4:駆け引き
「起きろ起きろー」
おでこを誰かにぺしぺし叩かれている。
目を開けると知らない天井だった。クリーム色の壁紙に、目に優しそうなLEDの電灯がほんのりと灯っている。
「あ、起きた」
覗き込んでいたのはエーコさんだった。パジャマ姿のままで、どっちが寝ぼけているのか分からないような格好をしている。
肘をついて体を起こす。どうやらソファーに寝かされていたようだ。あんなにしつこく頭の芯に残っていた痛みがさっぱりと消えているのがありがたい。泥だらけになっていたパーカーやジーパンも、きれいな状態に戻っている。足元に違和感。目をやると、いつの間にかスリッパの代わりに履いてきたスニーカーに履き替えされているのが分かった。
「脱いで脱いで、床汚れちゃうよ」とエーコさんは足元にスリッパを用意してくれる。
「はぁ……」
ああ、戻ってきたんだなぁとしみじみとした安堵感にため息が出る。
「これで時給三千円?」
「まあ、多少なり命がけだよね。その値段だと」
エーコさんは少し余っているパジャマの袖をパタパタひらめかせ、向かいのソファーにころんと横になる。
「今から二千円プランに戻ったりしませんか?」
「ダメ。もう手ぇつけちゃったし」
「土下座しても?」
「ダメなものはダメ。三千円かゼロか。降りるなら今のうちだよ」
……うーん、じゃあ降りますと言いたくてたまらないが、その前に真鳥と話すのが先だよな。頭痛が収まった途端に、頭の中が疑問に次ぐ疑問でいっぱいになりつつある。
「真鳥は?」
「隠れてる」
「隠れてる……?」
「なんか、急に恥ずかしくなっちゃったんだって」
「ハープの腕前がですか?」
「そうじゃなくって、あの子、一族の外の人を異世界に連れ込んだの初めてだからさ。私の秘密知られちゃった、恥ずかしいよーってことだよ。女の子女の子」
エーコさんは栗色の髪の毛先をいじりながら楽しげにそんなことを言う。
「なんだかなぁ……。とりあえず、水道水飲んできますね」
「ついでに顔も洗ってさっぱりしてきたら? 洗面所は廊下の右手だよ」
「お借りします」
スリッパに履き替えてスニーカーを玄関に戻してから、言われるままに廊下を歩く。洗面所はキッチンの裏にある。ホテルのそれのように片付いていて、大きな鏡もぴかぴかに磨かれている。タオル置き場には真っ白なタオルとバスタオルが何枚もたたまれて置いてある。洗面所の左手は曇りガラスのドアで仕切られた風呂場になっている。きっと広々として快適なのだろう。さすがに風呂まで貸してくれとは、あつかましくて言えないが。
庭の手入れもされていたし、何処もかしこも片付いた家のようだ。エーコさんの風体からするにまじめに掃除をする人には見えないし、ちゃんとしたハウスキーパーも別に雇われているということか。くそう、俺もそっちがよかった。
顔を洗ってタオルで拭いて、水をごくごく飲むうちに、生きていく上で清潔さがいかに大事かということが身に染みる。臭くない空気が吸えるだけでも、日本に住んでいることにありがたみを感じる。蛇口をひねれば美味しい水が出てくるなんて、素晴らしい。これが文明だ。文明国に生まれてよかった。貧乏だけど精一杯生きていきますご先祖様。
「あー、うまい」
ひたすらしみじみ水を飲み続けていると、鏡越しに、廊下をちょろちょろと歩いてはこちらの様子をうかがっている真鳥の姿が見えた。どうやら本当に恥ずかしがっているらしく、耳まで真っ赤だ。鏡越しに視線をやると、びくりと肩をひくつかせて、壁の向こうに隠れてしまう。
「わにわにぱっくんみたいな気分だよ」と話しかけてみる。
「わにわにぱっくん?」と真鳥は聞き返してくる。そうそう、その調子。とりあえず会話には引き込まないとな。
「うすうす危ないかなぁと思いつつも手を出したら、そこまで強く噛まれるとは思わなかった」
「ごめんね。説明不足で」
「ほんとだよ」
「……でも、事前に説明してたとしても、信じてくれた?」
「――なんかでかい骨と戦ったりハープで継続ダメージを与えられたりしますって?」
「うん」
「そういうゲームでもやるんだろうなって、思ったろうな」
「でしょう? だから、引き込みたかったら、無理やり引き込むしかなかったんだよ」
「それにしたって……」
「服部くんだって悪いんだよ? 軽いノリで時給をつり上げたりするから」
「そう思うなら止めてくれよ」
