エスペランザ発車
早朝、京都駅の乗務員詰め所でハヤトはサンドウィッチをつまみながら、今日の乗務ダイヤに目を通していた。
自分がどの列車を運転するのかあらかじめ作業ダイヤという指示書で決められている。
運転する線区によって、電車の車種、速度制限、停車駅が変わってくるため、それぞれの特徴を予め把握しなくてはならない。
長年勤めてきたベテラン運転士ならまだしも、ハヤトのような新人運転士は常務前の予習が必須となる。
そのため、他の人より早めに出勤して、朝ごはんを食べながら作業ダイヤに目を通すのがハヤトの日課になっていた。
もちろん今日も例外ではない。
一角の乗務員詰め所には、ハヤト以外だれもいない。
京都駅は駅の規模もさることながら、列車の発着本数も群を抜いている。
そのため、駅構内には複数の常民詰め所が設けられている。
どの列車を運転するかで、どの詰め所に召集がかかるかはまちまちで、それぞれの詰所に特徴がある。
老朽化のためつい最近リフォームされたところだと、どこかの精密機械研究所の無菌室かといいたくなるくらい清潔なところもあれば、地震が起こればそこにいる人間は助からないであろうほど傷んでいる場所もある。
ハヤトが居るのはどちらかといえば後者にあたる。
長年使われているせいか、かつては白かった詰所の壁はタバコのヤニで黄ばんでおり、仕事机はハヤトが整
理したものの、つい先ほどまで書類が山積みにされていた。
「はあ。」
ハヤトはサンドウィッチを咥えたまま、中を見渡しため息をつく。
ここにあの人をお招きするのか。
ハヤトは情けなさで目を瞑り、眉間を指で押さえた。その時、入り口がガチャッと開く音がした。
ハヤトは心臓が跳ね上がりそうになってドアのほうを向いた。
「あっ、ハヤトじゃん。おっはよー。」
ハツラツとした挨拶にボブカットの髪をなびかせて入ってきたのはりつ子だった。
まだ空が本格的に白み始めたばかりだというのに、彼女声は既に元気全開だ。
緊張の高台から一気に落ちてハヤトは伸ばしていた背筋を曲げた。
「なんだ。りつ子か・・・。」
「なんだとは何よ。」
「いや、ごめん。こっちの話。」
気持ちのこもっていない謝罪にりつ子はなお不満げな目をハヤトに向けている。
彼女はハヤトをしばし見つめるなり、不敵な笑みを浮かべた。
「ははーん。さては私があのお姫様だって思ったでしょ。」
ちょうどコーヒーに手を伸ばそうとしていたハヤトの動作がとまる。
歯をゆがめ、りつ子から目を逸らそうとするが図星なのは明らかだ。
開き直り半分でハヤトはりつ子を見据えて言った。
「俺だって緊張してんだよ。」
「お姫様が美人だから?」
皮肉っぽくりつ子が問う。
「理由がそれだけならどれだけ気が楽か。」
ボソっとつぶやき、詰所の窓から幾重に連なるホームの風景を眺める。
始発列車が動き始めてから間もない時間帯なので広大な駅構内に列車はおろか人の姿もほとんど無い。
傍目からハヤトはいつものように列車運転のために詰所で待機しているように見えているが、事情は全く
普段と違っていた。
昨日異世界の王女がハヤトの下に着くと決まってから今日初の研修なるという有無を言わさないスケジュールになっていた。
基本的にはハヤトが乗務する行路全てに王女様がそばにいる。
それだけでも緊張が抜けないのにハヤトが衝撃を受けたのが王女の指導方法だった。
上意下達な鉄道公社の風潮を考えたら、さぞかし分厚い注意事項とそれに伴う説明を受けるのかと思いき
や、所長から出た言葉は「お前に任せる。」の一言だけだった。
言い渡されたとき、ハヤトは開いた口が塞がらずに思考を整理できない状態だった。
そして、考える時間も当てられないまま今日の朝を迎えることになった。
ハヤトが王女の世話役になったと所内に情報が漏れ出した時には、驚きと嫉妬、羨望の眼差しをを四方八方から受けて、ハヤトは昨日ほど定時のチャイムと共に逃げ出したいと思ったことは無かった。
りつ子もそれを分かった上でこんなからかいを入れてくるのだから、途方にもくれしまうというものだ。
「私、代わってあげようか?」
テーブルの上に頬杖をついてりつ子はニヤニヤとハヤトを見つめる。
「ほんとそうしてほしい。」
「いーや。ハヤトが困ってる所見てみたいしダメ。」
見えない悪魔のしっぽを振ってりつ子が言う。
まったく、人の気も知らないで。
毒づいて、ハヤトは乗務員かばんからガサゴソと探って一枚紙を取り出した。
