ハヤトの前に出た。
「さぁ、城へ行きましょう。遣いの者が外で待っているはずです。」
そう言ってフェミルはハヤトを先導するように、フェミルは歩き出した。
意外なエスコートにハヤトは戸惑いながら、ハヤトはフェミルの後についていった。
エスペランザが入ってきた橋梁の入り口から差し込む光が細くなる。
車止めを横切り、右手に曲がると大の大人三、四人が並んで通れるほどの通路が続いていた。
空間が狭まった分、壁のランプ灯が明るく感じる。
カツンカツンと二人分の足音が小さく響き、日の光が差さないこんな建物内でもフェミルの長い純白の長髪は良く映えていた。
ただ、たたずまいは変わらないのにフェミルの歩調はどことなく焦りのような雰囲気を醸し出していた。
今までハヤトが京都駅までフェミルの先を歩いていたのが嘘みたいだ。
揺れるフェミルの後ろ髪を見ながら、ハヤトは頭の片隅に置いていたスケジュールを思い出す。
次に運転する折り返しのエスペランザは夕方だから、それまで5時間以上も間が空いている。
スケジュール表では王城でフェミルに鉄道の机上教育となっているが、どう考えても長すぎる。
先日所長にそのことを尋ねたが詳しいことは現地で聞いてくれの一言で終わってしまった。
今ここでフェミルに聞こうとかとハヤトが逡巡しているとき、ハヤトは外の光が差し込む出口に目を細めた。
通路の先に外をふさぐように人影が三人分見える。
こちらから近づくにつれ、彼らの顔立ちが徐々にはっきりしてくる。
どうやら向こうもこっちを見ているようだ。
外の光が雲に隠れて少し弱くなり、影になっていた三人の全貌がくっきり見えたところで、ハヤトは一瞬立ち止まりそうになった。
出口に立ちはだかる彼らは全員かなりの大男で、これでもかというくらい磨きぬかれた銀の甲冑を身に纏い、左胸にはウェルニアのエンブレムが刻まれている。
もし戦場でこんな人たちと遭遇したら、どんなに優れた武器を持っていても逃げ出したくなるような覇気が出ていた。
フェミルは彼らの真正面でとまり、ハヤトは彼女の斜め後ろで足を止めた。
お互いが対峙するように向き合い、外の光も届かぬような静寂が包む。
先に口を開いたのは中央にいた男だった。
「お帰りなさいませ、姫様。お迎えに上がりました。」
男はカシャリと鎧を鳴らし、深々と頭を垂れる。
フェミルは、はいと軽く返事をする。
男はお辞儀を解くと、値踏みをするような視線をハヤトに向けた。
「フェミル様、この者は?」
ハヤトは一瞬気後れするも、大きな声で挨拶した。
「はじめまして。日本から参りました、日本鉄道公社・神楽町相互運転所の運転士、高峰ハヤトと申しま
す。現在は特急エスペランザの運転士をしております。」
テンプレートとしては悪くない自己紹介をし、ハヤトは男に敬礼をした。
「そなたが高峰殿か。私はウェルニア王国王宮護衛隊隊長、ゴードン=マクシミリアンだ。
貴殿が日本で姫様の世話役を仰せ遣っていると聞いている。」
細い目に青色の鋭い瞳でゴードンはハヤトを凝視している。
フェミルに劣らずの白い顔立ちに肩までかかる金髪は戦場だと英雄として奉られそうな威厳を醸し出している。
名乗ったとおり、城を守るトップに相応しい風貌だ。
自分との余りの身分違いにハヤトは顔全体で緊張をあらわにしている。
「ゴードン隊長、そのような威圧的な接し方はおやめなさい。ハヤトが怯えております。」
フェミルがハヤトの様子を見かねてか、彼女はそう言うなり顔を見上げてまっすぐゴードンを見据える。
「これは失礼いたしました。身分柄どうしてもこうなってしまうもので。」
先ほどの厳しいオーラとは打って変わり、ゴードンは苦笑交じりの謝罪をした。
どうやらそんなに悪い人ではないらしい。
ハヤトは緊張の糸が切れたように、敬礼していた右手を下に下ろした。
「それでは姫様、ハヤト殿、城へ戻りましょうぞ。」
ゴードンが踵を返して先導をとる。
続いてフェミル、ハヤトが続き、最後尾に二人の護衛がついた。
レンガの出入り口を抜けると、ハヤトが想像していた以上の景色が眼前に広がっていた。
目の前には四方数十メートルに広がる真っ白な石畳の広場があり、中央には大きな噴水が水しぶきを上げている。
ここが王都の最上層に当たるから、広場の端から眼下の街を飛び越えた先には雄大なケビュンの森が広がっていた。
広場を見渡すと、昼ごろということもあってか、荷物を抱えた人たちや、作物を並べて取引をしている農夫、ゴードンのように鎧を着ている兵士など実に多種多様な人たちが思い思いに過ごしていた。
そのなかでも一際ハヤトの目を惹く存在があった。
「ゴードン隊長、あの人は・・・。」
思わず先を行くゴードンに尋ね、ゴードンはハヤトの指差した方向を見やる。
ハヤトが興味を示したのは、噴水のそばにいる下半身は人間、上半身は紛う事なき狼の顔だった。
破れかかった新緑色のズボンを吐き、グレーのシャツを着ている姿はまさに流浪人だった。
