24:複雑な同居
――なんだ? 息が苦しい。
臭いぬめぬめとした液体が鼻と口から喉に入り込んでくる。飲み込んだ途端に嫌悪感と吐き気で食道が勝手にせり上がった。
「――っが」
溺れているのか? 目を開けても腐った水の中は真っ暗で状況が分からない。どっちが上でどっちが下だ? ともかく手足を動かさなければ。そう思うのに、左足に何かがつっかえていてうまくもがくこともできない。集中しろ、ピアノを聞けば強化の魔法がかかるはず――。ダメだ、息が苦しい。まずは水面に出なければ。
(同じ脳みそで混乱しないでよ、うっとうしいな)
左足の傍で何かが弾ける。不気味な水の振動が伝わってきた途端に、足が軽くなった。
(力抜こうよ。浮かんでいく方が上でしょ?)
聞こえてくる声に従って、こわばっている体の力を抜いていく。――この声は、真鳥の声じゃない。聞き覚えのある甲高い声。ヴェスパ人の女の子の声だ。
(さっきまで話してたじゃん。私、ポキィだよ)
――そうか。今のこの俺の意識は、魔法で眠っているウゲンチャの体に複製されているんだった。
そして、ウゲンチャの体には逃げ込んできたキスキアの精神体もまた眠っている。だが、ここにポキィの精神体まで紛れ込んでいるのはどういうことだろう。さっきまで感覚で理解できていたようにも思えるのに、白昼夢から目覚めた途端によく分からなくなってしまった。とにかく酸素、酸素が足りない。
(うるさいってば。いちいち言葉で考えないでよ。その無駄に頭が空回ってるのも魔法のせいなの?)
力を抜いた背中が水面に出た。顎を思いきり持ち上げて息を吸う。何度も空咳をするうちに少しずつ理解が追いついてきた。
ポキィの体はキスキアの精神体に乗っ取られていた。そしてキスキアに脳を使われ、飢餓の追憶を刻み込まされたことで、彼女の精神体はキスキアのそれと混濁してしまったのだ。キスキアに引きずられてウゲンチャの体に一緒に逃げ込んできた後、当のキスキアは真鳥の魔法で眠ってしまった。
ウゲンチャの声は聞こえない。当然だ。彼がキスキアと一緒に眠ってしまったからこそ、俺はわざわざこの体に入り込んだんだ。
つまり、今この体の中で起きているのは俺とポキィの二人だけなのか? 矛盾していないか? さっき見た白昼夢の中では四人揃っていたような。
(魔法のせいなんだろうね。中途半端に思考力を強化したって疑問の羅列で時間が潰れるだけだよ。ねぇ、そんなこと今どうでもいいでしょ。そもそも疑問にする価値すらない。さっきの夢で檻に囚われていたのは私。果物を食べていたのも私。見ていたのはあなた。ウゲンチャがあそこにいたのは、彼の脳を使っている私たちが登場させたからだよ。他人の脳みその違和感を自我の外側に弾き出したかったの。夢ってそういう願望がモロに出るでしょう? なんで感覚で分からないかな。夢見なんてヴェスパ人なら誰でもできるのに)
夢見――? そういう君だって変に理屈をこねてるようにしか聞こえない。
(どうでもいいって言ってるの)
――たしかにこの議論はどうでもいい。夢は夢だ。今はとにかく泳がなければ。
「た、たすけ、足が――」
ザニカの声。何処からだ。汚れた目を懸命にこすって声のする方に目をやる。そこにはもう彼の両手と波立つ波紋しか見えなかった。引きずり込まれているのだ。ヴェスパ人の先祖の骨格――さっきまで肉を身に着けて互いを食おうとしていた彼らが、今はまるで草原での性質を取り戻したかのように、生き物を腐った水の中に引きずり込もうとしている。
(お父さんにさわるな!)
ポキィの激昂が伝わって、勝手に体が動いていく。胃袋を締め上げるように腹筋に力が籠り、そのまま何かを吐き出すように、口を半開きにして喉の筋肉を引き締め、呼吸を止める。
ザニカの沈んだ辺りの水面から大量の気泡が噴き出し、ぼこぼことジャグジーのような音を立てる。――これはまさか、気化の魔法か?