「だって、手柄がほしいんだもん。たぶん二千円だったら、別の世界の大森林でリスが貯め込んだ財宝探しをやらされてたんだよ? そんなの絶対つまらないし」
「いや絶対そっちの方がおもしろいだろ。安全そうだし」
「ダメ。いくら外貨を稼いできたって、一族全体がお金持ちすぎて、大して評価されないんだよ。敵対してる魔法使いを倒さないと、評価してもらえないの」
手柄に、評価、か。
どうやらそこが、真鳥が俺を引き込んだ原因のようだ。
「とりあえず、座って話そう」
「うん……」
二人してリビングに戻ると、いつの間にかエーコさんの姿が消えている。代わりに何処から持ってきたのか、赤いひまわりを一輪差した花瓶が置いてある。後は若い二人で、的なノリだろう。
話の途中で逃がさないようにドアに近い側のソファーに座る。真鳥は向かいのソファーに座って、所在なさげに指を組んでもじもじしている。さっきまでノリノリで暁の魔女をやっていた少女とはまるで別人だ。
「夢を見ている間はこれが夢なんじゃないかなんて思わないもんだけどさ。夢から覚めると話は別だよな」
「うん……」
「あの世界、なんなの?」
「暁の魔女の一族は、あちこちの世界に領土を持っててね。――その、なんていうか。多国籍企業ならぬ多世界企業って感じで。いやでも、利潤を追及する組織というよりは、自衛の寄り集まりみたいなものだから、うん、そうだね。多世界自衛軍って感じ」
真鳥のしどろもどろの説明は、嘘偽りというよりは、分かりきっていることを説明するのが難しいという感じのそれだった。なんで空は青いのと尋ねられたら、俺もこんな風になるだろう。
「世界って、そもそも幾つもあるものなの?」
「うん。大きかったり小さかったりするけど、数えきれないくらいある。それでも暁の魔女のルーツは地球にあるし、基本的には、この世界と近しい世界に領土を持っていて、それを外敵から守ってるの」
「この世界と近しい世界……?」
「恒星系があって、炭素生物が生きている世界。空間三次元プラス時間一次元、光速が一定。そんな感じの魔法式でできている世界」
「魔法式……。物理法則じゃなくて?」
「この世界でも魔法は使えるし、科学と魔法は対立しないよ。要するに、誰にでも使える魔法と、暁の魔女にしか使えない魔法の違いなの」
真鳥はそう言うと右手を胸の前に突き出し、例によってピアノを弾くような指の動きをし始めた。
すると、花瓶の赤いひまわりが指の動きに合わせるようにして上下に踊り始める。まるで命が宿っているかのようだ。
「ね?」
「まじか……。ってことはやっぱり、夢じゃなくて」
「あれも現実世界なの」
ようやく実感が湧いてきた。と同時に血の気が引く。あちこち鳥肌が立って、胸が苦しい。全力疾走したあとみたいに、どんどん荒くなっていく呼吸を抑えられない。
「大丈夫? お水持ってこようか」
「いや……。さっき飲んだから、いいよ。それより、もっと、話して」
頭は冷静なままのつもりなんだけど、体の方がついてこない。たまらずソファーに横になって、背中をべっとりとくっつける。肺が、苦しい。とにかく何かで押さえてないとやぶけてしまいそうだ。
「私が魔法を使えるのは生まれつきだけど、親からの遺伝ってわけじゃないの。暁の魔女の一族っていうのは血筋じゃなくて、魔法が使えるかどうかってこと。魔法が使える子は寝ているうちにうっかり多世界に渡ったりしちゃうんだけど、一族はそういう子を見つけて引き取って、ちゃんとした魔法使いになるように育てるの」
「遺伝じゃ、ないってことは、親御さんは、魔法使いじゃなくて……? 悪い、頭働いてない」
「いいよ。今度こそ丁寧に説明するから、聞きたいことがあるなら、なんでも聞いてね」
真鳥はそう言って優しく微笑みかけてくる。恥ずかしさは収まってきたようで、もう耳は赤くない。
「俺を、引き込んだ理由は?」
まず聞きたいことはそれだった。
「お恥ずかしい話なんだけど、私、ちょっと未熟でね。魔法は使えるんだけど、うまく形式化できないっていうか。制御があんまりうまくなくて。組んでくれる魔法使いが少ないの」
「だからって、素人引き込んで、どうするんだよ」
「素人でもよかったの。私の魔法ってサポート系というか。身体能力とか思考力とか、そういうのを一時的に強化するのが得意なの。ゲーム風に言うならステータス引き上げる感じ」
たしかに、真鳥の魔法のおかげで俺は飛んだり跳ねたりできたし、聞いたこともない言葉をあっけなく理解できてしまった。その辺りの腕は本物ということだろう。
