異国の王女
「お母様!お母様!」
頬と煙が立ち込める中、一人の少女が助けを求めていた。
車体から漏れる燃料と、人の血か鉄の臭いとも区別がつかない悪臭が充満している。
母はどこかと、幼子は地べたに座り込んだまま、焼け焦げる火の海をひっきりなしに見回す。
座席だったであろうシートは原色を留めることなく消し炭になり、その隙間から炎で皮膚が爛れた腕が顔を覗かせていた。大人が見てもトラウマになりそうな地獄が眼前に広がっている中、母を見つけようと弱りきった体で立ち上がったときだった。
爆発で車両が真っ二つに破断した車両の端の方、ちょうど出入り口があった付近だ。
列車のデッキにあったドアは無残に倒れ、一人のアールブが下敷きになっていた。
少女はばっと駆け出し、火の海を掻き分けてドアのところまで駆け寄る。
「お母様!、しっかりしてください!。私です、フェミルです!」
幼き少女は必死で母に呼びかける。
母も少女も、持ち前のブロンドヘアと、白のドレスローブは見る影もなくなるほど黒ずんでいた。 フェミルの叫びに気づいたのか、ドアの下敷きになった母がうつ伏せになった顔をぎこちなく上に向けた。額からは血を流している。
「フェ・・・ミル・・・。」
虫の息のようなかすれた声で、母が我が子の名前を呼ぶ。
「お母様、今助けます!」
少女は立ち上がり、母に圧し掛かる鉄の塊をどかそうとする。
ゆうに、少女の背丈の三倍はありそうなドアに下から手をかける。
「うぐぅ」
持ち上がるどころか、ドアはびくりとも動かない。
今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうな目で、少女は気張ったうなり声を上げて力を入れては、ため息をついてを何度か繰り返した。しかし、結果は同じ。
母を苦しめてる鉄の塊は一向にその場を譲ろうとはせず、列車内に轟々と燃え盛る炎が無情に二人のタイムリミットを告げている。
無力さと悔しさ、不甲斐ない無さ、ありとあらゆる感情が混ざって少女は嗚咽し始めた。
「フェミル・・・お逃げなさい・・・。」
はっと少女は顔を上げ、首をぶんぶん横に振る。
「何を言っておられるのですか!。絶対になりませぬ!。私は・・・、お母様がいないと・・・。」
今度こそ、せき止められていた大粒の涙が少女の目から流れ落ちた。
「必ずお助けします。がんばって下さい!。」
そう言って、フェミルがもう一度ドアに手をかけようとしたときだった。
「フェミル!」
はたと、フェミルの手が止まり、彼女の母が諭すようにフェミルを見る。
体を動かすことはおろか、声を出すことすら命に関わりかねないのに母は続けた。
「このままでは、私もあなたも助かりません。いえ、私はもう・・・。」
息も絶え絶えに母は続けた。
「フェミル・・・。あなたは、ウェルニア王国、いやこの世界の宝です。あなたは生き延びなければなりません。」
訴えるような瞳を母から向けられ、フェミルは思わず立ち尽くす。
直後、ゴホッと大きな咳と共に母は血を吐いた。
「お母様!」
気づけば下敷きになっている母のお腹あたりから鮮血が滲み出ている。
フェミルはあまりの光景に思わず息を呑んだ。
「お母様、もうしゃべってはなりません。誰か・・・、誰かいませんか!」
周囲を見回し、望み薄とはわかっていてもフェミルは必死に助けを求める。
その時、暖かい何かが手に触れるのをフェミルは感じた。
見ると、母がかろうじて動く片方の手をそっとフェミルへ伸ばしたのだ。
「フェミル・・・。逃げてください。そして自らの運命を受け入れるのです。決して憎んではなりません。いつか神の光が訪れることでしょう。」
フェミルは目を見開いて硬直した。
なぜ、命の危機にに瀕しているのにそのようなことがいえるのだろうか。
ごうっと火の粉が二人に降り注いだ。
うでで目を庇いながら、フェミルは上を見上げた。客室で暴れていた炎が気づけばデッキにまで達している。
熱で天井に赤い亀裂が走り、もういつ天井が崩落してもおかしくない。
そんなときだった。
「王女殿下あ!。」
その声に弾かれるように、フェミルは振り返った。
灼熱の炎が吹き荒れる列車の客室から、銀の甲冑を纏った男が走ってきた。
顔は百戦錬磨の老兵士らしく豪傑で、背丈は天井に達しそうなほどの大男だ。
「ゴードン騎士団長!。」
フェミルの表情が一気に明るくなった。
これで母を助けられる。
「王女殿下、フェミル様、ご無事ですか。」
救世主たるゴードンもあまりの惨状に心穏やかでないことが声からもわかる。
「ゴードン騎士団長、お母様をお助けください。あなたしか助けられる人がいません!。」
フェミルは縋る思いで、彼を見上げて懇願した。
ゴードンが我が主の惨状を見て顔を強張らせた。
倒れたドアの下敷きになった主の胴体からは、床を埋め尽くさんほどの鮮血が染み出し、ゴードンの足元にまで及んでいた。
王女の息はヒューヒューと聞こえるだけで、瞳からは生気が消えかかっている。
「王女殿下・・・。」
そう呼びかけられ、フェミルの母である王女はわずかに微笑んだ。
その瞬間、全身を胸を締め付けられるような痛さと共にゴードンは全てを悟った。
数多の戦場を駆け抜け、星の数ほど命が尽きる瞬間を見てきた百戦錬磨の兵士だから分かる。
そして、長年忠誠を誓ってきた豪傑の騎士は、主と視線を交わすだけで今自分が何をすべきなのを理解した。
それは、己の無力さ、力の及ばぬ不甲斐なさを突きつけるには十分すぎる状況だった。
ゴードンは顎にヒビが入らんほど奥歯をかみ締め、握りこぶしをつくる。
ゴードンのただならぬ様子に気づいたフェミルは不安そうに尋ねた。
「ゴードン、どうしたのですか、早くお母様を助け」
といいかけたところで、フェミルは自分の体が宙にふわりと浮くのを感じた。
何が起こったのか分からず、上下左右をぐるぐる見回す。
フェミルは自分のお腹周りに目をやると、ゴードンの腕が巻きついているのが見えた。そこで分かった。フェミルはゴードンに担ぎ上げられたのだ。彼女は状況だけを理解するも彼がなぜそうしたのかわからないでいる。
「フェミル様、逃げましょう。」
フェミルは、ゴードンの言葉にそのまま地面に真っ逆さまに落とされるような衝撃を覚えた。
何を言っているのだ。このまま母を見捨てるというのか。
「どういうことですか!早くお母様を助けなさい!。これは命令です。」
フェミルはゴードンの腕の中で喚きながら暴れまわる。
こうしている間にも母の状態はどんどん酷くなっていくというのに。
担がれたまま、フェミルは母のほうに目をやると、ピタッと動きを止めた。
彼女の母たる王女の瞳には、もはやこの世に生ける生命の活力を宿してはいなかった。
王女の目はどことも無い方向に向いており、気づけば炎吹き荒れる中でもかろうじて聞こえていた呼吸音はもうフェミルの耳まで届いてはいなかった。
フェミルはすぐ横のゴードンに視線を向ける。
この世に生を受けて6年ほどしかたっていないが、フェミルの目に未だかつて見たことの無いほどの苦悩をにじませたゴードンの姿が映っていた。
ゴードンは目を瞑り、持ち前の目元の彫にはよりいっそう暗い影が差し込んでいる。
その時、フェミルは逃げようとゴードンが言った言葉の意味を知る。
同時にその事実を受け入れられない拒絶反応と憤りが合い混ざってフェミルはあっあっと嗚咽を漏らした。
ビシッと天井から不穏な音がした。
ゴードンとフェミルが思わず見上げると、炎で劣化した天井の傷が一気に車体の端まで広がっていた。
もうここにいてはいけない。
ゴードンは主を一瞥し、フェミルを担いだまま駆け出した。
「ゴードン、ダメです!降ろしてください。お母様はまだ!」
フェミルの絶叫が吹き荒れる炎で聞こえないかのように、ゴードンは客室のど真ん中を走る。
しかし、彼は血が出るほどに唇をかみ締めていた。
直後、けたたましい崩落音と共にデッキの天井が崩れ落ちた。
「お母様あああああああああああああ」
フェミルの叫びを嘲笑うかのように、炎のドラゴンは彼女の母をさらって行った。
春の陽気が顔を覗かせる4月上旬早朝、高峰ハヤトは東海道本線のとある列車に乗り、京都方面を目指していた。
ロングシートの端に腰掛け、何か有意義なことをするでもなく車内の風景をなんとなく見る。
電車は一定のペースでガタンゴトンと小刻みにゆれ、それに呼応するように他の乗客の体も振動する。