狼の男は隣にいる若き女性と談笑している。
動物が喜怒哀楽を表現するなど考えもしなかったが、それでもハヤトにもオオカミの男が笑っている様子がはっきり分かった。
「あれは獣人族の者です。見た目はああですが、人の言葉を話し、人と同じように接することができます。ただ・・・。」
ゴードンはハヤトを見やっていた顔を前に向きなおして、間を置く。
「オオカミの特性を持つが故に気性の荒い種族なのです。基本的に一つの地に長居することはなく、彼らは各地を転々とします。身体能力も我々アールブより高いため、戦争のが起きたときは真っ先に傭兵として雇われるのが彼らです。」
「傭兵って、この国では戦争がよく起こるのですか?」
不安になり、ハヤトはゴードンの背中に声をかける。
「心配なさるでない。この王都イズンは我々護衛隊がいる限り安全だ。」
「・・・。」
ハヤトの知りたいとする質問に的を得た回答でないような気がしたが、ゴードンはわざと応えることをはぐらかしているようにも見えた。
隣にいるフェミルは少し目配せをするだけで何も話さない。
雲ひとつない青空の下、王都の民が笑顔を絶やさずにいる広場で、ハヤト達の周りだけ沈黙が包み込む。堪え切れず、フェミルが俯けていた顔を上げた。
「この話はやめましょう。ハヤトの折角の王都訪問が良くないものになります。」
「あ、ああそうですな。」
ハヤト含め、三人とも苦笑いしたが、これ以上話しを掘り下げるのは野暮と思い、気持ちを切り替えた。
会話に夢中になっていたので周囲を良く見ていなかったが、ハヤトは広場を通り過ぎた瞬間目の前の光景に思わず立ち止まった。
「おおっ」
ハヤトは感嘆の声を漏らした。
王城広場から突き上げるように登る大理石の階段はゆうに数十段あり、その頂点には太陽をも貫きそうなほどの城が聳え立っている。
先の鋭い円錐形の巨塔がいくつもあるため、そう見えたのだろう。ハヤトは城に圧倒されて、立ち止まった。
「ふふ、わがウェルニア王国の中枢に驚かれましたか?」
ハヤトの心奪われた表情と自身の誇りともいえる王城をハヤトに見せられたことに、ウェルニアの王女はご満悦だった。それは背中を見せたままのゴードンからも伝わってきた。
「すごいよ。こんなりっぱな城は見たことないな。まるでファンタジーの世界だよ。」
と答えた瞬間、よく考えたらここは異世界だよなとムードの無い事実に帰着したことをハヤトは若干後悔したが、城の建造美が変わるわけではなかった。
ゴードンに続いてフェミルとハヤトは階段を昇り始める。
城の前には黒い鉄格子の城門が設けれらていて、その端には人一人が通れるぐらいの通用口が目に入ってきた。
門番らしき衛兵がハヤト達の様子を伺ったと思うと、ゴードンとフェミルの顔を見るなりすぐに門を解錠して恭しくハヤト達を出迎えた。
「お帰りなさいませ。どうぞお入り下さい。」
門がギィという年季の入った音をあげて内側に開く。
ゴードンがうむと軽く返事をし、続いてフェミルが分け隔てない笑みを門番に向けながら門の内側に入る。
続いてハヤトが入ろうとしたその時だった。
「貴様あああああああああああ」
度肝を抜かれるような怒声にハヤトだけでなく、フェミル、ゴードン、衛兵と門番全員が後ろを振り返った。
階段の下のほうを見ると、まん丸と太った体に茶色の髭面の大男が猛突進してきている。
脂肪で目が半分隠れている瞳には、ハヤトのいる位置からでも分かるくらい殺気に満ちていた。
ハヤトの直感が今すぐここから逃げろと警告を鳴らしている。
危険を察知した護衛二人がすぐさま、駆け上がってきた男を取り押さえた。
「離せ、離さんか!」
「だまれ貴様!。姫様の御前で無礼であるぞ。死罪にされたいか!」
掴まれた体を無理やり動かそうとする男を、もう一人の護衛が男の両腕を背中に回して雁字搦めにして階段に押し付けた。
ハヤトだけでなく、フェミルヤやゴードンでさえも、何が起こったのか分からず男を傍観する。
護衛に圧し掛かられるように拘束された男が、苦し紛れに顔を上げた。
ハヤトが男と視線が合うと、ハヤトは血の気が引くような寒気が体中をめぐるのを感じた。
同時にハヤトは確信する。
男が憎悪の矛先を向けているのは、護衛でもウェルニアの女王でも、城の護衛隊長でもない。
間違いなくハヤトに対してだった。
理解不能な展開にハヤトの頭は混乱している。
初めて足を踏み入れる異世界の国で、殺意を抱かれるようなことは神に誓っても遣ってはいない。
なぜ男はいまハヤトを食い殺さんとする勢いで駆け上がってきたのか。
心拍数は跳ね上がり視界が暗む。
そんなハヤトの胸中などお構いなしに、男は容赦なく罵声を浴びせ始めた。
「お前たちのせいだ。お前たちが俺の人生を潰したんだ。」
ハヤトは予想だにしていなかった罵声の内容にハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
人生を潰した?