「なにそれ?」
りつ子がハヤトの顔に触れんばかりに頬を近づけてくる。
思わずドキリとするがハヤトは努めて冷静に答えた。
「今日一日のスケジュール表だよ。作業ダイヤとは別に所長から渡された。」
そう言ってハヤトは一枚ものの紙をひらひらとはためかせる。
書いてあるのは今日一日の研修スケジュールだ。
今更見直すほどの事が書いてあるわけでもないが、この紙を渡されたときからその内容に気になっている点があった。
ハヤトはりつ子の好奇心あふれる眼差しに堪えつつスケジュールを読む。
6:50 回2017列車で京都発ウェルニア王国王都イズン行きに乗務
9:50 ウェルニア王国、王都イズン駅到着予定。
その後、フェミル王女と共に王城へ赴き、机上教育を実施。
また、王国側からウェルニアの地理、文化、風習、など簡単な異文化理解の時間を設けてもら
う予定なので君も勉強に励むこと。
16:00 2021E列車、特急エスペランザ9号に乗務。
19:00 京都駅着、引継ぎの運転士と打ち合わせ後、任務終了とする
「へえ、ハヤトもとうとうウェルニア初入国かあ。いいなぁ。私も行ってみたい!」
ハヤトのスケジュールを見るなり、りつ子は羨望の眼差しを間近に向けた。
「あのな、遊びじゃ無いんだぞ。おまけに来訪先の国のクイーンが隣にいる中、行った事もない異世界の地で電車をを運転しきゃならないんだぞ。」
そうハヤトが訴えてもりつ子はふーんと重大さが半分も伝わってないような反応だ。
ハヤトははあと深くため息をつき、書類に目をやる。
実際ハヤトはウェルニアへ行くのもエスペランザを運転するのも初めてだ。
エスペランザに限らず自分が運転したことの無い線区では最低3ヶ月間見習いとして先輩運転士につき、線区の駅と最高速、制限速度区間、車種によるブレーキの効き具合などを勉強しなくてはならない。
しかし、近年のVR技術の進歩による運転手シミュレーターの高機能化と、エスペランザの本数の少なさ、異世界という特異性を考慮してエスペランザに乗務する可能性のある運転士は実地訓練をしなくてもシミュレーターで一定期間運転訓練を受けたら本線乗務が特別に許可されていた。
ハヤトもその一人で、実際にシミュレーターでエスペランザの仮想運転をしたときには余りのクオリティに驚いた。
駅のホームから信号の建植位置、ノッチの加速に応じて上昇するスピードもさることながら、雨などの天候によってブレーキの効き具合が変化することにも衝撃を受けたことをハヤトは覚えている。
それ以上に印象的だったのは日本をを出てからウェルニアに虚数周波でワープし、ウェルニアの王都イズンまでの運転環境があまりにも現実離れしていることだった。
ワープして最初のケビュンの森は高層ビルに負けず劣らずの大樹群で、そこを抜けると野生の翼竜が空を羽ばたくヨルム平原。
そしてやっとウェルニア王都イズンに到着となっている。
シミュレーターで仮想ウェルニアを運転した感想はまさにファンタジーの世界をレールが駆け抜けているという表現しか当てはまらなかった。
それだけリアルな仮想現実で合格を受けても所詮仮想は仮想。
実際にウェルニアを運転するとはどうなのか分かっていないハヤトには、かつて見習い運転士の卒業試験のときより緊張していた。
ただ、ハヤトは感情が表に出にくい分、神経が高ぶっていてもそれを他人に悟られないため、りつ子のように受け流されてしまうことが多い。
「イズンの王城まで行くの??。」
りつ子はスケジュール表を見るなり羨望と驚愕に満ちた声を出した。
「ああ、当の本人もびっくりだよ。」
「それにしても滞在時間長いわねぇ。向こうでそんなに勉強するの?」
少し考える振りをしてハヤトは一言分からない、とつぶやいた。
異国の人間を受け入れるにはそれぐらい郷に入っては郷にしたがえと言わんばかりにウェルニアの知識を叩きこむのではないだろうか。
そんなものなのかもしれいくらいにハヤトは思考を留めた。
「ねえ、ハヤト。」
またりつ子が話しかけた。スケジュール表に目がいったと思ったら最初の不敵な笑みに戻ってなにやら言いたそうだ。
彼女はいつもそうだ。
目に飛び込んできた珍しいものならお構いなしに興味を示し、少し満足したと思ったらフラッシュバックしたであろう過去の疑問や感情を即座にあらわにする。
ねこじゃらしを前にされた猫も顔負けの好奇心にハヤトも内心辟易した居る
「なんだ?」
「お姫様何時に来るの。私会いたい!。」