朝の通勤時間帯というにはまだ早く、ロングシートの席はほぼ埋まってはいたが、立っている人はほとんどいない。
ハヤトの向かいの席ではスマホのゲームに興じているOLもいれば、寝不足で頭をキツツキのようにかくかくと頭を揺らして寝ているおじさん、経済新聞の株価欄に眉間のしわを寄せている若手サラリーマンなどが思い思いに車内での時間を過ごしている。
どこでも見られるありふれた朝の景色。特に真新しさはない。
ましてや高校時代からこの時間帯の電車で通学していたハヤトにとってはなおのことでる。
しかし・・・だ。
どれだけ無味乾燥な日常でも、変化のない日々というものは存在しない。
去年散った桜の木が今年も全く同じ花弁で再び満開の桜を咲かすことがないように、また、ファッションに敏感な女性たちが同じような服を毎日着ないように何気ない毎日にも必ず変化した出来事がそこら中にちりばめられている。
ただ、変化していないように見えるのはその一つ一つがちっぽけ過ぎる、もしくは自分にとって関係のないこと、どうでもいいことだから同じように見えるだけなのだ。
それでも、だ。
時には人々の生活、価値観、環境を根本から揺さぶる大事件だって発生する。
それも時がたてばはやし立てることのない日常となって時間と共に溶け込むのも世の常となっている。
ハヤトは、そんなかつては非日常と騒がれていた対象の人、いや存在、に目線を移動させた。
ハヤトの向かいドアの前にそれはいる。
純白という言葉ごどこまでも似合う白のロングヘアーに、スラッとしたスタイル。薄いピンク色のドレスを身にまとっている姿は今からお城の舞踏会に赴くと言われても納得するほど華やかな容姿だ。それだけなら何かのコスプレイベントに行く風変わりな人間くらいで周囲の乗客は奇異な目で見るにとどまったであろう。
決定的に違うのはそこではない。ドア越しに佇むその美人はハヤトからは背を向けているふうに立っているので彼女の顔立ちはドアのガラス越しに映るそれからしか確認することができない。
それでも、ロングへアの両脇から切っ先の出た大きな耳は十分すぎるくらい視認できる。
昔、RPGゲームでできたエルフの耳にそっくりな形状だ。当然そんなものは人についてないのは言うまでもない。では、いまドアの前に悠然と立っている絶世の美女は何者なのか。ハヤトの両親が子供の頃くらい過去に遡ってこのような場面に遭遇すればたちまち新聞沙汰になっていたであろうとハヤトは思う。
そう、彼女は人ではないのだ。
“アールブ”それが彼女たちのカテゴリーだ。
今から20年前、日本経済がバブルで絶頂を極めていたころ、時の文部省は税収で潤沢になった資金源を活かして次世代の通信技術の開発に躍起になっていた。数多の民間企業と手を組み携帯電話の開発と通信方式の改良に日夜戦っていたのだ。それが思わぬ結果を生み出した。
当時、各地方のラジオ放送で多くの周波数帯域が使用されていた中、新たな通信方式を開発しようとまだ誰も使ったことのない周波数帯、「虚数周波数」の試験が始まったときだった。
技術者たちは前人未到の周波のはずなのに、通信できる相手を見つけてしまう。それも奇妙なことにそれは日本以外のどの国でもない。いや、それどころかこの地球上のどこにも存在していない。それは宇宙か、あの世か、それとも・・・。
そんなこの地球とは異なる世界との奇妙な交流が始まった。異世界の存在が確認された直後は世界中が注目を集めたが、なにせ相手の実態が見えない交信であったため、相手の文化、風習、人なのかどうか、政治形態はなどなど不明瞭な点が数多く存在した。異世界を知るのに初期の段階で4,5年ほど日本はぐずついていたので気づけばそのニュースは世界の目から離されてしまった。
だが話は再度一変する。
文科省のとあるプロジェクトチームが総合電機メーカーと共同で虚数周波数を応用した転送装置の開発に成功したのだ。実数周波での転送実験で安全性と確実性、耐久性は実証されていたが、虚数周波となると話が変わる。なにせ送る先は異世界だ。素性が分からない以上、人を派遣すれば命の危険にさらされる可能性は高い。
ただし、異世界という宇宙より手軽かつ可能性のある道を諦め切れない日本政府は異世界とさらに密なやり取りで、自国民を生命の危機にさらされることがないか必死に情報を集めた。一定の担保が取れた政府は、自衛隊含め数十名の使節団の派遣を決定。日本人、いや人類はとうとう異世界へ足を踏み入れることになったのだ。彼らを送った当のおえらいさん達はある意味戦場に発見するよりも危険な任務を与えたことに心臓をつかまれるような思いで待っていたに違いない。
そして、10日間の派遣任務を全うした使節団は無事帰国した。
戻ってきた当初は万が一の先頭で負傷していたりといった不測の事態に備えて転移先のポイントで救急、消防が固唾を飲んで待ち構えていたが、使節団の様子をみて、それは杞憂に終わったそうだ。使節団のメンバーはみな笑顔で異世界での過ごした日々を嬉々と語ってくれたのだ。
向こうの世界にはウェルニアという大きな中央集権国家があること、アールブといういわばエルフのような人たちが生活していること、科学技術は未発達で文化レベルは中世ヨーロッパレベルだが代わりに魔法という概念が浸透した世界であること。全てが人々の価値観を根底から覆すような体験をしてきたと彼らは語り、そのニュースは瞬く間に世界の注目を浴びることになる。
それから13年、日本とウェルニア王国は政府要人レベルの交流から国交が結ばれ、限定的ではあるが両国の民間人の行き来も始まることとなった。そんな奇異ないきさつで、ハヤトの目の前にいる美人アールブは彼らにとっての異世界「日本」で生活をしているのだそうだ。
ハヤトは、そんなはるか幼きころに起こった歴史的出来事を回想していたら、すでに随分と車窓が変わっていることに気づいた。小高なビルと住宅地が並んでいた町並みは気づけば田園風景が広がっており、少し先では新幹線の高架橋が併走している。もうそろそろだなと、ハヤトは向かいの異世界人を横目に電車を降りようと腰を上げた。
目的地の最寄り駅を降り、改札を抜けてロータリー広場に出た。
ちょうど通勤ラッシュに差し掛かる時間帯になっていたので、自家用車で送り迎えしてもらっている学生たちや、会社に遅れまいと急ぎ足なさラリーマンたちが絶えることなく行き来していた。
ハヤトが降りたこの神楽町駅は蒸気機関車が栄華を誇っていた時代から存在しているらしく、いくらか増改築を重ねている割には概観はぱっとしない。
駅周辺は線路を境に北は田園、南は住宅地という地形だ。住宅地といっても駅の近くは大きなロータリーに飲み屋やコンビニが数件点在しているだけで、住宅街はもっと離れたところに作られている。それ故このように通勤時間帯になると、バスや車が賑やかに行き交う駅前に変貌する。
ハヤトはポケットに突っ込んでいた手を抜き、腕時計を見た。
7時45分。まだあいつが来るまでちょっと時間があるな。
特に何もすることもなかったので、ハヤトは偶然通りかかった高校生集団に目を移した。
肩に大きな部活かばんを背負って自転車をこぐ野球青年、恋話に花を咲かせる女子高生組みなどなど。 ハヤトは彼らの姿を見て少なからず懐かしさを覚えた。2年前も自分はあんなふうだったのだろうか。いや、とハヤトはかぶりを振った。
自分自身は世間一般で言う優等生の部類だったかもしれないが、あの高校生たちみたいに青春に満ちていたかといえば嘘になる。後悔はしてないが、もし別の生き方をしていたなら・・・。
と、仮定過去に思慮を巡らせていた時だった。
「JKに目線釘付けなんてええシュミしてんなあ。どの娘やどの娘?」
その声でハヤトは瞑想の世界から一気に現世に引き戻された。
振り返ると、俺と年端も変わらない男が気味悪い笑顔でハヤトを見ている。
目線はハヤトとたいして変わらない。
この男もハヤトと同じくスーツ姿だが、ネクタイを締めず、紺の上着のボタンをはずしてラフな格好をしている。顔は大きく顎が角ばって目元は無表情のようで実は常笑っているような雰囲気だ。ハヤトははぁと大きくため息をついた。
「お前と一緒にすんじゃねーよ。」
ハヤトはおはようの挨拶もせずつっけんどんに跳ね返した。
「何でやハヤト!。健全たる20歳の男、若き17歳の異性に夢中なんはええことやぞ!。それをお前はこの俺を変質者のごとくみなしてるんか。」