「魔法で強化しまくるから、素人でもいい。でも強化先がいないと困るってことか。自分で自分を強化するだけじゃダメなの?」
「その、私ってピアノを弾くイメージじゃないとうまく魔法が使えなくて」と真鳥は言う。
「子供の頃からそうだったの。魔法を使うときって、大きな魔力の流れの中に自分をまぎれこませてそれを利用する感じなんだけどね。昔から変な癖がついちゃってて、ピアノを弾いてるときじゃないとうまく流れに乗れないの」
「あー、その、あれだ。音楽でトランス状態に入るわけだ」
「そうなの。呪文じゃテンション上がらなくってさ」
テンションの問題だったのか……。
「だからその、どうしても、隙が大きいんだよね。弾き続けている間はいくらでも魔力が引き出せるし、魔法効果の大きさだけならそこらの魔法使いには負けない自信があるんだけど」
「……誰かが、ピアノを弾いてる真鳥を守ってやらないといけないわけか」
「そう、そうなの。どうしても、一人だと魔法の戦いに勝てる気がしなくて」
言葉の理解に頭を使ったせいか、少しずつ苦しさがましになってきた。なんでも慣れだ。
「曲はなんでもいいの?」
「ひまわりを動かすくらいなら猫ふんじゃったでいいんだけど、強い魔法を使おうと思ったら、それなりの名曲じゃないとうまくいかないかな。例えば、さっき骨に襲われたときにはベートーヴェンの悲愴弾いてたの。第三楽章」
「悲愴ねぇ……」
クラシックはさっぱり分からない。
「ともかく、そういうわけで服部くんが必要だったわけです」真鳥は乱暴にまとめにかかる。
「いやちょっと待ってよ。素人でもいい理由については納得できたけど、それが俺なのはどうして?」
「そこは……こだわる必要ある?」と真鳥は答えたがらない。
「あるある。労働者的には、他に代わりがいるかいないかで出方が変わってくる」
「出方……?」
「真鳥が俺を使い捨てるのか、それとも大事に扱ってくれるのか、ってこと。気まぐれで選んだんなら、ここで降りるよ。言っておくけど、口封じその他、変な圧力かけるのなしね。こんなの誰に話しても信じないから、意味ないよな」
適当に退路を作りながら真鳥の出方をうかがってみると、
「その、ね。服部くんなら、向いてるかなって思ったの」と曖昧に返された。
「どうして?」
「授業中いっつも、ファンタジー系の本読んでるでしょう? 指輪物語とか、ラヴクラフトとか、切りがなさそうなの」
「いっつもってわけじゃ」
文系の、問題集をだらだら解いていくだけの内容の薄い授業のときにはたしかに読んでいるけれど。
「ちゃんとカバーかけてるのに、なんで知ってるの?」
「智子と貸し借りしてるんでしょう? それで聞いたの」
「あいつも口が軽いなぁ」
荻野智子は中学のときからの同窓で、文芸部に所属している繋がりもあって、よく本を借りる間柄だった。こっちから貸すことはめったにない。
「ファンタジーに耐性あるなら、適任かなと思ってさ」
「だったら荻野でもいいだろ。指輪物語はあいつの趣味だし、仲良さそうじゃないか」
「智子は女の子だし、前衛任せるのはどうかなと思って。服部くん、中学のときは剣道部だったんでしょう? さっぱり体力がないってわけでもないよね」
――なるほど、いちおうリサーチはしているわけか。手近な噂話の範疇で済ませているとも言えるけれど。
「それだけなら、降りるよ。俺より体力があるやつも、ファンタジー慣れしてるやつも、いくらでもいるだろう」
「いじわるだなぁ」
「そうか? 命かけるほどの理由じゃないだろ」
「厳密に言うと、命がかかってるわけじゃないよ」と真鳥は言う。
「異世界への渡界には幾つかやり方があるんだけど、私に許可されてるのは保険付きというか、不完全なやり方だけなの。影送りって呼ばれてるんだけどね」
――聞くに。
他の世界に渡るためのやり方には、肉体ごとそのまま渡る陽送りと、魔法で構築した疑似身体をその世界に用意して、そこに精神体だけを送りこむ影送りの、二つのやり方があるのだという。
「当然、陽送りの方がデメリットは大きいんだけど、メリットもあるんだよね。力を百パーセント発揮できるし、その世界での肉体的な成長も当然そのまま受け取れる。影送りは疑似身体の精度によってできることが限られてくるし、向こうでいくら体を鍛えたってなんにもならない。ゲーム風に言うなら、レベルが上がらない代わりに死に覚えができるって感じかな」