「企業秘密。」
間髪入れずにハヤトは即答した。
魔性の笑みを浮かべていたりつ子がムッとする。
この表情に変わったときだけハヤトはりつ子にしてやったと確信できる。
「なによ、けち。」
「九時まで待てばいいじゃん。絶対会えるよ。」
ハヤトは嫌味ったらしく返すと、かばんから缶コーヒーを取り出した。
フタを開けて口をつけるといつもより甘い香りが鼻腔をつく。
ハヤトが言った事は事実だが、りつ子は早番だということは朝八時までに指定された列車に乗務しなければならないはず。
昨日所長からは列車発車の五十分前の八時十分頃に集合と王女に連絡したそうだ。
なのでどんなにあがいてもりつ子が王女とご対面することはない。
面白くなさを顔全体で表現したりつ子は諦めきれない気持ちをひきづりながら、出て行く準備をした。
机の上に置いていた制帽を被る。帽子のふちから恨めしさを出し、何か言いたそうな表情だったがりつ子は諦めたようにかばんを担いで詰所を出ようとした。
扉を開け振り返って閉めようとしたとき、りつ子はハヤトと目が合うなりすうっと深く息を吸った。
「ぜったい、アンタとお姫様のスキャンダルをゲットしてやるんだから!。」
小悪魔的な笑みを交えた意地悪な表情で舌を出すと、りつ子はドアをぴしゃりと閉めて出て行った。
缶コーヒーを口につけたまま目を見開いてハヤトは何も返すことができなかった。
「・・・、お前はパパラッチかよ・・・。」
自分でも適切かどうか分からないツッコミを相手不在でつぶやき、再び詰所に沈黙が訪れた。
遠くのほうで電車が到着するジョイント音が小刻みに詰所を震わせる。
入り口脇の台所にポットがコポコポ笑っている。
ポットが沸いているのをじっと見つめながらハヤトはしばし沈黙していた。
視点が動かなくなりぼーっとしていたことに気づいたハヤトはこれではいけないと、机に向き直って机の上を整理しようとした。
その時、カラッと扉が開く音が聞こえた。
りつ子が出て行ったとたんに誰かが入ってくるなんてタイミングがよすぎる。
前にりつ子が別の詰所で制帽を忘れて大慌てで戻ってきたから今回もそのパターンだろう。
ハヤトは小さくため息をついて振り返った。
「なんだ、りつ子。次は何を忘れ─」
と言いかけてハヤトは思わず口を閉じた。
りつ子が開けたにしては申し訳程度にしか開いていない扉から見えたのは制服の青ではない。
薄暗い詰所の照明よりも明るい純白の髪が朝焼けの外をバックにオーラをだし、まだ冴え切ってないハヤトの目を覚ませるには十分だった。
フェミル王女はハヤトと目が合うなり、自分が告げられた場所が正しかったと分かったようだが、予想外のハヤトのつっけんどんな対応に明らかに困惑していた。
「・・・ハヤト様、おはよう・・・ございます。」
機転を利かせてか細く挨拶した王女にハヤトは今度こそ脳に電流が走った。
「おはようございます、フェミル様。大変失礼しました。」
勘違いとは言え、失態を働いたままではまずい。
王女を立たせたままにしていたので、ハヤトはすぐ近くのイスを王女にすすめた。
できれば業務用のみすぼらしいイスを使いたくないのだが、致し方ない。
「お気遣い、ありがとうございます。」
王女はさっきの不安気な面持ちとは打って変わって、凛とした笑顔でお礼を述べた。
イスに腰掛けようとした時、思い出したように入り口のほうを振り返った。
「ここまでで結構でございます。ありがとうございました。」
ハヤトは王女が話しかけた対象へ目をやって初めてその存在に気づいた。
入り口すぐ外に熊ほどの肩幅があろう黒スーツの大男が仁王立ちしていた。
ハヤトは一瞬冷や汗をかくも、こんなおっかない輩が何故王女と共にいるのかすぐに理解する。
一国の王女が一人異国のホームをうろつくなどあまりにも危険すぎる。
当然護衛が必要になる。
それが大勢だと帰って目立ってしまうからあえて一人しか用心棒をつけていないのだろう。
主の命令に男は軽く一礼し、一瞬ハヤトを一瞥した。
妙なマネはするなとでも言いた気にも映った。
男は踵を返し扉の外へと消えていった。
王女はハヤトに先ほどすすめられたイスに静かに腰掛ける。
「ハヤト様、あのようなものをお見せして申し訳ございませんでした。臆されなかったでしょうか。」
彼女は心配気な面持ちで尋ねた。
予想だにしない謝罪の意にハヤトはあわてて首を振った。
