1:難しいことは沼に行ってから考えよう
「ねぇ、服部くんってさ。夏休み何か予定ある?」
と意中の女の子に聞かれたので、
「だいたい空いてるよ」とほとんど反射的に答えてしまった。
「よかった」
微笑んだのは真鳥千佳というクラスメイトで、緩いパーマをかけた黒髪の毛先をさわるのが癖の、話しやすい女の子だった。セーラー服の胸元を深いところまで攻めるタイプで、緩く結んだネクタイが扇情的な、話していて楽しい女の子でもある。
「よかったら私と一緒にバイトしない?」
「バイト、ってどんな?」
「ハウスキーパー。掃除とか洗濯とかするの」
「掃除と洗濯か……」
「苦手?」
「でもないけど。時給によるかな」
そう言うと、真鳥は品のいい口元に笑みを浮かべて、俺の耳に顔を近づけてささやいた。
(――時給二千円だよ)
「……それって普通のバイトじゃないよな。危なっかしくないか?」
「だからわざわざ男の子誘ってるわけ。――ま、いちおう親戚というか、ママのいとこの家だから、ややこしいことにはならないと思うんだけど」
「どんな家?」
「えっとね」
真鳥は空いている隣の席に座って、スマホを取り出して画像フォルダを開いた。
「こんな家」
写っていたのは山の手の高級住宅街にありそうな、砂岩の石垣に囲われた家だった。ガラス張りのバルコニーがついている、広々とした二階建て。家の前には仰々しいフェンスが備え付けられていて、太い柱で区切られている。柱の左側には徒歩用の門が、右側には車両用の門がある。写真が途切れていて全貌は見られないが、敷地は広そうだ。ガレージや庭もさぞ立派なものだろう。
「いかにも金持ちの家だね」
「そうなのよ。十膳町の山の手に建ってるの」
「そりゃすごい。どんな商売してんの?」
「不動産いっぱい持ってて、寝ててもお金が入ってくる感じらしいよ」
「ふうん……。にしても、二千円はやっぱ怪しいよな」
「分かんないよ。世間知らずなお金持ちなのかもしれないし」
真鳥は目を伏せながら髪をいじくる。
どうも何か隠しているような雰囲気だったが、怪しいというだけで断るには、魅力的な金額だった。それに、ここで断ってしまっては、ひょっとしたらあるかもしれないひと夏の恋のフラグが断たれてしまうことだろう。
「ま、とりあえず行ってみよっかな」
「その意気その意気。服部くんならそう言ってくれると思ってたよ」
そう言って肩を叩いてくる真鳥。さっきの時間が体育だったせいか、ほんのりと制汗スプレーの甘い匂いが香ってくる。
たぶん真鳥は俺に憎からず思われていることを知っているのだろう。こうして頼みごとをしてくるということは、少しは脈があるのかもしれない。
掃除も洗濯も苦手ではない。まあなるようになるだろう。
○
さっそく次の日曜日、顔合わせをするということで、バスに乗って十膳町の麓までやってきた。バス代は少し痛かったが、家から自転車だと一時間はかかってしまう距離だ。後で交通費もらえないか、ちゃんと交渉しておこう。
「おはよー」
と手を振る真鳥は、白いブラウスにハイウエストのデニムショートパンツを合わせて、頭には小さめのストローハットをかぶっている。底の厚いサンダルを履いて、足の指には桜色のマニキュアを塗っているのか、きらきらと輝いて見える。小さめのショルダーバッグの肩紐が胸の谷間を強調しているのもポイント高い。
「おはよ」
服装を何処から褒めるべきか迷っているうちに、
「ちょっと遅れ気味だよ。急ごう急ごう」
と真鳥は坂を上っていってしまう。
「マニキュア塗ってるの?」と後を追い追い尋ねると、
「お、気づいた?」と真鳥は楽しげに振り向いた。
「ママが二カ月で飽きたマニキュアセット、入学のときにもらいうけたんだよね」
「そうなんだ。自分で塗ってるんだね」
「まあね。ほんとに塗ってるだけだけど。バイト代入ったら凝ったシールでも買おうかな」
真鳥はさくさく坂道を上っていくが、サンダルでよくもまあと感心するほど傾斜がきつい。右も左も高い塀や石垣で支えられた、大きな家屋ばかりだ。どうして金持ちは傾斜のきついところに住みたがるのだろうかと、益体もないことを考えてしまう。毎日坂道を上り下りすることでハングリー精神を養っているのだろうか。
