11:日々を腐らせるもの
巨人の庭の太陽が昇る方向はどうやら地球とは真逆らしい。
真なる山の山裾から顔をのぞかせた陽光が、風に揺れる枝葉の隙間から柔らかにこぼれ落ちてくる。
舞う木の葉はイチョウに似た大振りの葉で、よく風を受けてヒラリヒラリと大きく揺れ動く。じっと見ていると世界から重さが失せてしまったかのように思える。
真鳥は夜明け前からずっとキラキラ星変奏曲を弾き続けている。特に意味のない指慣らしらしい。ひたすらアドリブで変奏し続けているらしく、だんだんと金平糖を床にばらまいたようなはちゃめちゃな曲になりつつある。本人的にはそれで楽しいらしく、ときおり小声でぶつぶつ言いながらトランス状態で鍵盤に向かう様は、まさに魔女そのものだった。
真っ先にピアノの傍へとやってきたのはヴァネッタだった。青く染め付けた薄衣を身につけ、宝石のついたサンダルを履いている。すらりとした手足と、風にたなびく後ろ髪。優雅に歩いてくる姿は、例えようもなく美しい。
「おはようございます」
とりあえず挨拶をすると、
『おはようございます』と慇懃に挨拶を返される。
『寝所に忍び込んだのはあなた?』
「後ろでピアノ弾いてる人です」
『そうですか』
ヴァネッタは小さくため息をついて、腰元に手を当てた。
『管理者でなくなるということは、管理されるということ。それは分かります。無礼さを咎めたところで、仕方のないことなのでしょうね』
「申し訳ないです。でも、あなたはしっかり管理しておく必要があるみたいですから」
真鳥の方をチラリと見てみるが、ピアノを弾くのをやめようとはしない。俺に話させようということらしい。
「真鳥から一通りの経緯を聞きました」
俺がそう言っても、ヴァネッタの反応は薄かった。それがどうしたと言わんばかりだ。自分がやってきたことが一族にばれるのは、織り込み済みだったのだろう。
『あなたのご感想は? 従者さん』
「納得できる部分もあり、違和感もあり、って感じですね。先週の印象だと、たしかにあなたは他責的で適当な人にも思えました。でも、伝え聞くほど枯れているようにも見えなかった。ハープを借りたときにはお互いにけっこうテンパってましたよね」
とりわけ真鳥に対しては、生き生きとした感情を発揮していたように思う。
『年甲斐もなく』とヴァネッタは苦笑する。
『管理者でなくなって、憑き物が落ちたというのが、正直なところなのよ。あの枯れ木のような欝状態からは脱しましたわ。もう誰をいじめる必要もありません。沼から流れ込んでくる不安や焦燥感だけが、今の悩みの種なのです』
ヴァネッタはそう言うと、おもむろに真鳥に視線を向けて『下手ね』と一言呟いた。
年季の入った迷いのない揶揄に、真鳥の手が止まる。
「――何か、言いましたか?」
『ハープだけじゃなくて、ピアノも下手と言ったのよ。暁の魔女様。あなたはたぶん、演奏のような高度なことをするのには向いてないわ。拍子に合わせて太鼓を叩くのが関の山ではないかしら』
真鳥は頬を赤らめて、腰を浮かせてから座り直した。悔しげに指をストレッチしてから、軽く息を吸って、鍵盤を弾いていく。
聞き覚えがある。この曲はたしか……。
『――ショパンの幻想即興曲? 一生懸命弾いてらっしゃるわね。それだけですけど』
ヴァネッタは真鳥の演奏をざっくり正面から切り落とし、俺の方を向いて会話に戻る。
『不思議なものね。脳袋を逃がして、管理者の力をはく奪されて、不安と無力感の中に叩き込まれたら、それだけでもう、あれほどの倦怠と苦痛から逃れることが出来てしまった。今の私は、人並みに死と痛みを恐れるただの人です。どうかお助けください、暁の魔女様方』
ヴァネッタはうやうやしくお辞儀をする。少しの茶目っ気すら感じるその様子には、老練な余裕と、どうにでもなれというような投げやりさが見て取れる。
道化ているようで、これが今の彼女の素なのだろう。……たぶん。
近くの切り株に座り直して、話を続ける。
「あなたが言っていた屍術師という存在についてですが」
『疑問がおありなの? 私の中身は何もかも覗いたんじゃなくて?』
「二百年以上の歳月を、いきなり全部読み取るのは無理ですよ。軽くさらった程度です。真鳥はこれから深く読み込んで裏を取るでしょうが、とりあえずは、あなたの口から聞いた方が話が早い」
『そう? なら、軽く説明しましょうか』
ヴァネッタはそう言うと、隣に座る俺の手を取って、自分の両手で包み込んだ。
――ピリッとした痛みがこめかみに走り、ついで、目の前の草むらに黒いどんよりとした雲のようなものが浮かび上がった。
「ダメね。うまく記憶が再現できない」
どうやら何らかの魔法を使われたらしい。
『ありふれた精神魔法よ。暁の魔女たちがいうところの外敵について、教えてあげようと思ったのだけれど。こんな簡単なことも、今ではうまくできませんわ』
雲は瞬きするたびに薄れていき、やがて元の草むらが姿を現す。
今見たものは、精神魔法による幻だったということか。
「今の雲みたいなものが、外敵なんですか?」
漠然としていて、とらえどころがない。特に害があるようなものには見えなかったが。
『私の知る限り』とヴァネッタは答える。
『あの黒雲こそが、巨人の庭と、私の心を狂わせた元凶です。文字通り、日々を腐らせるものと呼んでいますわ」
日々を腐らせるもの――。
『具体的にどのような存在なのかは、私にも分かりません。いつの間にか傍にいて、気が付いたときにはもう、私の中身を食い尽くそうとしていました』とヴァネッタは言う。