「と、とんでもないです。フェミル様の立場を考えたら当然のことです。僕、あっいえ、私こそ早朝から失礼を働いた上にこんなみすぼらしい場所にお招きして申し訳ございませんでした。」
そう取り繕い、ハヤトはばつの悪さで視線を宙に泳がせていた。
フェミル王女の研修一日目はお世辞にも華々しいとは言えないスタートを切るハメになってしまった。
と言うのも、彼女がハヤトと供に乗るのはウェルニアへ向かう特急エスペランザなのだが、乗客には当然ウェルニア人も乗っているのだ。
この研修はただでさえ極秘に実施されているのに、もし王女が列車に乗り込んでいるところを目撃されたら、彼女の身の安全にも影響するのは想像に難くない。
そのため、乗客の乗らない回送、もしくは試運転列車に限定されることになった。
そしてなるべく人目につかないように、このような早朝時間帯を鉄道公社上層部が選んだのだ。
諸々の事情が重なっているとは言え、ハヤトは申し訳ない気持ちになった。
ハヤトの後ろめたい心中を察したのか、フェミル王女が優しげに声をかけた。
「ハヤト様はまじめな方なのですね。私安心しました。昨日河野様からハヤト様をご紹介して頂いたときはどのような殿方なのかと気を巡らせておりましたが、このフェミル、安心しました。これで心置きなく、ハヤト様の後ろについて行くことができます。」
ふふっと、彼女は上品な笑いを浮かべた。
ハヤトはさらに気恥ずかしくなり、顔が厚くなるのを感じた。
今自分の顔は鏡で見るまでも無く真っ赤であろう。
よく見れば、ハヤトが手を伸ばせば王女の顔に触れられるほど二人の距離は近い。
王女の甘い香りがハヤトの所まで漂って、彼女の神秘的空気に包まれていた。
ふと、王女がハヤトが手にしている資料に目をやった。
「その書物は何でございますか?」
魂が抜けかけていたハヤトは、ハッと己を引き戻して質問に答えた。
「これですか?。これはウェルニア国内を運転する際の注意事項が書かれた資料なんです。エスペランザに乗務する運転士には必ず熟読するよう指示されています。」
「ほう、それは国家元首たる私としても興味がありますわ。どのような事が謳われているのでしょうか?」
「そうですね。内容はご覧の通り多岐に渡っていますので一例を言いますと・・・。」
ハヤトは分厚い資料を開き、目次から説明しやすそうな例を見つけて王女に説明する。
まず入国前にワープポイントである東海道本線山科トンネルでは、時速130kmで転送装置の起動ボタンを押すこと。
ワープして最初の線区であるケビュンの森では小妖精が列車の走行音でビビらないように徐行運転すること。
王都イズンに差し掛かる手前では城壁の橋げたが下ろされているか500メートル手前で目視確認するなど実に多種多様かつ日本では考えられないようなお決まりごとが書かれている。
ほとんどはシミュレータで訓練済みなのだが、やはり訓練と実践は違うだろうとハヤトは考えているので、準備をいくらしすぎてもしすぎることはないと早朝から資料に目を通していた。
自国を第三者の視点から見たからか、フェミル王女はハヤトの説明に真剣な目で頷いている。
好奇心に満ち溢れている表情はどこか幼さが垣間見える。
もしかしたらハヤト達と近しい面もあるのかもしれない。
そんな王女の内面を想像していると気づけば、出発時刻が近づいていた。
「フェミル様。もうすぐ時間になりますので移動しましょうか。列車へご案内します。」
「はい。」
澄んだ声で王女は返事をし、ゆっくりと立ち上がった。
ハヤトもイスを机に収める。
資料や、乗務員かばん諸共忘れ物が無いかを確認し、王女と供に誰も居なくなった詰所を後にした。
ハヤトとフェミル王女はエスペランザが停車する0番ホームへ向かっていた。
ハヤト達が居た詰所から0番ホームへは地下のコンンコースを経由する必要がある。
まだ列車の発着が少ない時間帯なので人の数もまばらだったが、時折王女に向けられる羨望の視線に見られているはずの無いハヤトが緊張した。
見境の無い乗客がスマホで写真を撮ってSNSに投稿するのではないかという危惧もあったが、幸い道行く人たちは急いでいるようでハヤトの心配は杞憂に終わった。
ホーム階へあがるエスカレーターに二人が乗る。
エスカレータの先から漏れこむ朝日に目を細める。地上に出てハヤトは後ろから感嘆の声を聞いた。
「おお!」
地平線から昇ってきたばかりの朝日を背に、エスペランザが姿を現していた。