「まだ着かないの?」
「もうちょっと。ほら頑張って帰宅部くん」
「いちおう文芸部なんだけどな」
「幽霊なんでしょ。こないだ智子に嫌味言われてたじゃん」
「そりゃまあ、本は一人でも読めるしね」
「あはは、うちの学校、無理やり部活入らされるもんね。私も軽音部の幽霊だよ」
「楽器弾けるの?」
「ピアノだけね。あんまり軽音って感じじゃないよね」
話しながら息も切らさず坂を上っていく真鳥。大したものだ。ひょっとしたら真鳥の家も坂の上にあるのかもしれないな。
坂の中腹よりは少し上、入り組んだ道を何度か折れると、ようやく写真で見た砂岩の家にたどり着いた。
真鳥は気兼ねなくインターフォンを押し、「エーコさーん、来たよ」と話しかける。カシャンと金属音がして、徒歩用の門のシャッターの鍵が外れた。
「おじゃましまーす……」
遠慮がちに敷地に入る。他の家々と比べてもひときわ広い。芝生の庭に艶やかな大理石の飛び石。名前はさっぱり分からないが、細くて背の高い品の良い木が何本か、石垣に沿うように配置良く植えられている。
自動ドアらしい玄関の傍には花壇があって、立派なひまわりに似た大きな花が三本ほどそびえたっている。――奇妙な花だった。人間の大人の背丈ほどもある茎もそうだが、花の部分が鮮やかな赤なのだ。
「これって、ひまわり?」
「かなぁ。真ん中にたわしみたいなのあるし」と真鳥は答える。
「赤いひまわりって初めて見たよ」
「ちょっと気味悪いよね」
真鳥は腕を伸ばして花びらをちょいちょいと指でつついた。髪だけじゃなくて、物をさわりにいくこと自体が彼女の癖なのかもしれないなと、いい具合に露出した脇を見ながらふと思った。
「おじゃましまーす」
自動ドアをくぐると、正面に見える広めのホールに、一人の女の子が立っていた。
かなり背の低い、小学生くらいの女の子だ。上等そうなシルクのパジャマを着て、眠たげに目をこすっている。
「あ、どうも。お家の人いるかな。バイトの面通しに来たんだけど」と尋ねると、
「ん? いるでしょう。目の前に」
女の子は年の割には落ち着きのある口調でそう言った。
「とりあえず、上がって。スリッパそっち」と靴棚を指さす。
「エーコさん久しぶり。約束通り連れてきたよ」と真鳥が女の子に手を振る。――エーコさん? 小学生にさん付けとは。どうやらよほど気を使っているらしい。それほどまでに金持ちの一族なのか。
「彼氏?」とエーコさんが尋ねると、
「うーん、どうだろ。候補ではあるかな」と真鳥は平然と言い放った。
「どうも、候補の服部圭太です」
動揺を隠しつつ挨拶をしてスリッパに履き替える。エーコさんはパスパスとスリッパを鳴かせながらドアを開けて、リビングへと案内してくれた。
リビングには大きな白いソファーが一対とガラスのテーブルが置いてある。カーペットは群青。分厚い本がびっしりと詰まった棚が興味をそそる。
奥はそのままカウンターキッチンに繋がっている。不釣り合いに小さな冷蔵庫と、物の少ない食器棚が見える。あまり、金持ちらしくはない取り揃えだった。
「まあ座りなよ」とエーコさんは顎でしゃくって、ソファーへの着席を促してくる。
真鳥と並んでソファーに座ると、エーコさんは向かいのソファーに横になった。寝癖で広がった肩までの髪は、しかし、柔らかそうな毛質のいい栗色だった。顔立ちも日本人離れして整っているし、外国の血が混ざっているのかもしれない。たぶんだけど、スラブ系。
「チカ、適当に飲み物持ってきて」
「はーい」
真鳥はスリッパを鳴らして冷蔵庫に向かい、ドアを開けたが、
「何も入ってないよ」と肩を落とした。
「そういや買い物行ってなかった。ごめんね」とエーコさんは膝を抱える。
「おかまいなく」
ハウスキーパーを募集しているだけあって、家事能力のなさそうな小学生だなと思った。
「あ、インスタント味噌汁ならあるけど」
「おかまいなく」
「そう……。で、何をするか聞いてるの?」とエーコさん。
「ハウスキーパーって聞いてるけど。ってか、お家の人留守なの?」