「まさにそのとおりだ。亮太以上に女のことしか考えない輩は見たことがない。」
くーっと亮太と呼ばれた青年は腕を目元にこすりあて、大げさに泣く振りをした。
この木村亮太は高校のときからの同級生で、腐れ縁か社会人になってからも朝にこうやって駅前で待ち合わせをしては職場まで一緒に通勤している。 昔から遊ぶ事か可愛い女の子にしか目のないやつで、高校入学直後に同学年のアイドル的女子をナンパしては玉砕したという伝説を作り上げたくらいだ。それも一度としてうまくいったこともないうえに、当の本人は反省の色も見せないまま20歳を迎えている。学生時代はこいつとはつるみたくなかったとういのが正直な気持ちだった。こいつのおちゃらけた性格も社会人2年目にもなれば改善されるかと思ったがどうやら期待はずれだったようだ。
目元をこする腕の隙間から亮太はチラチラとハヤトの表情を伺っている。
絶対にこいつ楽しんでるだろ。と、直感したハヤトはそっぽを向いて歩き出した。
「お、おいちょっと待てよハヤト。」
亮太は慌ててハヤトの横についていく。
このようにして彼らのいつもの朝が始まった。
二人は駅から線路沿いの道路を歩いていた。 駅自体が郊外のため人通りは少ないがそれでも時折何台かの自転車とすれ違う。
「ホンマ異世界と繋がってからウン十年も経つのにここにるんは日本人ばっかやなー。」
おもろない、と亮太は心底残念そうな顔をする。
それもそのはず。異世界であるウェルニアから来るアールブの数は年間でも千人に満たない。
確かウェルニア王国の人口が一千万人くらいだから極端に少ないが、これは仕方がないのだ。
それは国交上の問題もあるらしいが、それ以上に技術的な要因が影響している。
片田舎で異世界の美女と会える確立は低いことは現実を見ない亮太といえども分かっているはずだが、どうやら彼にはその事実は受け入れられないらしい。
「お前は夢見すぎなんだよ。大学も国の研究施設もないこんなところにアールブが来るわけ無いだろ。」
そう、アールブが来日する目的は主に科学技術の取得だ。あちらの世界は魔法が発達した反面、技術力に乏しいため、彼らは科学を学ぶために日本に来るので、彼らの所属先はもっぱら大学や国の研究機関と相場が決まっている。
「あー俺も大学行ったらよかったぁー。」
「仕事やめりゃあいいじゃん。」
ハヤトがばっさり切り捨てると、亮太は目くじらをたてて反発した。
「アホな事言うな!。」
俺んちは貧乏なんだからそんなことは許されないと豪語する。
こいつは妙なところで現実的だなとハヤトは心の中でため息をつく。
いや、愚痴に近い我儘と言ったほうが正しいかもしれない。
「欲張るといつか身を滅ぼすぞ。」
さほど真剣味のない口調でハヤトは忠告した。
無駄話の応酬をしながら線路沿いの道を歩き、踏切の前まで来る。
タイミング悪く踏切がなり始めた。遮断棒が降りるまでに走り抜けようかと一瞬頭を過ぎったがすぐに思いとどまる。
ここ東海道本線を横断する踏み切りは、複々線の区間に加えて、優等列車の通過のために他列車を退避させる副本線がさらに二線あるため、踏切を渡りきるのには相当時間がかかる。
うっかり渡り切れず、踏切の保安装置が作動して列車が止まろうものなら目も当てられない。
加えてここの踏切は列車の本数も多く、特に早朝の時間帯は開かずの踏切になるので早く渡りたかったのだが仕方ないとハヤトは観念した。
踏み切りの警報に合わせて遮断棒がゆっくりと降下する。
「あ、そうだ!。」
ぱっと花開いたように亮太が声をあげた。
いきなりな事にハヤトは思わず亮太のほうを見た。
「・・・どうした?。」
「俺何かハヤトに言おうとしてたんやけど、ずっと度忘れしててんか。今思い出したわ。」
つっかえてたものが取れたような物言いで亮太はハヤトを見た。
こいつのことだからしょうもない可能性は高いのは従順承知しているが、ハヤトは一応聞いてやることにした。
「で、その内容ってのは?。」
亮太は妙にもったいぶって顔をニヤニヤさせる。全身を使って良くぞ聞いてくれましたとばかりに態度に出している。
「実はな、今日の朝、京都駅でどえらい美人アールブに会うてん!。」
「・・・。」
すぐそばを電車が高速で通過してきた。列車の轟音が拍車をかけて俺の頭も思考を停止しそうになった。お構いなしに亮太は続ける。
「ここ来る途中でさ、京都駅に信じられへんぐらいきれいなアールブがいたんやって。俺、次の乗換があるし急いでたんやけど、その人みて足止めてもーたわ。いやあ今でも思い出す。」
亮太は目を瞑り、両手を胸の前で握り締めて良き記憶の風景を見つめている。
ここがもっと別の場所なら無視して先に言っているところだが、生憎踏切はまだ開く様子がない。
「アールブなんてみんな綺麗だろ。今更豪語するところか?」
ウェルニアの種族アールブは驚くことに全てが美男美女そろいなのだ。
その理由は定かではない。十三年前、ウェルニアの使節団が始めて日本に来訪した時、彼らのあまりの美しさにマスコミは両国首脳会談の内容よりも使節団の容姿について語った記事を出したくらいだ。それ以来、アールブは街中を歩いているだけで芸能人以上の注目の的になったし、あまりの神々しさに一部の新興宗教では信仰の対象にされるほどにまで話がでかくなった。今はもうだいぶマシになったが、それでも今日電車でアールブがいれば、それだけで彼らは周囲の目線を惹くのだ。
「いや、あの人は今まで見たアールブの中でも図抜けていたぜ!。全ての闇を吸い込むような白のドレス、透き通るような肌と清純な眼差し。きっとあの方はウェルニアのお姫様にちがいない。」
今度こそハヤトは呆れた。
「お姫様がそんな白昼堂々と大衆の面前に現れるかよ。」
「そんなん分からへんやん。第一ウェルニアから日本来よう思ったらエスペランザに乗るしかあらへんで?」
亮太の反論にハヤトはしばし沈黙する。
亮太の言ってることは確かに正しい。ウェルニアと日本を行き来する交通手段は実は鉄道しかない。十数年前に虚数周波を応用した転送装置が開発された当初は自動車が使用されていたが、これが余りにもエネルギー効率が悪かったらしい。おまけに転送時には周波数を安定させるためにスピードの制約も出てくる。そのせいで、自動車では転送に何度も失敗して政府は対策を余儀なくされた。その結果鉄道ならばどうかと、時の運輸省は列車に転送装置に搭載し、試験を始めたのだ。もちろんウェルニアに鉄道は存在しないので、従来の自動車転送で技術者と機材を移送し、試験線を急ごしらえして実験を開始。これが見事に成功した。
転送失敗回数はゼロ、一度に大量の人員を運べるメリットも生まれた。その後、日本では試験車両を旅客用に改造、量産する工事を、ウェルニアでは転送ポイントから王都イズンまでの線路を含めた地上設備の建設が始まった。3ヶ月という急ピッチの工期を無事終え、鉄道は無事開通。両国を走る国際特急「エスペランザ」は運行を開始した。
特急エスペランザはウェルニアの王都イズンと日本の京都を結ぶ。エスペランザの巨額の開発費の都合、ウェルニアへ行く列車はこれだけしかない。だから、アールブが日本へ来るときには必ず京都駅のホームに足をつける。
それでもだ。ハヤトは腑に落ちないでいる。
「ウェルニアのお姫様が通勤ラッシュ真っ最中に来るエスペランザに乗るか?。色んな意味で危ないだろ。」
イギリスの王族が一人で高速鉄道に乗っているようなものだ。誘拐されたり暗殺の可能性だってある。異世界の常識は知らないが少なくとも日本では考えられない。
やっぱ、亮太のくだらない妄想だろうとハヤトは考えた。
何本かの列車が通過し終わり、ようやく踏切が上がった。
ハヤトはさっと一歩前へ出て歩き出す。亮太も置いてかれまいと駆けてこりもなく続けた。
「いや、だから用心棒がたくさんいたんやって。」
「用心棒?」
ハヤトは怪訝な視線を亮太に向ける。
「そうや。その言うてたアールブやけどちょうど駅についたエスペランザからまさに降りてくるときやったんや。最初は黒いスーツ着てサングラスかけた厳つそうなのが何人か出てきて、えらい騒々しいなぁって見てたら次にそのアールブや。それだけやない。」
少し溜めをつくり、亮太は語気強く言った。
「鉄の甲冑着たナイトが出てきたんや。」
「はい?」
あまりに予想していない単語が出てきてハヤトは思わず間抜けな声で反応した。
ナイト?、甲冑?