連結器を切っ先に大きくとがった正面ボディに白い塗装が背景とマッチしてよく映えている。
すでにパンタグラフは上げられており、屋根上の空調と床下の制御機器の起動音が共鳴して生んだ朝の空気を静かに震わせていた。
じっくり見るのが初めてなのか、フェミル王女はエスペランザの先頭をしばらく見つめていた。
その様子を見てハヤトは少し得意な気持ちになる。
「さぁ、車内へ入りましょう。」
エスコートするようにハヤトは運転室の乗務員扉を開ける。
ウェルニアの国旗と日の丸が並んだロゴを横目に王女も中に入った。
入ってすぐ左手の運転台と配電盤をまじまじと見てから運転室内をぐるりと見て、彼女は好奇心をあらわにしている。
まるで絶景に心を奪われた幼子みたいでハヤトはつい笑みを浮かべた。
ハヤトは助士席後ろに荷物を置き、車体に収納されている折り畳みの助士イスを手前にひいてフェミルにすすめた。
「立ちっぱなしも辛いでしょうから、お掛けください。出発までまだ時間はありますので。」
なお室内をじろじろ見ながらフェミル王女は言われたとおり助士席に座った。
白のドレスが擦れないよう、手でスカートを持ち上げながら腰掛ける。
ふと、彼女が前方の風景を見ると思わず声を漏らした。
「わぁ、すごく眺めがいいですねぇ。窓も大きいです。」
「パノラマ型ですからね。もし走行中に外で異常が発生したときに運転士が気づきやすいように視界を広くしているんです。」
「景色を楽しむためではないのですか?」
王女が予想外の反応をしたので、ハヤトは思わず小さく吹いた。
「フェミル様みたいに助士席に座っていましたら楽しめるかもしれませんね。僕みたいに運転する者となると信号と時間に意識を集中させなければならないので、景色は目に入ってきても楽しむことはできません。」
「そ、そうですか。」
前面窓の用途が思っていたのと違ったかからなのか、それともハヤトに笑われてしまったからなのかは分からないが、王女が小さくなってしまった。
意外と子供っぽいんだな。
ハヤトは昨日点呼での彼女のオーラと比べてそんな印象を受けた。
王女とのやり取りに気を取られていたハヤトはすっかり運転準備のことを忘れていた。
列車を発車させる前には必ず運転台周りの機器点検をしなければならない。
ハヤトはポケットにあるマスコンキーと呼ばれる電車のキーを取り出し、運転台のキー口に挿して保安装置を起動させた。
その瞬間、ジリリリリリリというけたたましい警報音が運転室内に響き渡った。
王女はハンマーで打たれたように身を跳ね上げ、つられて身に纏っていたドレスも小さくふわりと浮く。
「ハヤト様!、この音は何ですか!?。火事ですか?、地震ですか?。いや、もしかして私を狙った狼藉を働いた何者かの侵入なのですね!」
王女は助士席に座ったまま上半身をバネのように右往左往させ、有らぬ妄想を掻き立たてていた。
これはまずいと、ハヤトは慌てて王女をなだめた。
「フェミル様、落ち着いて下さい。これはATSという機器の電源が入った音です!。何も心配はいりません!。」
ピタっと王女の動きが止まる。
「・・・エー、ティー、エス?」
「はい、自動列車停止装置と言って車両に異常があったり、速度超過するとこの装置が運転士に代わって列車にブレーキをかける機械なのです。そのATSが作動したり、先ほどのように電源を入れたるするとこのような警報ベルがなるんです・・・。」
ハヤトが説明したことを王女が理解したかはさておき、彼女は状況を把握できたようだ。
「つまり、今の音は非常事態を知らせるものでは無かったと・・・?」
彼女はぎこちない口調で尋ねた。
少し間を置き、ハヤトはコクッと頷く。
とたんに王女の白い顔がりんごのように赤くなり、ドレスを膝の上でぎゅっと掴んだ。
よほど恥ずかしかったのだろう。
彼女は口をパクパクさせた後、のどに詰まらせていた言葉を一気に吐き出した。
「も、申し訳ございませんでした!!。己が無知な故に要らぬ騒ぎを起こし、ハヤト様の任務に支障をきたしてしまいました。とても謝罪の言葉で赦されることではありません!このフェミル、いかなる処罰も覚悟の上です!。」
「いや、フェミル様落ち着いてください。フェミル様は何も悪くありません。むしろ事前説明をしていなかった僕に非があります。こちらこそすいませんでした。」
謝罪含め、ハヤトは王女をフォローした。
まさか警報一つでここまで騒がれるとは。
彼女はまだ自分の恥ずかしさを隠すようにうつむき、つぶやいた。