(あなたは腕を振るうと魔法の剣が使えるんでしょう? 要領は同じ。キスキアの魔法も簡単な動作に紐つけられてるの。何かを吐き出しでもするような、拒絶の動作)
「っは、っは」
ザニカは水面に顔を出し、恐れおののいた様子で闇雲に手足をばたつかせている。
「来るな、骨どもめ、俺の足を掴むな!」
なるほど、さっき俺の左足が動かなかったのも、骨に足を掴まれていたからなのだろう。感じた水の振動は、気化の魔法の余波だったのだ。――ポキィがキスキアの魔法を、使いこなしているということなのか。
(ねぇ、もしかしてヴァネッタは、だからこそキスキアを飢餓で殺したのかしら。何も拒絶できないほど飢えさせて……)
〇
気化の魔法を使う要領とやらは、俺の精神体には伝わってこない。俺とポキィの精神体は大して混ざり合っていないということなのだろう。胃袋が飢えてもいない。
(ともかくお父さんを守るわよ。ほんとにマルダ人たちの進む方向で合ってるの? 安全なんでしょうね)
この水位だと、来た道はほとんどが冠水しているはずだ。泳いでいるうちに天井まで水位が上がったら終わりだよ。
(だからって草原側に行くの?)
たぶん大丈夫だ。危険だったら真鳥が止めているだろう。何らかの目算があるんじゃないかな。
(聞かされてないの?)
ただの使いっぱしりだからね。
(意味分かんない。言っておくけど、もしお父さんと私が助からなかったら、死に際にあなたのあの体、ぐちゃぐちゃに吹き飛ばしてやるからね)
ポキィ/俺は視線を遠く水音がする方へと向ける。周囲の水を爆音と共にまき散らしながら、そこではもう一人の俺が水中の骨を相手に暴れている。もう一人というより、あっちがオリジナルで、ウゲンチャの体にいるこの俺がコピーだ。
夢を見ているような違和感はあるが、それ以上にじれる。あの戦い方じゃダメだ。足場が悪い。水に阻まれて魔法剣の爆装も威力が散漫になっている。それどころか反動をモロに食らって自分が吹き飛ばされている始末。
こっちのことは気にするな。剣をしまってさっさと北岸に行け。
――念じてみても、通じはしないか。落ち着け。必要なアドバイスなら真鳥が精神魔法で送ってくれているはず。俺こそ今いるこの体に集中するべきだ。
ピアノの音色は問題なく聞こえてくる。前方のザニカは半狂乱のように何かを喚き続けながら、むしろこちらより速い速度で泳ぎ続けている。ときおり水中の骨に手足を掴まれて水の中に引きずり込まれるが、ポキィがすぐさま気化の魔法を放って、ザニカを水上に引き戻す。視界の利かない水中に、一体どうやって細かな狙いをつけているのだろう。少しでも間違えればザニカごと吹き飛ばしてしまいかねない。
(水の密度の感覚なんてあなたに説明しても分からないでしょ?)
たしかに。……気にするのはやめよう。君が使えるんならそれでいい。
(頭を空っぽにしてよ。あなたのせいで気が散ってるの。全部、余計なの。この体から消えてくれたっていいのに)
――それは、そうだ。ウゲンチャの体はポキィの精神体だけでも十分動かせるはず。
俺がわざわざこの体にいる意味はないのか?
(あるよ。服部くんがそこにいるから、ポキィちゃんだけ目覚めさせたの)
今度聞こえてきたのは、真鳥の声だった。声だけじゃない。ごちゃごちゃしていた頭の中がスッと晴れていくのが分かる。欲しかった疑問の答えとやるべきことが天から降り注いでくる。
「そういう、ことか」
真鳥は精神魔法と大雑把に括っているが、なんて多くの操作をこなしているんだろう。ピアノの音色だけでここまで複雑に編めるものなのか。
やがて俺たちとザニカは親衛隊たちに追いついた。皆、水中から掴みかかってくる骨たちにかなり苦戦しているようだ。ニ、三人でバディを組みながら群がってくる骨を叩いているようだが、その分泳ぐペースが遅れている。
(いい気味ね、マルダ人ども。このまま無視して追い抜くわよ)
ダメだ。気化の魔法で助けてやってくれ。
(はぁ? なんで私がそんなことしないといけないのよ)
俺が必要だと思うからだよ。
(そんなの理由になってない!)