子供相手に変にかしこまるのもなんだし、金持ちだろうと普通に接しようとそう尋ねると、
「聞いてないんだね」と、エーコさんは物憂げに身をよじってため息をついた。
「チカ、事前説明しておくって約束だよ?」
「ごめんね。でも、口で言うより連れてきた方が早いと思ったから」
「それで、断られたらどうするつもり?」
「とりあえず、彼氏候補から外すかな」
不穏な二人の会話にどう突っ込めばいいか迷ううちに、
「私の身の回りの世話をしてほしいってことじゃないんだ」と、エーコさんは言った。
「ハウスキーパーというより、巡回警備員といったところかな」
「巡回警備員……」
「私はあちこちに家というか、拠点のようなものを持っているんだけど、恥ずかしながら管理が行き届いてなくてね。そういう場所を何カ所か訪問してもらって、軽く手入れをしておいてほしいんだ」
「へぇ」さすが金持ち。
「ということは、あちこち旅歩く感じなの?」
「だねぇ。日帰りで戻って来られるように、配慮はするつもりだよ」
「ふうん……。例えば何処に?」
「それはまだ内緒。引き受けてくれたら」とエーコさんは言い淀む。
真鳥の方を見ると、髪をいじりながらにこにこと怪しげに微笑んでいる。
「真鳥も一緒に?」
「私も行くよ」と真鳥は答える。
――なら、断る理由はないか。やはり怪しい仕事のようだが、親戚を危ない目に合わせることはしないだろう。
というか、二人は本当に親戚の間柄なのだろうか? 明らかに見た目は似てないし。
最低限、ここだけは突っ込んでおくべきポイントだろう。
「エーコさんは、真鳥の親戚なんだよな。親のいとこの娘ってことは、えーっと、はとこ」
「うん」
「いくつなの?」
ちょっと食い気味にそう言うと、エーコさんは猫のように体をソファーに擦り付けて、
「いくつに見える?」とにやついた。
「子供だろ。からかってるにしても、ちょっとしつこいんじゃないか?」
「その辺りのことも、仕事を引き受けてくれたら話すんだけどなぁ」
ソファーの上に三角座りをする様子はまさしく子供そのものだが、ちょっと怒ってみせても尻尾を出さない。引っかかる。
「引き受けないと話してくれないの?」
真鳥に水を向けてみても、
「ですねぇ」と優雅に脚を組み替えるばかりだ。
どうしたものか。
元々引き受けるつもりで来てはいるのだが、まさかここまで話を濁されるとは思わなかった。よほど引き受け手のない仕事らしい。なんだろう。重度の訪問介護者でもいるのだろうか。いや、それだったらプロに任せるよな。もっと別のベクトルで、内々にしか頼めないような仕事。――パッと思いつけないな。
なんにせよ、どうやら相当人手に困っているようでもある。せっかくだから、少し吹っかけてみようか。
「時給二千円って聞いてるんだけど」
「そだね」とエーコさん。
「二千五百円ほしいなぁって言ったら、通る?」
「んー……。その値段だと危険度が増すね」
「……ちなみに、一番危険なプランだとおいくらまで?」
「んー、三千円くらいかなぁ。かなり危ないからおすすめしないけど、やる気があるのはけっこうだよね。お金に困ってる子なの?」
「まあ、小遣いは少ないね。――じゃ、三千円のプランでよろしく」
「おーけー。男に二言はないよね」
「ない」ごねてみるもんだな。
「よしよし。話が早くて助かるよ」
エーコさんは小さな手をテーブルの上に伸ばして、握手を求めてきた。握り返すと、ひんやりとした陶器のような感触がする。低血圧なのだろうか。健康的な体温には思えない。
「じゃ、話が通ったってことで。仕事の説明するね。チカ、棚から二十三巻持ってきてくれないかな」
「はーい」
真鳥は席を立って本棚に向かうと、手前側の端っこにある一冊の分厚い本を、両手で抱えて持ってきた。
「重たい……」
「持つよ」
辞書よりも分厚く、ちょっとしたパソコンのディスプレイほども大きい。人間が読むには不適切にすら思えるサイズの本を真鳥から受け取って、テーブルにそっと置く。若草色の装丁で、表紙にも背表紙にも文字は書かれていない。唐草模様に似た植物の図柄が浮き出ているばかりだ。
「百二十四ページ開いて」