どういうことだ?
見ず知らずの異世界人に影響を与えた記憶など一切無い。
こいつが誰かと勘違いしているんじゃないのか?
だとしたらそれは誰なんだ?
いや、それ以前に日本人が王都の人間に不利益をこうむるような所業を犯したのか?
堂々巡りのような憶測がハヤトの脳内をかき乱す。
男は怒りの双眸を門の奥にいるフェミルに向けた。
「フェミル王女様、どうかお考え直してくださいませ。異界の蛮族と交流をしてはなりませぬ。こやつらはいつかウェルニアを不幸のどん底に陥れましょうぞ!」
「貴様、首をはねるぞ!」
押さえつけていた護衛までが今度こそ怒りをあらわにした。
護衛の恫喝に一瞬竦むも、男のめはまっすぐフェミルを捉えている。
フェミルに訴えた言葉の語気はハヤトへの罵声と勢いは変わらなかったが、男の目は一生に一度の懇願のような悲哀にみちたそれだった。
ハヤトはフェミルのほうへ視線を向きなおす。
フェミルが男に向ける視線は、下々の無力さを哀れむようなそれだった。
「行きましょう。」
フェミルは小さくつぶやき、門をくぐった。
ハヤトは男とフェミルを交互に見て戸惑う。
今まさに喧嘩別れしたカップルが離れるちょうどその間にいるような居心地の悪さだった。
ふと、男と視線が交わると、再び男が怒り狂った狼の双眸をハヤトに突き刺している。
ハヤトは堪え切れず、逃げるように門を通り抜けた。
男の拘束に手を割いている護衛を残し、フェミルとハヤト、そして王宮護衛隊隊長ゴードン=マクシミリアンは王宮入り口へと歩を進めていた。
門を入ったところには王宮前広場より一回り小さい広場が芝生と石畳の縞模様で構成されている。
広場をはさんだ正面には古代の神殿を彷彿させるような石柱が数本並んだ城の入り口がハヤトを待ち構えていた。
敷地内には槍をもった見回りの兵がちらほら散見されるだけで、意外にも閑散としていた。
広場を横切り、王宮の扉の前まで来たところでゴードンが静かに振り返った。
「では、姫様、ハヤト殿、私めはこれにて失礼いたします。」
「はい、お疲れ様でした。出迎えありがとうございます。」
フェミル王女が労いの言葉をかけた。
「ゴードン隊長、お忙しい中ありがとうございました。」
ハヤトも敬礼してお礼を述べた。
ゴードンは軽く会釈すると玄関正面右手へ振り返り、甲冑を鳴らしながら去っていた。
ゴードンが見えなくなった辺りでハヤトが尋ねた。
「隊長はやっぱり多忙なの?」
「そうですね、最近は新兵の訓練で目が離せなくなる時期ですから。余り無理はしないようにとは申しているのですが、何分使命感の強い人なので。」
そう語るフェミルはゴードン隊長にして尊敬の念を出しつつ、どこか寂しげな表情を浮かべていた。
きっと心配なのだろう。
ハヤトもそれは薄々感じていた。
そしてハヤトはもうひとつ引っかかるところがあった。
隊長が言っていた新兵の育成は目が話せないと言うほど喫緊の課題なのだろうか。
もちろん未来の王宮護衛官を育てる任務はそれなり重大だろうが、去り際に見せたゴードン隊長には使命感意外にも焦燥のような陰りがハヤトの目には映っていた。
ハヤト頭にはまだ男に罵倒された嫌な余韻がぬ拭えないでもいる。
ハヤトは何か見えない危機に何か心を捕まえられているようでもどかしさを感じていた。
フェミルはゴードンが駆けて行った先を見つめたまま、ここにいない彼に何かを伝えた気な面持ちをしていたが、やがて扉に向き直った。
「さあ、ハヤト。入りましょう。我がお城をご案内して差し上げます。」
カツっと一歩前に踏み出したフェミルの足音は、閑散とした敷地にも良く響いていた。
中に入るとハヤトは思わず立ち尽くした。
「ほぁ・・・。」