「信じれへんやろ?目元の彫が深いおっさんで体は昔のヨーロッパ人が戦争で来ていたような甲冑でエスペランザから出てきてたわ。ある意味一番衝撃受けたで。」
半信半疑でハヤトは亮太の話に耳を傾ける。甲冑を纏ったナイトとはにわかに信じがたいが、文明レベルが中世ヨーロッパくらいのウェルニアとなるとありうる話かもしれない。
亮太のお姫様という表現が大げさに聞こえることには変わりないが、そんな連中がいたとなるとそれなりに地位の高いアールブがこの日本に来たということか。
どんな人なんだろう。知らない間にハヤトは亮太の話に引き込まれていた。踏切を渡り終えると二人はとある施設の門の前に到着した。
車がすれ違うことができるくらいの幅に、錆びれたコンクリートの柱が両脇に立っている。
門のすぐ横には守衛用の小さな詰め所があるが、巡回中の札がかけられていて人はいない。
そんなさびしい入り口にひときわ目立つ銀色の銘板がコンクリートの柱につけられていた。
それは、意識していなくても目に飛び込んでくるくらいに存在感をだしていた。
ハヤトは銘板の文字に目を向ける。
“日本鉄道公社 神楽町総合運転所”
ハヤトと亮太が高校卒業後所属している組織だ。
二人は鉄道を支える一員としてここで働いている。ここ神楽町総合運転所からは鉄道公社の西日本エリアを走る全ての列車が発着しており、列車の定期メンテナンスもされている。
それだけではない。この運転所はウェルニア王国へ向かう特急エスペランザを整備している唯一の施設だ。エスペランザの運行開始当初はウェルニアに向かう唯一の列車としてこの運転所も世間の注目を集めたと聞く。
ハヤトはチラッと腕時計をみて時間を確認する。
午前七時四五分。
始業が9時だからまだ随分と早く着いたものだ。時間が時間だけに門をくぐったのはハヤトと亮太の二人と業者と思しき車一台だけ。急ぐ理由もないので二人はぼんやり周囲の景色を見ながら歩いた。
「しかし、早いよな。俺らもうここ入ってから一年経つんだよな。」
特に前触れがあったわけでもないがふとハヤトはそんなことを口にした。
そう、入社式のときに緊張を全開にして臨んだあの日から一年経ったと思うと早いもんだ。
僕と亮太は社会人となったが、他の同級生の大半は大学へ進学した。
そのため、彼らと会うときは学生気分がぬけないのである意味ハヤトと亮太もあどけなさは抜けていない。
時の流れを感じながら歩いていると、亮太が急に立ち止まった。
「なぁ、ハヤト。あれ見て。」
「ん?」
目を丸くした亮太の見ている方向に、ハヤトも視線を向ける。
門から入ってすぐ右手にはいくつもの線路が並ぶ。一時的に列車を置く留置線や、検修庫と呼ばれる列車を検査する格納庫が存在する。その線路を二人が歩く小さい歩道を境界にして左手には鉄道公社の職員用駐車場が設けられていて、広さはテニスコート三面分くらいだ。
決して広いわけでもないが、一台の駐車スペースにワゴンを停めるには十分な広さだ。
今日も半分くらいスペースが埋まっている。
亮太が注目したのはそこに停まっていた一台の車だった。駐車場の一角に明らかに他の車とは雰囲気が違う車が停まっていた。おおよそデザイン性など無視した外板に窓から車内の様子は見えない造りになっていて、いかにもそのスジの人が出てきそうな雰囲気を醸し出している。
威圧感たっぷりの黒車を訝しげに見ながら亮太は呟いた。
「こんな物騒な車ここで見たことないわ。誰か借金取りにでも追われてるんか?」
「借金取りが堂々と公共機関の敷地に車とまるかよ。」
「それじゃあこの車はなんや?」
「・・・。」
亮太の問いにうまく答えられない。アウトローな人種がここに足を踏み入れたとは考えにくいが、だからといって他にどんな人がこのような車に乗ってやってくるのかと言われるとパッと思いつかない。なにせこんな物騒な車をハヤトは入社してからこの一年間で見たことがないのだ。誰だろう、公社のお偉いさんかな。ハヤトはいろいろ人物像を頭の中に浮かべているがすぐに考えることをやめた。直接ハヤトたちには関係なさそうだからだ。
同じことを亮太も思ったらしい。
「まぁいっか。ちょっと変わった車が停められているだけや。好奇心でついつい気にしてもうたわ。」
漆黒の自動車から二人は興味と共に目線を外し、二人は駐車場奥にある運転所の事務棟へ向かう。
事務棟は地下一階と地上三階からなる四階建ての建物になっており、一階に入り口がある。
ハヤトたちは勤務中に着用する制服に着替えるため、地下一階の更衣室へ降りていった。
更衣室の入り口を開けると、人の背丈より少し高いロッカーが所狭しと肩を並べている。
奥のほうでは、夜の守衛業務を終了したであろう警備のおじさんが私服に着替えていた。
「おはようございます。」
ハヤトが挨拶をする。
「ああ、おはよう。」
おじさんも物腰柔らかく挨拶をした。
ハヤトは荷物を床に降ろした。亮太も自分のロッカーの前に担いでいたかばんを置く。
同期入社ということもあってか、ロッカーは隣同士だ。一人に対し、ロッカーは二つ与えられていて、一つはスーツを掛ける用、もう一つは制服用だ。
二人がほぼ同時にロッカーを開けると、亮太のそれからほんのりとオイルの臭いが漂ってきた。
臭いに反応し、ハヤトは顔を背ける。
「お前其その制服洗ってるのかよ。」
「当然や。けど、油ってのは市販の洗剤じゃ完全に落ちひんねや。まぁ、逆に言えば仕事をようしてる証拠やな!。」
ハツラツとした口調で、亮太はバッと汚れた整備服をハヤトに見せつけた。
ハヤトは目を細めて半歩下がる。
亮太は鉄道公社に入社後、電車の整備部門に配属された。公社では主に列車の運転、車掌業務をする乗務員、線路メンテナンスをする保線、電気通信保守の電気部門、そして電車のメンテナンスをする整備部門と大きく四つに分かれている。
亮太が所属する整備部門はその名のとおり、工具や重機を使用してい一日中列車の整備をしている。高校の時、亮太はデスクワークは嫌だから、体を使う仕事がしたいと入社時の配属面談で声を大にして伝えたらしい。
亮太の威勢にうろたえる面接官の顔が目に浮かぶ。
彼は一日の業務が終わるとたいてい泥だらけで更衣室に戻ってくる。傍らから見ると過酷な労働環境に身をおいているように見えるが、当の本人は楽しそうに仕事をしているので良しとしよう。
「その汚れたやつ僕の制服に近づけるなよ。こっちは汚れたらまずいんだからな。」
そう言って、ハヤトは自分の制服を手に取った。
慣れた手つきで紺色のネクタイを締め青色のブレザーの袖に腕を通す。ブレザーには鉄道公社のシンボルマーク、金の大鷲が刺繍されている。ロッカー扉に備え付けられている鏡でネクタイがいがんでないか確かめ、乗務員用の制帽を被った。
帽子の正面から前髪が見えていると周囲からだらしなく映るため、前髪は常に帽子の中に納めている。一通りの身だしなみをチェックしてから、ハヤトはロッカーを閉めた。
ふと、横を見ると亮太がニヤニヤとこっちを見ている。
「・・・なんだよ。」
「いや、やっぱハヤトは運転士が似合ってるなぁと思ってな。」
「は?、今更なんだ?」