「ハヤト様の広きお心に感謝いたします。」
今にも泣きそうな声だったが、フェミル王女は冷静さを取り戻したようだ。
ふぅ、とハヤトは小さく息を吐き、今後の予定を説明する。
「発車までまだ時間がありますのでゆっくりしてください。それと列車の運転中でも先ほどのようにベルが鳴ることがありますので、取り乱さないようにお願いします。今から運転準備に取り掛かります。」
王女はハヤトの目を見据えて、はいと返事をした。
さっきまで赤くなっていた彼女の顔はもうほとんど元の白さを取り戻している。
普段の公務で失態を引きずることがゆるされないのか、王女の気持ちの切換えは早いようだ。
ハヤトは安心し、心置きなく運転準備を始めることにした。
速度計や圧力計の指針確認や、保安装置の正常動作を知らせるランプの点灯状態の確認、モニターで空調の異常の有無を点検する。
その最中にハヤトは王女に今やっている点検内容の説明もした。
しかし、王女が目を点にしている所を見たところおそらくチンプンカンプンなのは明らかだった。
もちろんそれは王女の理解能力に問題があるわけでないことはハヤトも十分承知していた。
おそらくウェルニアの人たちにとっては電車はおろか、機械類を含めて科学技術という概念に縁遠いものなのだろう。
ハヤトが向こうの世界で、魔法の概念を説明されても今の王女のような反応をするのは容易に想像できる。
ハヤトは詳しい説明はウェルニアについてからじっくり説明すると告げて点検を続けた。
王女はハヤトの説明を理解できない自分に歯痒さを感じ、眉間に皺を寄せていた。
さすがは一国の主、向上心は並大抵ではなさそうだ。
最終点検項目のブレーキの動作確認をして運転準備は終わった。
運転台の時計と時刻表を交互に見る。
まだ時間があったので、前方の安全確認がてら、外の景色を見つめていた。
少し先の道路橋の下辺りで各番線から伸びている線路が合流し、複々線になって、遠くトンネルの入り口に吸い込まれている。
線路の片側では新幹線と並走し、もう片側は昔ながらの民家が立ち並ぶ下町だ。
隣の2番線から普通列車が軽快なジョイント音を鳴らして発車し、あっという間に線路の彼方へ消えていく。
方で反対路線から列車が向かってきて、ここから数線離れたホームへ列車が滑り込んでいく。
そろそろ通勤ラッシュの始まりかなと列車の往来を見届けていると、隣の王女の様子が少し変だった。
まるで何かを聞きたいけれども、遠慮しているような目でハヤトを見ては視線を膝に落としている。
何か質問があるのだろうか。
何かを尋ねるときにどうしても躊躇してしまう気持ちは運転士見習いのときにハヤトにも同じ事を思ったので王女が躊躇いがちになるのはなんとなく分かった。
ハヤトは彼女の意中を察した。
「何かご質問でしょうか?」
ビクッと彼女の体が動く。
少し考えるそぶりをして王女は話し始めた。
「あの、ハヤト様はこれから一年間私の指導役に就かれるとお聞きしました。
「?」
ハヤトは彼女の話すところの意味が理解できなかった。
指導役というとなにやら上下関係の強い位置づけのようで違和感があったが、フェミル王女の世話役としてこうして供にいることを今彼女の口から改めて告げられる必要があるのだろうかと、ハヤトは不思議に感じた。
王女は続ける。
「つまり、ハヤト様は鉄道において私の師とも言えるお方。騎士に喩えるなら、ハヤト様は私目に武術を伝授し、弟子である私は師の期待に応えるべく鍛錬する身にあります。」
「・・・そ、そうですね。」
余りに飛躍した例を毅然と言われてハヤトは言葉を濁した。
ナイトとしての師弟関係なんて考えたことも無い。
ますます王女の意図するところが掴めなかった。
王女は赤い双眸でまっすぐハヤトを見つめ、意を決したように口を開いた。
「なので、ハヤト様にお願いがございます。」
ハヤトは一瞬息をとめた。
王女は助士席でハヤトのほうを見つめたまま、背筋をピンと伸ばしている。
ハヤトは心臓の鼓動が高くなるのを感じた。
王女という国の最高権威が覚悟を決めて嘆願するとは、いったいどんな内容なんだ。
外の音も届かないほど、運転室内はしんとしている。
ぐっと膝の上でこぶしを作り、王女はその頼みごとを口にした。
「私のことはフェミルとお呼び下さい。」
「ええ??」
余りのことにハヤトは驚嘆の声を上げてしまった。
「そ、そんな。できません、そんなこと。」