言われるままに表紙を開いて、パラパラとめくっていく。どのページにもびっしりと地図が載っているようで、文字は一言も書かれていない。
「地図帳なんだ」
「うん。家の領土」
「……領土?」
「あ、そこそこ。通り過ぎてるよ」
慌ててページを戻す。見開き二ページに渡ってカラーで彩色された地図のほとんどは、広々とした平野のようだった。向かって右端に赤茶けた山があり、そこから川が流れ、幾筋にも細かく分岐しながら地図の端にまで続いている。川の流れに沿うように広がる平野は緑に塗られ、ところどころに丸い印が押されている。印には地名を表しているのであろう文字が記されているが、日本語やアルファベットではない。まるで知らない文字だった。
「何処なの、これ?」
「ジャウッド・ティアンス、と呼ばれている」とエーコさんは答える。
「え、何って?」
聞き取れなかったので顔を上げると、エーコさんは憮然とした顔つきで見つめ返してきた。
「言い直すの、好きじゃない」
「俺だって聞き返すの好きじゃないよ」
「……ジャウッド・ティアンス。意味は、巨人の庭」
「巨人の庭……?」
どうやら、これは、少なくとも地球上の話ではないようだ。
「ゲームのマップなの?」
「そういう捉え方も、間違いではないよ」とエーコさんは答える。
――なるほど。ようやく仕事の骨子が見えてきた。
要するに、夏休みの間、この孤独そうな金持ちの女の子の遊び相手になればいいのだろう。ハウスキーパーってのは子守りのことで、巡回警備員ってのも、遊びに連れてけってのと同じ意味だろう。ややこしい言い方しなけりゃいいのに。
「はいはい。おっけー。そういうことね。で、どうやって遊ぶの。さいころでも振る?」
「え、さいころなんて振らないけど」
――TRPGをするというわけではないのか。
「なら……?」
「一カ月ほど前から、現地の住人からSOS出てるんだよね。なんでも一帯が瘴気を孕んだ沼に飲み込まれつつあって、古戦場だった頃の死体が沼の底から蘇りつつあるらしいの」
「ふうん……。なるほど。アンデッドか」
ゲームなら回復アイテムで倒せる雑魚枠。動きも鈍いと相場が決まっている。
「楽勝楽勝。で、どうやってその巨人の庭にたどり着けばいいんだ? ゲーム機? それとも、このまま会話だけでたどり着いちゃう感じ?」
「そんなの、魔法で行くに決まっているじゃない」
エーコさんはそう言うと、真鳥にチラリと目配せをした。
「はいはい。ちゃんと私が、責任持って付き添いますよ」と真鳥は頷く。
「それで、どうなのエーコさん。服部くんは合格なの?」
「それは結果次第。とりあえず資格はある」
「そうなんだ。じゃ、私の眼鏡は曇ってなかったってことかな?」
「それも結果次第」とエーコさんはクールに目を細める。
「二人で、夏が終わるまでに事態を収拾してほしい。少し危険な仕事にはなるだろうけれど、協力者がほしいというチカのわがままには答えたんだ。それなりの結果を期待しているよ」
「誰かさんが時給を欲張ったせいで難易度上がっちゃったよ?」と真鳥は俺の肩をつっつく。
「止めなかったくせに」と言い返すと、真鳥はまんざらでもなさそうに微笑み返した。
真鳥がどうして俺を巻き込んだのかは定かでないが、人選は間違っていないのは確かだ。金持ちの子供から小金を巻き上げる後ろ暗いバイトの共犯者として、うってつけの人材だと自分でも思う。四六時中金に困っている身分だと、入学してからの三カ月で見切られてしまったのは悲しいが。実際、懐さえ潤うのなら、細かいことは気にしない。
「よろしくね、エーコさん」小学生にさん付けすることくらい、訳はない。
「ちなみに、俺が持ってる資格って何?」
「それはね」
エーコさんは右手を俺の方に向けて、小さな手のひらを見せつけてきた。
なんてことない子供の手のひらのはずなのに、なんだか妙な、圧力を感じる。急に息が苦しくなってきて、慌てて大きく息を吸おうとする。
「人並みのプライドと、痛みを感じる心だよ」
○
――腐臭がする。
卵の腐ったような臭いが鼻をくすぐる。息を、吸いたくない。髪の毛の先っぽが腐った風で揺れている。たぶん身を起こせば、もっと強い風の流れが鼻から肺の中までしみ渡って、胸を苦しくさせるのだろう。