一年もこうやって顔を突き合わせているんだから改めて言うことでもないだろう。
ハヤトがなぜという目を亮太を見る一方、亮太はハヤトの全身をサッと眺めて答えた。
「まぁ、なんていうかさ。ハヤトは俺と違って堂に入ってるねん。貫禄があるいうか。」
ハヤトは袖やズボンなどを体を捻りながらもぞもぞ見回す。
瞬間反射的にその行動を取ったことをハヤトは後悔した。
なぜなら、亮太のニヤニヤがさらに顕著になったからだ。
「からかっただろ。」
クックッと気味悪い笑い声を出したながら亮太は煤けた整備服に袖を通した。
「そんなことあらへんで?。洛栄鉄道高校主席卒業の高峰君。」
「おまえなぁ・・・。」
またこの手のからかいかよとハヤトは大きくため息をついた。
ハヤトと亮太は洛栄鉄道高校という一風変わった高校の出身だ。何が他の学校と違うかというと名前の通り鉄道事業に特化した学校なのだ。
本来高校には普通科だけでなく、農業、工業、商業、水産などそれぞれの専門分野に特化した高校も多数存在する。中でも洛栄鉄道高校は異色で鉄道に特化した全国に類を見ない専門科を設置している。コースは運輸科、電気科、車両整備科の三つに分かれており、ハヤトは運輸科、亮太は整備科の出身だ。
運輸科では一年次に鉄道の基礎的な知識を学び、二年次には企業訪問など将来の進路を意識した実習を受ける。そして、三年次には国家資格である動力者操縦免許、いわゆる列車運転士の免許取得に向けて勉強するのだ。騎乗教育はもちろん学校で勉強するのだが、操縦訓練などの実務教育は鉄道公社の訓練センターで実施される。つまり、他の学校から公社に入社した新人たちが一年目に受ける基礎教育を高校三年までに修了させてしまうのが洛栄鉄道高校の特色となっている。車両整備科はこれも実践的で、高校の敷地内に実習場を設けており、廃車になった車両を使って実際に整備実習をするのだ。学生時代も亮太は今の格好のように油まみれの作業着で構内をよくうろつきまわっていた。(汚い格好で校舎を歩くなと先生たちにしょっちゅう怒られているのハヤトは目撃していたが)
ハヤトは性格が災いしてか、与えられた責務はきっちりこなさないとすまない性で、たとえ学業と言えども自分が納得できるまで勉強を重ねていたのだ。一度も手を抜いたことはない。
結果、成績は常に学年トップで、卒業式では卒業生代表として答辞を述べたほどだ。
当の本人は特に野望があったわけではない。手を抜かない性分の結果そうなったわけだ。
しかし、これがおちゃらけた亮太には格好のからかいネタになってしまった。
以来、何か隙あれば、この具合だ。
亮太の話で近い過去の思い出に浸っているとだいぶ時間が経っていた。
ちらほら他のロッカーを開けては更衣室を出入りする足音も増えてきている。
「おい、亮太が無駄話してくるから時間経っちまったじゃねぇか。もう行くぞ。」
「おい待てや。冷たいやっちゃやなあ。」
いそいそと更衣室を出るハヤトの後ろを、身だしなみ不完全な亮太が駆けて行った。
始業開始の点呼は車両整備部門と乗務員は別々に実施されるのだが、今日は新年度始まりということで合同点呼になっている。事務所から少し離れた検修庫が点呼場になっているのでハヤトと亮太はそこへ向かった。
検修庫は鉄骨の躯体が剝き出しになっていて、壁はコンクリートという簡素な構造になっている。高さはビル三階建て分くらいで、吹き抜けになっているから外から見るより内部は高く見える。天井からは数個の水銀灯が吊り下げられている。いかにも頼りなさそうな体だが、かつては震度6強の地震にもビクともしなかったらしいので、案外頑丈に設計されているようだ。
点呼スペースの前には小さな朝礼台が設けられていて、その上には経営理念が記された看板が仰々しく掲げられている。既に点呼場にはかなりの人数が集まっていた。
今日この点呼場には運転所に出勤している人達全員が集まるので賑やかだ。
運転所の平均年齢も四〇代と高く、ほとんどが五十才を越えるおっちゃん連中だ。
かつて、鉄道公社が赤字だるまの経営危機に落ちいっていた時代、時の総裁が打開策のため長期間採用を停止していたのだ。その結果、三,四〇代がほとんどいない歪な年齢構成となっている。この運転所も例外ではない。現にここで若手と呼ばれているのは、ハヤトと亮太。
そして・・・。
「おっはよー。」
後ろから、元気全開な女の子の声がとんできた。
ハヤトと亮太が同時に振り返る。大きく見開いたつぶらな瞳にボブカットの髪をなびかせて二人のほうに歩いてきた。紺色のスーツパンツに青色ブレザーの車掌服を着ているが幼さがまだ残っている。
「おはよう、りつ子。今日は日勤?」
いつもの調子でハヤトが尋ねる。
「いや、今日は泊りよ。今日も長距離行路だから辛いのよねー。」
彼女の名前は赤星りつ子。
ハヤトと同じく高校時代の同級生で奇しくも亮太と一緒に鉄道公社に入社した同期だ。
元々男性社会の鉄道界で女性の存在は珍しく、りつ子はこの運転所でも紅一点だ。学生の時から一度もしょげているところを見たことがないほど明るい性格で、どこへ行っても人気者だ。
背丈はハヤトの肩ぐらいまでしかない小柄な容姿でなおかつ童顔なため、もっと大人になりたいと彼女はよく言っている。実際成人を前にしているにも関らず中学生に間違えられることもあると言う。
あどけなさと元気さが合い混ざったりつ子は目を大きくし開口一番話を始めた。
「ねぇねぇ、聞いてよ。今日来る途中でさあ、すごいことあったんだって!。」
このセリフはもはや朝礼レベルの定型文と化している。人一倍感受性の高いりつ子は、何か感動したことがあったり、興味をそそられたことがあったりすると人に話さずにいられなくなる性格らしい。そのはけ口がもっぱら亮太とハヤトで、朝一りつ子が言ういわゆる“すごいこと”を点呼前に聞くのがお決まりパターンになっている。
「今日京都駅のホームですっごいきれいなアールブ見たの!。」
「アールブなんてみんな綺麗だろ。」
ハヤトはそっけなく答えるが、りつ子はぷっと口を膨らませた。
「違うのよ。ハヤトが思っているような並大抵の綺麗さじゃないの。駅でちょうど改札を抜けたあたりでそのアールブを見たんだけど明らかにオーラが違ったのよ。なんていったらいいかしら・・・。聖母マリアが生き神様として君臨したらあんなふうなんだろうって。」
そう言いりつ子は自分の記憶の風景を見ては爛々と目を輝かせる。
「きっとあのアールブあっちの世界じゃすごく地位の高い人よ。お姫様かしら。」
「ホンマに?。なんでそんなんわかるんや?。」
どのワードが琴線に触れたのか亮太が食いついてきた。同じ質問をハヤトがしても呆れた雰囲気になるが、亮太だと興味津々に聞こえるから不思議なものだ。
待ってましたとばかりにりつ子は話した。
「だって、たくさんのSPさんに囲まれたんだもん。」
「ほうほう。SPか。」
大げさに顔を上下させて頷く亮太にハヤトは黙って冷ややかな目線を送る。
「そのアールブ見かけたのが京都駅の0番ホームだったの。ほら、あそこエスペランザが停まるホームじゃない?。ちょうど私が通ったときにエスペランザが停まっていて人が降りてたんだけど、そしたら黒スーツの人がいっぱい。思わず足とめちゃって、何だろうって見てたらそのアールブのご登場ってこと。」