俺は平泳ぎで前に進むのをやめて、立ち泳ぎでその場に留まった。
(やめなさいよ! 何考えてるの?)
ポキィは無理やり体を動かそうとしているようだ。手足にピリピリとした抵抗を感じる。だがウゲンチャの体は俺の意思に従っている。まとわりついてくるぬるついた水は、水位だけでなく、次第に粘度も増しているようにすら思える。魔法で強化されていても、少しずつ溜まってくる疲労が無視できなくなってきている。血の池地獄ってのはきっとこんな感覚なのだろう。
(……信じられない。このまま死ぬ気?)
どうせコピーだし。
(意味分かんない。そんなの……。コピーだろうと溺れたら苦しんで死ぬのはあなたよ)
ポキィは混乱している様だが、その理屈は俺には響かない。
誰かに言うことを聞かせようと思ったら、その相手よりもより速く、より激しく、割り切るしかない。
俺はそういうやり方しか知らない。
――どうする? ザニカは、君のお父さんは周りを見る余裕もなく、必死でわずかな灯りに向かって泳ぐばかりだ。このままではどんどん距離が離れていく。
(分かった、分かったよ)
腹筋と喉に力がこもり、親衛隊たちの足元からボコボコと泡が立ち始める。気化の魔法が使われたのだ。
(信じられない。あなた頭がおかしいわ)
親衛隊たちは不可思議な現象に戸惑ったのか、しばし泳ぐのをやめて周囲を確認している様子だったが、
「怯むな! 今のうちに灯りの方向へ進め!」
親衛隊長の一括で我に返ったのか、再び猛然と北岸へ向けて泳ぎ始めた。
その後ろを、置いて行かれないように付いていく。ザニカもマルダ人への嫌悪より生存意欲が勝ったのか、親衛隊の中に紛れるようにして一緒に泳ぎ始めた。――これでなんとか軌道に乗った。水位の上昇よりも、皆で北岸にたどり着く方がずっと早い。
(言っておくけど)とポキィはまだごねている。
(マルダ人は私たちにとっては略奪者なの。助ける理由なんて何一つないから。貸しだからね。死んでもやりたくないことをやらせてるんだから)
――君自身は何かされたの? マルダ人に。
(……からかわれたわ。チビだの根暗だの。あいつらはそういう卑語が大好きなのよ。そういう悪口に付き合ってうまく言い返せないともっと馬鹿にしてくるの。マルダ人の子どもにからかわれるの、本当に嫌だった。先祖もみんな、同じ気持ちだもの。戦争してた頃の話とか、いろいろと教えてもらえたわ。マルダ人なんて人間じゃない、手足の短い獣なのよ。魔女が力を失って、一緒に仕事をすることもなくなって、せいせいしたわ)
馬鹿馬鹿しい。
(何処がよ)
……じゃあ、こう考えてみろよ。
君がもし、遠い将来、マルダ人に助けられたとしよう。森で脚を折って歩けなくなったのを見つけてもらって、穴倉まで運んでもらったとか、そういうことがあるかもしれない。
(ありえないわ)
可能性の話だよ。ありえるかもしれないだろ。で、君は、マルダ人は手足の短い獣じゃなくて、人間だと思うかもしれない。いい奴もいるし、お礼をしなくちゃいけないと思うかもしれない。
(だからありえないって)
――でも、その時にふと思い返すんだよ。そういえば昔、マルダ人を何十人と見殺しにしたなって。今のこの時のことを、初めて恥ずかしく思うんだ。
(ありえない)
ありえるんだよ。俺はそういうのはもう嫌なんだ。