寝ていた方がいい。
だって明らかに普通じゃない。うっすらと目を開けると、細くて背の低い草の絨毯が視界に飛び込んでくる。青い空、白い雲、緑の草原、そして薄汚い空気。
手のひらを地面に付くと、少しぬるつく。土が、湿っているのだ。ついてしまった泥を指の中でこねていると、鋭い痛みが走った。何か、尖ったものが刺さってしまった。
身を起こして、傷跡を指で押さえる。刺さっていたものは、少し力を込めるとあっけなく抜け落ちた。
手に取ってみると、どうやらそれは骨のようだった。細く尖った、何かにかち割られた残骸のような、不自然に折れた骨。もろくなった表面は少し力を込めるとパラパラと崩れ、中から茶色く濁った骨髄の組織が現れる。
その骨髄の裏側にみっしりと詰まった赤黒い血の痕は、まるで、何かの文字のようにも見える。じっと見ているとめまいがして、その文字が、体の中に入り込んでくるような不気味な痛痒を覚える。
捨てたくなったが、どうしてだろう。手放したくないとも思ってしまう。とりあえずパーカーのポケットに入れる。傷跡はまだじくじくと痛むが、ここでは傷口の洗いようもない。仕方なくジーパンで拭って、立ち上がることにした。
どうやらここは小高い丘の上のようだ。腐った風は麓の方から吹いてくる。
「起きた?」
丘の突端の、見晴らしのいい場所に手を後ろ手に組んで立っていた真鳥が、こちらを振り向く。さっきまでとなんら変わりない、白いブラウスとショートパンツ姿だった。
「ここって……、まさか」
「まさかまさかだよ」と、真鳥は指でちょいちょいと手招きをする。
「ようこそ、巨人の庭のアンデッド沼へ」
スニーカーの底がねばつく。よろよろとした足取りで真鳥の隣に立つと、麓に広がる沼の様子がよく見える。
黒くよどんだ沼は遠く向こうまで広がっている。水面のあちらこちらに波紋が立っていて、はっきりと姿は見えないが、魚のようなものがいるらしい。元々は川だったのだろうか。流れというほどのものは、見てとれない。ところどころに家屋の屋根や橋の残骸らしい木材が見られる他は、草木一本、生えていない。
「あれ、見て」
真鳥は麓のきわの辺り、丘と沼の境目の方を指さす。
見ると、白いこんもりとした体毛がびっしりと生えた羊に似た四足獣が、力なく身を横たえて、沼の方に今にも引きずり込まれようとしていた。黒い脚を、白い腕に――いや、白い、骨に、力強く握られている。
獣を引きずり込んでいる骨は、足元が沼に浸かっているとは思えないほど、磨いたばかりの歯のように、禍々しく白く輝いていた。大きな獣を片手で沼に引きずり込むその骨格は、遠目から見ても大きかった。足先まで沼から出てきたら、おそらく獣の二倍はあるだろう。隣に立てば見上げるだけで首が痛くなりそうだ。
その頭蓋骨の形状は、いささか頭頂部が尖ってはいるものの、目の穴の大きさといい、下あごのバランスといい、ほとんど人間のそれだった。
「あれが巨人で……ここが庭で……?」
その場にうずくまりながら痛む傷口を押さえていると、
「ごめんね、巻き込んじゃって」と、真鳥はいつになく真剣な声音で、そう呟いた。
「一人だと、どうしても、怖かったの。頼れる人、いなくって」
「二人だったら怖くないの?」
「うん」
「俺は怖いんだけど」
「あはは……私も」
しばらく二人して波立つ沼を見つめていると、やがて一人分の骨格が、水面からぬっと頭だけを出して、こちらを見返してきた。眼玉もないはずの骨の塊のくせに、妙にはっきりした視線と殺気を持ってるなと、なんだか感心してしまった。
その感心も、骨格がざぶざぶと沼を渡って、しっかりとした長い脛骨を見せるほどにこちらに迫ってくると、途端に恐怖にすり替わった。
反射的に真鳥の手を取り、丘の稜線に沿って走り出す。ともかく小高い場所なら、沼の水は届かないはずだ。安全圏まで、とにかく走ろう。そんなものがあるかも分からないけど。
「真鳥……恨むからな」
手を引いて走りながら一瞬、真鳥を睨みつけると、
「ごめんね」と、真鳥は頬を赤くして、目元に涙を溜めていた。
……あー、くそ。
可愛いな。