聞いてたハヤトと亮太はりつ子の話に二人目を合わせた。
この話って確か・・・。
亮太が話した。
「それ俺も見たわ。すんごい美人やったよな。」
りつ子も目を丸くした。
「亮太もあそこにいたの?。気づかなかったわ。ねぇほんと女神様みたいだったわよね。」
二人とも同じアールブに会ったのか。
幸運を分かち合う同志のごとく亮太とりつ子が盛り上がっている一方、ハヤトは完全に蚊帳の外だった。ハヤトは面白くないと思いつつ彼らの話に耳を傾ける。亮太は元来女に目がない正確だし、りつ子はなんにでも目を輝かせるくらいの好奇心旺盛振りだ。あまり当てにならないかも知れないが二人がこぞってこぞって騒ぐほどの美人なら見てみたいなとハヤトも思わなくはなかった。
ハヤトが考えながら視線を床に落としていると、急にりつ子がしたから顔を覗きこんできた。
突然のことに思わずハヤトは一歩引き下がる。
怪訝ともいえる感情を目にこめて彼女はハヤトを見てくる。
「な、なんだよ。」
精一杯の強がりでハヤトは言った。
「ハヤト、今さあ、そのアールブどんなだけ綺麗なんだろうって思ったでしょ?」
ギクっとハヤトの体が震えた。同時に図星でなのもあからさまに出て視線を泳がせてしまった。
恥をかきたくなかったのでとっさに言い返した。
「べつに、そんな」
「正直に言いなさい。」
不敵な笑みを浮かべた小悪魔がハヤトに人差し指を突きつける。
しばらく息を止めたあと、落ち込むようにため息をついた。
完全に負けだ。
「はい、そのとおりです。気になっていました。」
ハヤトが軽く両手を上げ降参の意を示すと、りつ子だけでなく隣で成り行きを見ていた亮太もさもご満悦といった表情だった。
ほんとコイツらは・・・。
ハヤトは心の中で毒づいた。
「いや、ハヤトにも見せたかったわあの女神さまを。残念やったなぁ。」
亮太の見下げるような発言にハヤトはむっとする。
「面白くない。」
「ひがむなや。運がよかったらお前もいつか会えるかもしれへんや・・・。」
と言いかけて亮太はハヤトから視線を少しそらしてキョトンとした。
「・・・亮太?」
何をこいつは黙りこんでいるんだろうと、ハヤトも亮太が凝視する方向へ振り向いた。
瞬間、ハヤトも思わず息を飲んでしまった。
検修庫の入り口から重役たちがこちらへ向かって歩いてきていた。
そこには運転所長、運輸部長、車両部長等々、ハヤト達のような新参者などまずお目どおりできないようなお偉いさん方が厳しい表情で点呼場に入ってきた。無論、そんなことで亮太やハヤトが会話を中断するわけがない。その重役たちに挟まれるように歩を進めていた猛一人の存在に目を向けていたのだ。
白のロングスカートに装飾の施された茶色のカーデガン、首からかけられたネックレスは派手なものではなく、どこか上品な雰囲気を醸し出している。それ以上に目を惹くのは顔立ちだった。真っ白な肌に金髪のロングヘアーをなびかせている。全てを見通すような黒い双眸はまさに女神と呼ぶにふさわしい眼差しだ。彼女が歩いている場所だけスポットライトが当てられているようで、ハヤト、亮太、りつ子だけでなく、ついさっきまで雑談していた周りの人たちも一様に目を釘付けにしていた。
「あの人だ。」
沈黙に穴を開けるように亮太が口を開いた。
「へ?」
ハヤトは思わず間抜けな声を出した。
「間違いないわ。私も今朝あのアールブ見たわよ。」
興奮気味にりつ子が付け加える。
ハヤトはもう一度こちらへ向かってくるアールブに目を向ける。距離が縮まるごとに伝わってくるオーラは濃くなってくる。なるほど、確かに絶世の美女だ。
点呼場にいる職員全員の注目を集めながら、美人アールブは重役たちと共に朝礼台の脇に一列に並んだ。前に立つ者が違うだけ気でこうも景色がくぁるとは、とハヤトは思わずにはいられなかった。
気づけば、威勢のいい始業の鐘が庫に響き渡ってハヤトは意識を引き戻した
なり終わると列の一番端に立っていた所長が朝礼台兄上がり、号令をかけた。
「おはようございます。それでは朝の合同点呼を行います。一同、礼!」
点呼場には普段以上に緊張した雰囲気が漂っていた。無理もない。
今、見目麗しき謎のアールブがそうそうたる重役たちと共にハヤト達の前にいるのだ。
点呼場にどよめきこそ無いとは言え、彼女が何者なのか興味津々なのは周囲の背中を見ても伝わってくる。皆の胸のうちのを察するように所長が軽く職員を見回して続けた。
「ええ、本日は新年度ということで普段でしたら挨拶を述べるところなのですが、実は今日は日本鉄道公社、いやこの国にとって記念すべき日であることを皆さんはご存知でしょうか。」
亮太はもとより、ハヤトや、横にいるりつ子でさえ首をかしげている。
「実は今日、ウェルニア王国と日本の鉄路が開通し、そのアクセス列車エスペランザが運行を開始してから十周年になります。皆さんも知っての通り今から二十年前、われわれが住むこの世界、いやこの星といいましょうか、それとは異なる世界が虚数周波数帯と同時に発見されました。それがウェルニア王国です。若い方は知らない方も多いかもしれませんが、当時は、虚数周波の発見と共に転送装置の実地運用が進められていました。装置を使った政府要人レベルの交流が始まったのがこのころです。当時では信じられなかった魔法という概念や、アールブといわれる妖精種族の存在が明らかになりました。そんなわれわれ日本人が歩んできた道のりとは異なる世界との交流が徐々に深みを増してきました。このつながりは両世界の更なる発展に寄与してきたのです。その繋がりをより強固にしようと、今から十年前、日本政府、ウェルニア王国、そして我が日本鉄道公社が総力を決して開発したのが日本初の国際特急エスペランザです。」
十年前の興奮を思い起こすように所長が冒頭を述べた。
つられて、重役たちもうんうんと軽く頷く。
両国の総力とは言っても、ほとんどは日本の技術だ。ウェルニアは魔法が発達した反面科学技術に乏しいため、向こうでの建設に携わったのもほとんどこちらの世界の人だと先輩たちに教えられたことがある。
それはさておき、皆が知りたいのはそんな改めて聞かされる歴史ではない。
ハヤトは所長に向けていた視線を朝礼台の脇に立つアールブに視線を切り替える。
謎のアールブは、両手を前に交差し、燐とした瞳を目の前の職員たちに向けていた。
本当に、ずっと見惚れていたら恋に落ちてしまいかねないほどの美貌だ。
可憐さのあまりずっと彼女を見ていられる人は少なそうだ。
ハヤトがアールブに意識をとられているうちに、所長が本題に入り始めた。
と、同時にハヤトはとんでもない事実を耳にする。
「それで、本日はエスペランザ運行十周年を記念しまして、ウェルニア王国第一王女、フェミル=スフィア=ウェルニア様に遠路はるばるお越しいただきました。」
ハヤトは一瞬思考を停止した。
王女?聞き間違いだろうか。
王女ということは、日本で言えば天皇家、イギリスで言えばエリザベス女王に匹敵する地位の御人がこんなむさ苦しい鉄道の施設に来たというのか?