『目で見ようと思えば雲に見え、耳で聞こうと思えば虫の羽音に聞こえます。腐臭と、冷ややかな肌触り。五感で感じ取れるものはそれくらいなものでしょうか。何よりも顕著なのが、疲労感ですね。日々を腐らせるものが傍にいるとき、私は呼吸をすることすら億劫になりました」
「疲労感……ですか」
『恐ろしいものです』
ヴァネッタはそっと目を閉じる。
『最初は自分が老いたせいだと思いました。肉体的には若いままなのに、自分でもどうにもならない、精神的な何かが老いているのだと。――しかし、そうではなかった。私の疲労感の原因は、私の内側にはなかったのです。それに気が付くまで、どれほどの時間を無駄にしたことか』
――そうか。
外敵が、物理的な基盤がまったく違う、根本的に人間と相容れないものだったとしても。
それはやはり、人間の感覚を通して現れるのだろう。
「それで? その日々を腐らせるものが巨人の骨を操っているんですか?」
『間接的には』
「……直接的に言ってみてください」
『もちろん屍術師が操っているのよ』
ヴァネッタは口元に手の甲を当てて微笑する。
どうやら揶揄われているらしい。
『私の記憶と照らし合わせて、少し考えてみなさいな。この世界で魔法が使える人間は、そう多くはないんですから』
ヴァネッタはそう言って、切り株から立ち上がる。
『いつもならとっくに皆も起き出しているでしょうに。寝坊の原因は耳障りなピアノかしら』
「真鳥なりの配慮じゃないですか。他の人の前であなたが作った脳袋の話はしたくないでしょう」
俺がそう言っても、ヴァネッタは眉をひそめることもなく、淡々とした様子で見返してくる。
「日々を腐らせるものに精神体を侵されて、魔法に目覚めた十四人のヴェリア人。あなたは彼らを皆殺しにして、その精神体のデータを、一人の植物状態の人間の脳に転写した。彼が、あるいは彼女が、あなたが言うところの脳袋」
『彼女よ』とヴァネッタは答える。
「その女性こそが、日々を腐らせるものの加護を受けてこの世界で暴れている、屍術師、ということになる。他に魔法を使える人間がいないとするならば」
『ご名答。そういうことになるわね』
ヴァネッタは軽くお辞儀をする。
『屍術師とは、彼女が元々持っていた異名ですわ。彼女が日々を腐らせるものに与えられたのは、死骸を思い通りに操る魔法でした』
「彼女も魔法を……。十五人目ということですか」
『ええ。邪悪な子供でしたわ。魔法に目覚めたとたん、不仲だった両親を殺して、自分の意のままに操ろうとしたの。日々を腐らせるものとはそれほど悪意に満ちた存在なのです。一度目を付けられ、精神体を侵されれば、誰もがまともではいられない。あまり偽悪ぶるのも性に合いませんからいちおう言っておきますけれど、私が殺した十四人の魔法使いの中に、まともな理性が残っていた人間は一人もいませんでしたわ』
「……だとしても、その精神体をわざわざ一カ所に転写したのは、あなたの楽しみのためでしょう?」
『否定はしません。でも、自衛のためでもありました。ああして日々を腐らせるものの影響を色濃くした生贄を用意しなければ、私自身が日々を腐らせるものから逃れることは叶わなかった』
「殺さずに植物状態にして生かしておいたのは、そのためですか」
『外敵は、世界の魔法式を塗り替えるために、より侵食の進んだ精神体の存在を必要とします。私は自分を守るために、代わりを用意した。――それだけのことなのです』
ヴァネッタにとっては、本当に、それだけのこと、なのだろう。
魔法使いは狂気を孕むと、エーコさんも言っていた。肝に銘じよう。この人のようになりたくなければ、ありとあらゆる精神の変調に、気を配るより他はない。
俺は会話を打ち切って、真鳥のところに歩いていった。曲はいつの間にかキラキラ星変奏曲に戻っている。子供が遊んでいるかのような無邪気な変奏は、少し嘘っぽくもあったが、好ましいものに思えた。
「とりあえず、日々を腐らせるものが拠点にしている屍術師を探し出して倒すって方針でいいの?」と尋ねると、
「そうね」
真鳥は手を休めぬままそう答えた。
「そんなにムキになって弾かなくても、俺はうまいと思ってるよ。真鳥のピアノ」
「ムキになんかなってません」
なってるくせに。
「――で、屍術師を無事に倒せたとして、そのあとは?」
「そのあとって?」
「要するに、日々を腐らせるものにとっての屍術師って、俺らが今使ってる疑似身体みたいなものだよな。屍術師を倒しても、日々を腐らせるもの自身が傷ついたり死んだりすることはないんだろ?」
「かもね。拠点を失って困りはするだろうけど」
「それじゃいたちごっこじゃないか。いずれまた、精神体を侵されて、気が狂う魔法使いが現れるんだよな」
そうして、似たようなことが繰り返されることだろう。
「暁の魔女の管理者が適切に対処すれば、そうなる前に魔法使いを味方に引き込めるよ」
真鳥はそう言って、ちゃんちゃんと軽く節を付けてから演奏を切り上げた。
「そんなに不安そうな顔しないでよ」
ピアノの蓋を閉めて、微笑みかけてくる。
「外敵そのものを何とかするのは、もっと上の人の仕事だから。私たちにできることが対処療法でしかなくても、やらないよりはましでしょう?」
「……そうだな。その通りだよ」
下っ端と、その使いっぱしりにふさわしい、間に合わせの仕事というわけか。