およそ庶民がふむことのないレッドカーペットが玄関からまっすぐ伸び二階へ行く階段へと続いている。
「ハヤト、お城は初めてでございますか?」
フェミルは不思議な生き物を見る目でハヤトに尋ねた。
「初めてではないけど、僕みたいな庶民は滅多に足を踏み入れないね。
それに日本のお城とはまた雰囲気が違うし。」
「日本のお城ですか。私めも書物でその絵を拝見させていただきました。屋根が特徴的で荘厳な建物ですよね。いつか実物を見てみたいですわ。」
「ほんと、そのときは僕がフェミルを案内するよ。」
「本当ですか!?。まぁ嬉しい!」
キャッキャッとフェミルが子供のように喜びながら、ハヤトを先導する。
大理石の玄関フロアから二階へ階段を登っているときに、ハヤトは踊り場であるものが目に飛び込んできた。
「フェミル、これは?」
「はい?」
フェミルは振り返ってハヤトが指差す対象に目を向けた。
太陽の光を背に、階段をカラフルな色合いで染めていたのは大きなステンドグラスだった。
ステンドグラスの中央には女性の姿が象られ、女性が両手を広げた先には緑豊かな大地が彩られている。
普段目にすることの無い芸術がハヤトの目を惹いていた。
「あれは創造神ウラル、ウェルニアの守り神です。」
「へぇ。神様なんだ。」
コクッとフェミルが頷く。
「はるかその昔、まだウェルニアが誕生するずっと前の頃、創造神ウラルがこの世界をお創りになられたと言い伝えられています。
人や動物、草木、森、この世に生として生けるもの全てに永く繁栄できる力を下さりました。」
フェミルは遠い昔に聞いたおとぎ話を思い出すように話した。
「ハヤト。」
「うん?」
話の途中で呼ばれ、ハヤトは一瞬戸惑いつつも小さく返事をした。」
「ウラルの両手から出ているものは何だと思いますか?」
質問されたハヤトはウラルの手先を見つめ、思考を巡らせたがこれといった答えは浮かばなかった。
ハヤトを横目に、フェミルはステンドグラスを見上げた。
「希望です。」
ハヤトはフェミルの回答の真意を掴めていない。
「ウラルが創造した命に一つとして同じものは存在しません。そこにはいがみ合い、争い、嫉み、恐怖が必ず付きまといます。それらの苦悩の中でも希望がある。ウラルの手からあふれている筋はまさに希望の光なのです。」
喋るうちに、自然とフェミルの語気が強くなっていた。
自分が好き勝手に話しすぎたせいか、フェミルは思い出したかのように口元に手を当てた。
「申し訳ございません。私としたことが・・・。」
フェミルの顔が薄いピンク色に染まる。
ハヤトはおかしくて、つい笑ってしまった。
「いや、いいよ。それより意外だったな。」
「?、何がでしょうか?」
「こんなにフェミルが神様に熱く語るなんて。フェミルはとても敬虔な信者なんだね。」
そう言ってハヤトはステンドグラスの神様を再び見つめる。
今しがた神様の像を見たハヤトでさえ、その神々しさに心を奪われたのだ。
幼き頃からこの姿を見ているフェミルならなおさら信心深くなるだろう。
ハヤトが隣のフェミルに目をやると、一瞬表情が固まった。
さっきまで活気にあふれていたフェミルの顔がどこか寂しげな雰囲気を出している。
自分がフェミルの気に障った発言を下のではと逡巡した。
しかし、思い当たる節は無い。
「あの・・・。」
「私は」
同時に言葉を発し、二人の間に沈黙が漂う。
お互い目配せをして様子を伺う。
一間置き、フェミルが息を吸った。
「私の信じるウラルはいつ光を照らしてくれるのでしょうか。」
「え?」
独り言のような問いにハヤトは答えられないままハヤトはフェミルの横顔を見つめる。
ただ寂しげにステンドグラスを見上げるフェミルに、ステンドグラスの光が彼女をほのかに照らしていた。