しかし、四方から、王女って、とか、聞き間違い?、って囁きが聞こえてくるから本当に異世界の王女が今まさに目の前にいるのだと理解した。
「はい、静粛に。まだ話は終わっていません。」
驚くのはまだ早いとばかりに所長は場を静める。
「フェミル様にはこれから約一年間、特急エスペランザの乗務員研修を受けていただくことになります。」
所長の言葉に今度こそどよめきが響いた。つまり、一国のお姫様が1年間この職場で皆と共にするのだ。信じろと言うほうが無理なくらいの衝撃だ。
再び静粛にという言葉が投げかけられる。
「ええ、フェミル様には実際に業務に当たっていただくわけではなく、専任の運転士についていただき後ろからどのような仕事をしているのかご覧になっていただく予定です。
なお、この研修は日本、ウェルニア王国の両国極秘で実施する研修です。
他言無用なのはもちろんのこと、もし情報が外部へ漏れた場合には、関係者全員が厳重処罰を受けることになります。それは各自承知しておくようにお願いします。」
語気強く所長が皆に釘を刺した。
「それでは今回の研修に先立ちまして、フェミル様にご挨拶を頂戴したいと思います。」
厳しい表情のまま朝礼台を降り、恭しく王女をエスコートした。
王女はゆっくりとした足取りで朝礼台をのぼる。
細く開いた目の奥に澄んだ黒い双眸が離れたハヤトの位置からでもはっきりと分かる。
まだ、一言も喋っていないのに存在だけで王女足りえるには十分すぎるくらいのオーラを醸し出していて、もしひれ伏せろといわれたらそうするであろうくらいの空気漂っている。
余りの張り詰めた状況に、ここにいる全員が時を止められたように動かない。
鉄道施設のくせに外で走る列車の音は聞こえない。
まるで庫の中が真空にされたみたいだ。
王女はわずかに顎をひき、目線を下げた。
真一文字に閉じていたフェミル王女の口がゆっくりと開き、マイクからすうっと息を吸う音が庫に静かに響いた。
「神楽総合運転所の皆様、はじめまして。先ほどご紹介に預かりましたウェルニア王国第一王女フェミル=スフィア=ウェルニアです。」
驚くほどに透き通った声だった。柔らかな声なのに脳の隋まで浸透している上に、表情は変わらないにも関らず話す前の厳かな雰囲気は全く無かった。声、雰囲気共にその場の空気を柔軟に変える彼女の風格はまさに王女と呼ぶにふさわしかった。
一息つき、フェミル王女は挨拶を続けた。
「このたびは我がウェルニア王国のためにこのような機会を与えてくださり光栄に思います。
実は私、本日が始めての日本訪問になります。もちろん、こちらの神楽町総合運転所にお邪魔させていただくのも初めてになります。今朝、特急エスペランザで日本に入国し、京都駅に私は降り立ちました。高くそびえる、摩天楼のようなタワー、駅を行き交う多くの民、目を見張る技術の数々、全てが衝撃の連続でした。そ
そして、そのすばらしい世界と関りを持てたことを神に感謝いたします。」
祈るような視線をハヤト達に向ける。実質無宗教者である我々日本人にとって神という言葉を出したことに少し驚いたが、ウェルニアに限らず諸外国では一般的なのだろうとハヤトはおぼろげながらに感じた。
「私は神によってもたらされた皆様とのご縁を大事にし、両国の反映に寄与したいと願っています。その要である国際特急エスペランザの実質をこの目で見たいと勝手ながら日本政府を通じて私自ら打診しました。神楽町総合運転所の皆様には何かとご迷惑をおかけするかと思いますが、しかしどうか、我がウェルニアのため、いえ、日本と我が王国の末永き繁栄の手助けと思いご協力をお願いします。」
フェミル王女は深々とお辞儀をし、顔を上げた。
束の間の沈黙が点呼場を包み込む。
ハヤトはあまりの力強い名挨拶にしばし心を奪われた。王女のスピーチが名立たる諸外国の大統領を凌駕しているのは素人耳の一般市民である職員たちでも芯から理解していた。
挨拶の余韻に浸っている間に、後ろからパチパチと手を叩く音がした。
振り返るとりつ子が涙目の笑顔で拍手をしている。
一瞬唖然とするも、すぐに横にいる亮太も手を叩いていた。
朝礼台の脇に並ぶ所長も重役たちも後ろにいるおっちゃんたちも。
瞬く間に拍手の嵐は検修庫内に響き渡った。
フェミル王女が再び一礼して朝礼台を降りたとき、再び所長の号令が響いた。
「フェミル様ありがとうございました。それでは皆様、これから1年間フェミル様をよろしくお願いします。では、以上で朝の点呼を終了します。一同礼!」
「もう私感動しちゃったあ。あれが本物のお姫さまなのね!。」
りつ子がハヤトの半歩前を歩き、両手を握り締めながらさっきの光景を思い出していた。
「すげー美人やったよな。将来の嫁さんにしたいわ。」
亮太が見境無い発言をした、。ハヤトが思わず口を挟む。
「おまえなぁ。」
「ん、どうしたんや?」
「・・・いや、なんでもねえよ。」
何か言い返そうかと思ったが、亮太の間抜けな声と面をみてやめることにした。
同じく他の職員たちも各持ち場に着く途中だったので、それに周囲に人がいたが、四方八方からフェミル王女の話で持ちきりだった。
それもそうかとハヤトもさっきの王女の挨拶を頭に浮かべた。
あれほどの美女がハヤト達の目の前に現れたのが未だに信じられない。
実はこれは夢でしたなんてタチの悪い結末のほうがむしろしっくりくるなと思いながら、ハヤトは自分の頭を大きく揺さぶってみたが、どうやら現実らしい。
あんな女神様みたいな人(正確にはアールブ)がこの世の中に存在するのかと改めて感慨に浸っていたとき、りつ子がハヤトの方に振り返った。
「そう言えば、あのお姫様って誰か乗務員について研修するのよね。誰なんだろう。」
後ろむきに歩きりつ子はハヤトと亮太を交互に見て、過ぎった疑問を口にする。
「そりゃ俺やろ!。俺が手取り足取りラチェットの使い方を姫様に教えたるねん。」
「乗務員だって所長が言ってただろう。」
昔ながらのこと言えど亮太のアホな発言にツッコミを入れることにハヤトは少々うんざりしていた。あの美貌がマシンオイルで穢れるところなど想像したくもない。それに万が一怪我でもされたら、ウェルニアと日本の国際問題にまで発展することは末端市民であるハヤトにも容易に想像ができた。つくづく研修に整備が入ってなくて良かったと思う。
ふうとハヤトは一息ついて、頭を本線に戻す
一国の王女とマンツーマンで業務につくとなると仕事の経験だけでなく、人柄もそれ相応の人じゃないと任せられないはずだ。誰だろうとハヤトはぼんやり考える。
運転士として新人が教わるなら、京都電車区の堀場さんが一番だ。彼は入社以来関西地区の各先駆を数十年運転しているベテランだ。いつしか誰かが行っていたが、指令の通達が無くても信号機の現示と天候、対向路線の列車のすれ違い箇所を見ただけでダイヤがどれだけ乱れているかを瞬時に把握できると聞いたことがある。どこからどこまでが本当か分からないが、堀場さんレベルとなるとそれくらいになるのだろう。運転のことを知るなら王女は彼に着いたほうがいいなと思ったところでハヤトは被りを振った。いや、冷静に考えたら王女は女性なんだし、女性乗務員と一緒のほうがいいよな。万に一つでも男性が乗務中に王女に変な気を起こす輩がいないとも限らない。事実、去年の今頃鉄道公社の人間が通勤途中に女性のスカートの中を盗撮していたという不祥事が発覚して、会社側も倫理教育を徹底するなど神経質になっている。
上層部の厳正な選抜があるとはいえ、危険因子は少しでも取り除きたいだろうから、女性につく可能性は高いな。ハヤトが脳内で静かに分析をしていたら。気づけば事務所の玄関の前まで来ていた。
ま、俺には関係ないことかとハヤトが玄関の取っ手に手を伸ばそうとしたときだった。
「高峰!」
その声にハヤトだけでなく、亮太、りつ子も同時に振り返った。
声の主は、つい今しがた合同点呼の音頭をとっていた所長だった。
齢五十にもなる年配者で、顔には年季の入った皺が目立つが、それ以上に全てを捕らえようとする黒々とした目が特徴的だ。特にハヤト達に後ろめたいことがあるわけでもないが、所長の瞳は人の全てを暴きそうなそんな暴虐的な双眸にも映る。
ハヤトは恐れおののきつつも大きな声で返事をした。
「はい所長、何でしょうか。」
「ちょっと大事な話があってな。ちょっと所長室まで来てくれんか。」
亮太、りつ子も何の話だろうとお互い視線を交わす。
ハヤトは玄関の取っ手を掴んだまま動かない。所長の言う大事な話は何なのか勘繰ろうとしたがそんな暇も与えられなかった。
「おっ、名何をしとる。時間は大事だぞ。さあ行こう。」