「師が弟子を呼び捨てにするのは当然のこと。弟子は師に精一杯の敬意を払い、師は弟子に厳しく接するのが道理。幼少時、時のウェルニア国王である父上から教えていただいた心構えです。ハヤト様、私めに敬いの言葉など必要ございません。そして、もし先ほどのような失態を犯したならば、躊躇わず叱責していただきますようにお願い申し上げます。」
王女はこれでもかというくらい丁寧なお辞儀をした。
ハヤトは停止していた思考を整理する。
つまり、フェミル王女は自分自身を後輩のように扱えと言っているのだ。
だが一国の姫様にそんなことがハヤトにできるはずも無い。
彼女自身がそうしてくれと言っても、鉄道公社の上役、もっと話を大きくすれば日本政府関係者、ウェルニア王室の耳に入ればハヤトもタダではすまない。
それ以前にハヤトの良心がそんな横暴をゆるしはしていないのだ。
「申し訳ないですが、フェミル様の願いと言えども、王女を叱責するなど僕にはできません。それに僕はフェミルの先生として大手を振るにはまだ未熟すぎます。僕自身まだ運転士になってから一年足らずで分からないこともたくさんあります。」
「そうかもしれませんが・・・。」
王女は堪えられずハヤトの言葉を遮ったがすぐに言葉に詰まった。
お互い次に何を言えばよいか分からず、気まずい沈黙が運転室内を包み込む。
ハヤトは人差し指で顎の下を掻き、どうしたものかと思案する。
無下に王女の願いを断ることはできないが、全てをかなえることも不可能だ。
お互いが納得できる最適解はないかと知恵を絞り、とある案をハヤトは思いついた。今もなお不安げな赤い目を王女はハヤトに向けている。
王女に受け入れてもらえるか確証はないが、これぐらいしか解決策は無い。
ハヤトは切り出した。
「それではこうしましょう。」
王女が息を呑む音が聞こえた。
「友達のように接するということでどうですか?」
「友のように・・・ですか?」
きょとんとした表情でフェミル王女が尋ねた。
「はい、先ほども言いましたがフェミル様を厳しく指導したり叱責することは僕にはできません。
ですがフェミル様の願いを全て断ることはフェミル様に対して失礼だと思います。なので単純ですが間を取ってみました。」
ハヤトの提案に王女は困惑気味だが、彼女の目を見る限り受け入れてくれそうな雰囲気だった。
王女はどうしようかと指先をいじりながら思案した後、つぶやいた。
「ハヤト様が・・・そう仰るのでしたら・・・。」
ハヤトは王女の首肯にふぅと安堵の息を漏らした。
冷静に考えてみれば、自分とは一緒にいることなどありえないほど雲の上の人に、友達呼ばわりの打診をするなど言語道断だが、これが最善策だ。
ハヤトは王女を見据え、唾を飲み込む。
すぅっと息を吸い王女に話しかけた。
「それでは、改めて・・・えーと、よろしくね。フェミル。」
至って冷静かつフレンドリーに王女の名前を読んだハヤトが、指先の脈が分かるくらいに緊張した。
しかしハヤトと打って変わってフェミルは満足げな表情だった。
まるでそれは本当に新たな親友を見つけたかのようなだった。
「はい、よろしくお願いします。ハヤト」
昨日初めてこのお姫様に会ってから一番澄み切った声がハヤトに届いた。
彼女の笑顔が窓越しの朝日に照らされていっそう眩しく見える。
「ふふ。」
今までの応酬が何だったのかフェミルもハヤトも小さく笑う。
隣線を行き交う列車も多くなり、気づけば出発信号機も青色に変わっていた。
ブレーキを緩め、力行ノッチをとると、エスペランザは緩やかに発車した。
エスペランザは駅を出て、複雑な分岐点をガタンゴトンと通り抜け、すぐに東海道本線、山科トンネルに差し掛かった。
ヴォンという突入音とともに視界が真っ暗になる。
前哨灯が数メートル先の線路を照らし、トンネルのはるか先に閉そく信号の青色現示が小さく見えるだけだ。
ハヤトはELに照らされた速度計に目をやる。 速度計はちょうど時速100kmを指していた。
同時に、圧力計の下にあるインターパネルの緑色表示も確認する。
正常に光っているところを見ると初期状態は問題なさそうだな。
ハヤトは前方に注意を払ったままフェミルに話しかけた。
「フェミル、運転台の下にある、緑色のランプを見てくれないかな。」
はっと運転席に振り向いたフェミルは揺られる列車の中、助士席からハヤトが言ったランプを覗き見た。
「このATWと光っているものの事でしょうか?」
「そう、ATW、自動列車転送装置さ。」