――なるほど。すると、さっきまで異世界で苦しんでいた俺は実のところ疑似身体で、今の俺とは別物ということか。
それで服も汚れていなかったんだな。
「疑似身体の作成も簡単にはできなくてね。自然と、エーコさんみたいな上手な人がまとめ役になるというか、逆らえないというか……」
「影送りが一人前にできないうちは、下っ端ってことなんだな」
「そういうことです。下っ端です」
と、真鳥は唇を尖らせる。
「あのまま骨に潰されてたら、どうなってた?」
「精神体だけこっちに転送されていた。――痛みの体験や死んだ感覚みたいなものは引き継いじゃうかもしれないけど、向こうで死んだからって、こっちの人生が終わるわけじゃない。もう一度、別の疑似身体の中に入って冒険することもできるよ」
「痛みや死んだ感覚……か」
「疑似身体越しに死んだことは私もまだないから、どんな感覚かはさっぱりだけどね」
真鳥は頼りがいのあるようなないようなことを言う。
「どっちにしても、痛い思いをすることに代わりはないわけだ」
「それは、そうだね。反論のしようがないよ」
――どうするべきか。
興奮はしている。正直なところ、異世界を好き勝手に冒険したら楽しいだろうなとは思う。金の匂いもする。真鳥がもう少し器用になって、楽して儲かるようなタイプの仕事に専念してくれるなら、時給三千円で付き合うのはやぶさかではない。
でも、それにしたって、洒落にならないくらい痛い体験だった。
「ねぇ、どうしても、ダメかな?」
真鳥はここぞとばかりに小首をかしげてたたみこんでくる。
「まだ、質問に答えてもらってないよ」と俺は言う。
「替えの利かない、俺じゃないといけない理由はあるの?」
いくら時給が高かろうと、一日二日で使い潰されちゃたまったものじゃない。
決めた。真鳥がたんに手近だからと俺を選んだのなら、やはり降りよう。手に余る。
「――服部くんは、その」
真鳥は急にうつむいて、赤いひまわりを指で撫でまわしながら、言葉を濁した。
「私のこと、好き、なのかな」
「え……」
いきなり、なんだ……?
心臓が魔法でもかけられたかのように、跳ね上がる。
「ねぇ、答えてよ」
真鳥はうつむいたまま、問い詰めてくる。その耳はほんのりと赤く染まり、冗談や駆け引きでないことを表してくれている。
「いや、その」
「好きか嫌いかなら、どっち? 私のこと、好き? それとも嫌い?」
「……その」
まさかここまで露骨に迫ってくるとは、思わなかった。
しかも迫り方がずるい。
自分の気持ちを言うんじゃなくて、俺の気持ちを言わせるなんて。
「ねぇ、どっち――?」
「……きだよ」
「えーなんて? 聞こえなかった。もう一回」
「どっちかと言うと、好きです」
なんでこんなだまし討ちみたいな誘導尋問で告らないといけないんだ。
「……えへへ、だよね」
真鳥はソファーに突っ伏して、顔を上げないまま足をばたばたとさせる。
「だから、つまりは、そういうことだよ。私は、魔女だから。あなたの気持ちを利用しているの」
「理由になってない」
こうなったら意地でも真鳥の気持ちも言わせてやろう。
「他の男が真鳥を好きになったら、そいつのことも利用するんだろ?」
「そんなこと、しないよ」
うつむいたまま、真鳥は答える。
「大事なのは、誰と一緒にいるとテンションが上がるかってことだよ。だからつまり、そういうこと。ちゃんと大事に、魔法をかけてあげるから。私のことを守ってよ」
――その言葉を聞いた瞬間、後悔が胸をよぎった。
ここまで言わせてしまったらもう、
「断れない……か」
「ありがと」
真鳥は顔を伏せたままそう言って、さっぱり起き上がろうともしない。
このまま襲ってやろうかとチラリと思ったところで、
「話まとまったー?」と、背後からエーコさんの声がした。
振り向くと、口元に手を当てていたずらっぽく笑っている。一体何処に隠れていたのか。ずっと会話を盗み聞きしていたらしい。
「君、意外とちょろいねー」
……屈辱だ。
「チカ、よくやったね。それでこそ暁の魔女だよ。査定アップだね」
「ありがとうございます」
真鳥はいそいそとソファーから身を起こして、コホンと小さく咳ばらいをする。
じーっとその目を見つめ続けて催促してみるも、
「どうしたのかな?」とにこやかに躱される。
――しょうがない。俺の負けだ。
こうなったら、せいぜい割り切って、稼ぐとしよう。