所長はハヤトが掴んだままの玄関を代わりに開けて中に入る。ハヤトも一歩後ろにつく。
所長は忘れていたことを思い出したかのように亮太とりつ子を見た。
「君たち二人はいい。通常業務に戻ってくれ。」
そう言われると、二人はお互いを見つめ、ハヤトと別れた。
上役に何の前触れもなく呼び出されるのは、悪い知らせやお叱りだからだと相場が決まっている。所長の一歩後ろをついて行きながら、何か大きな失態をしてないかと、ハヤトは直近の自分の行動を振り返る。
入社してから今日に至るまでの1年間、失態らしい失態を犯した記憶は無かった。
もちろん入社してから最初の半年間は運転士見習いであったから、先輩かは、ブレーキのかけ方が強いだの、雨の日はレール面が滑りやすいから加速はゆっくりだとか言ったお叱りはよく受けた。しかし、それは新人の登竜門のようなものであって、一人前の鉄道運転士になるために誰もが経験する失敗だ。
そんなことでわざわざ運転所のトップが本人を捕まえて説教するとは考えにくい。ましてや半年前のことだから時期錯誤もいいところだ。だとすれば見習いを卒業してから、今日までの間に何かしたのだろうか。正直ハヤトには心当たりが無かった。悪天候や人身事故で巻き添えまがいの遅延は被ったことはあるが、出区点検の時に漏れがあったなどハヤトのミスで列車の運休をさせたことは一度も無い。考えれば考えるほど呼び出される理由が思い当たらず、ハヤトは悶々とする。目の前の所長の後ろ姿を見るが、彼の背中は何も答えない。
所長室への廊下に足音が不気味に響く。ついにハヤトは考えることを諦め、流れに身を任せることにした。
二人は所長室の前に立った。ドアの向こうには縛り首の縄が吊るされているんじゃないかと思うくらいハヤトの気分が罪人のそれになっている。嫌な汗が頬を伝い、心拍数が上がる。
所長がドアノブを掴み、ガチャリとドアを開けた。
「入りなさい。」
重圧な声に一瞬ひるむもハヤトは失礼しますと一礼し、中へ入った。
「え?」
ハヤトは思わず声を上げた。
所長室に入るのはこれが初めてだから、自分と想像していたものと実際の室内の雰囲気が違うこともあるかもしれない。だが、所長室にはありふれたものしかなかった。入って正面の窓を背に木製の大きないかにもお偉いさんが使いそうな仕事机が設置されている。ハヤトの左手には応接用のソファーが足の低いテーブルを挟んで置かれていた。
高い地位にいるにも関らず、その権力を誇示する気など毛頭無いといったインテリアだ。
そんな所長室に人の目を惹く要素などありそうに無い。
それなのにハヤトが声を上げてしまったのは、予想だにしていなかった第三者の存在だった。
ハヤトはその人物と目が合い、立ち止まった。
黒いソファーにフェミル王女が座っている。純白のドレスを身に纏い、背筋を伸ばして燐としている。朝の挨拶でも皆を捕らえていた赤い瞳はここでも異彩を放っていた。
「高峰、手前のソファーに座ってくれんか。」
所長の呼びかけではっと我に返り、一礼してハヤは恐る恐るソファーに座った。
続いて所長もハヤトの隣に腰掛ける。
所長、ハヤト、そしてフェミル王女。
一同に会する事などまず無いであろう三人がこうして同じ部屋にいる。
いったい何が起こっているのかハヤトは半ば冷静さを失っていたが、自分が呼ばれた理由を思案する前に所長が話し始めた。
「フェミル様、大変長らくお待たせしました。日本にいらしてから大変ご多忙と思いますが、お疲れではないでしょうか。」
厳かな面持ちとは裏腹に所長は恭しく王女に気を遣う。
「とんでもございませぬわ。私、日本への来訪は初めてですが、、向こうの世界では諸外国への訪問は慣れております。普段馬車での移動ばかりの身でしたから。エスペランザの乗り心地は快適なことこの上無かったですわ。」
「それは何よりです。わが社の列車を評価していただけることほど、我々にとっての褒め言葉はありませんからなぁ。」
ははは、と王女と所長が歓談する中、ハヤトが一人ぽかんと二人のやり取りを見ていた。
誰がどう見たってハヤトがここにいることは場違いだ。
なぜ呼ばれたのだ。この空気からしてまず何かしら叱責まがいのことではなさそうだし。
と、二人を交互に目配せしたところでハヤトはふと先ほどの所長の言葉を思い返す。
王女には乗務員につきながら勉強することになるって言ってたけど、まさか・・・。
「それでは本題に入りましょうか。」
それまで雑談モードだった所長が大取引を始める商売人の目つきに変わった。
それにつられ、向かいに座るフェミル王女も目の色が変わる。
あまりの空気の変わりようにハヤトは猫背になりつつあった背筋を伸ばした。
「先ほど申し上げましたとおり、フェミル様には乗務員研修として業務の様子をご覧いただくことになっています。詳しく言いますと、今日から一年間当運転所で選抜した運転士と一緒に行動していただくことになっております。そこで」
所長は一間おき、続けた。
「私の隣に座っておりますこの高峰ハヤトがこれから一年間フェミル様の世話役として従事させていただきます。研修中の疑問はもちろんのこと、運転所での生活、日本の文化・風習まで分からないことがございましたら遠慮なくこの高峰にお申し付けくださいませ。」
所長のカミングアウトにハヤトは頭を殴りつけられるような衝撃を受けた。
薄々感づいてはいたが、本当に王女の担当になるのかよ。
しかし、研修の内容だけでなく、プライベートまで俺が世話しなきゃいけないのか。
いくらなんでも丸投げすぎる。所長は本社人事部で人事異動などの実績に定評があると聞いてたから、人を見る目があるって先輩たちからう噂に聞いてたけど、今の状況ではとても信じられない。ハヤトの下につくのはハヤトの後輩ではなくて、文字通り雲の上の存在である一国のお姫様だ。ハヤトの知識不足で誤ったことを教える可能性だってある上に、もしハヤトがフェミル王女に失礼を働けばタダではすまない。どう考えてもついこの間まで学生だった世間知らずの若造に背負わせる任務ではない。
何かの間違いであってほしいとハヤトの願いもむなしく所長がけしかけた。
「高峰。フェミル様にご挨拶を。」
「は、はい。」
ハヤトは無意識に居住まいを正し、王女に対面する。
喜怒哀楽を感じさせない無表情の王女は冷静そのものでハヤトを見据えていた。
思わず目をそらしたくなるが、そんなことをするのは失礼極まりないだろう。
逃げたい気持ちでいっぱいだが、もうどうることもできない。
観念したとばかりに、ハヤトは開き直り半分で元気よく自己紹介をした。
「はじめまして。今日からフェミル様の研修を担当します高峰ハヤトと申します。
フェミル様の日本での鉄道研修とご滞在をより有意義なものにできるよう精一杯頑張りますのでどうぞよろしくお願いいたします。」
できうる限り緊張を押し殺したつもりだが、心臓の鼓動は正直だ。
ハヤトはどちらかといえば口下手で人見知りなので、初対面だとどうしてもぎこちなくなる。
今でこそ気の置けない仲である亮太とりつ子でさえ、学生のときは彼らと打ち解けるのに3ヶ月もかかってしまった。
当たり障りの無い自己紹介をしたつもりだったが、それでもハヤトは目の前のお姫様に失礼を働いてないか既に心配だった。
一瞬の静寂が室内を包んだ後、色落ちしていたフェミル王女が優しい笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。私めもハヤト様の誠意に応えられますようこの身を捧げる所存です。
どうかよろしくお願いいたします。」
静かな声に芯の通った返事だった。それ以上にハヤトは自分の名前が様付けで呼ばれたことに少なからず気恥ずかしさを感じた。
ハヤトは、ついさっきまでこの職務は荷が重過ぎると所長に断りを入れようとまで考えていたのに、今は王女の気持ちを無碍にできない心のほうが勝りつつあった。
隣に座っている所長も覚悟を決めたかと言いたげな面持ちをハヤトに向けていた。
心なしか所長の口角がわずかにつり上がっている
今更引き返せないか。ハヤトは視線を落とす。。
正直藪から棒で納得できない所は多々あるが、会社の面子のために仕方ない。
理不尽ながらも追い込まれたら正面から挑むのはハヤトの性分だ。
顔を上げてハヤトは所長とフェミル王女を交互にみやる。
二人ともハヤトの吹っ切った表情に満足そうだ。
「よし、それではフェミル様、明日から高峰の元でよろしくお願いします。」
そう言って所長はハヤトのほうに向き直る。
「高峰。大切な御人だ。しっかりな!。」
普段より語気強く所長はハヤトを激励した。
「はい!」
ハヤトは元気よく返事をする。
室内に程よい強さの西日が差し込んでいた。