ハヤトの言葉にフェミルはまだピンときていない。
さっきの運転準備の説明のようにならないよう、ハヤトは可能な限り平易な言葉を選んで説明した。
「説明すると長くなるんだけど、ATWは言わば架け橋みたいなもんかな。」
「架け橋ですか?」
「そう、フェミルのいるウェルニア王国を見つけてくれた虚数周波を活用して、このATWが丸ごとウェルニアへワープさせてくれるのさ。」
「そ、そんなことができるのですか!?」
フェミルはまるで世紀の大発見を目の当たりにしたように驚嘆した。
幼子に負けず劣らずにキャッキャと興奮している。
運転中に騒がれるのはよろしくないが、こんな反応を見てるとハヤトは内心嬉しくなった。
「確かにすごいけど、ただコイツは万能ってわけでもないんだ。」
はしゃいでたフェミルの動きが止まる。それは期待外れというわけではなく何故万能でないのか知りたいという純粋な興味の表れだった。
エスペランザの速度は120キロメートルに達していた。
「ATWが出す虚数周波数がなかなか安定しなくてね。それなりの外部条件がそろわないとウェルニアへ行けないんだ。」
「そうなんですか。」
最初のATWの説明にインパクトがありすぎたのか、今度の返事は至って落ち着いていた。
トンネルに入って最初の閉そく信号機が勢いよく脇を通り抜ける。
そもそも、虚数周波は他の実数周波と共鳴しやすく、振幅が一定になることが稀で、ワープ時には外部電波に影響されないことが条件だなのだ。
通信設備のある大都会や電波塔はもちろんのこと、ケータイ電話やラジオの電波が近くで発信されていてもATWはうまく作動しない。
その脆弱さは航空機が飛行中に機内の通信機器を使用したときに航空無線がジャミングされるよりも不安定だと言われている。
ATWが開発された当初は転送成功率の余りの低さに研究者たちは相当に頭を抱えていたそうだが、長年の試行錯誤の末、安定的にATWのワープを実現する方法が発見されてきた。
まず一つ目が外部電波の影響を受けない長大トンネルであること。
二つ目は転送物が時速130キロメートルちょうどで走行していること。
この速度に関してはまだその理由は解明されていない。
これだけの条件を揃えようと思ったら、かなり安定的に高速を出せる乗り物が必要になる。
かつて、ウェルニアとの交流が両国高官レベルに限定されていた時代は自動車が使われていたが、時速130キロメートルという高スピードを出せるトンネルなど国内に数えることしかなく、かつ事故の危険性も指摘されていた。
また一度に運べる人員もごくわずかであったため、輸送手段の抜本的見直しが時の国土交通省で議論されてきた。
その結果、安定してウェルニアへ高速大量輸送を実現できた一番列車がこのエスペランザだ。
ハヤトは再度速度計の針を見る。
指針が130kmに達したことを確認しゆっくりとノッチオフした。
そして運転台に右下にあるATS切換えスイッチを虚数位置に切換える。
「スイッチよし。ATW起動!」
瞬間、暗闇だったトンネルが薄いエメラルドグリーンに包まれた。
ATWが動作してからワープが終わるまでの約1分間、虚数周波がトンネルの反射波と共鳴して周囲がこのように光り輝く。
運転している当のハヤトも生で見るのは初めてだ。
まるでオーロラの中を走り抜ける銀河鉄道のように神秘的で、自然と列車の走行音も小さく聞こえる。
やがて、光は小さくなり、元のトンネルの暗さを取り戻した。
さっきまで甲高かったジョイント音がくぐもって聞こえる。
遠く一点を照らす光のような出口が徐々に近づいてきた。
ハヤトは無意識にハンドルに力を入れた。
いよいよウェルニアへ突入する。
ふと、フェミルの顔をちらりと見た。
意外なことに、フェミルも目を輝かさせている。
彼女からすれば通ってきた道を帰るようなものだから、それほど特別な事とはハヤトには思えなかった。
もしかしたら、列車の先頭から見える景色と客室からの車窓はまた違うのだろうか。
フェミルの白い肌が外の光に照らされているのを見てハヤトは前方に向き直った。
出口は猛すぐそこまで来ている。
外から漏れこむ幾多の光の筋が、ハヤトの鼓動を高鳴らせる。
ハヤトにとっては初の異世界、フェミルにとっては帰国の途。
状況は違うが、二人の心境はおそらく同じだ。
視界は一気に明るくなり、ブンと言う破裂音と共にハヤト達が乗るエスペランザはトンネルを抜け出した。