7.つかめない花びら
人垣をかき分けて、顧問の先生が駆けつける。
「阿部! 聞こえるか、阿部!」
しかし先輩の反応はない。救急車のサイレンが聞こえてきた。わたしは我に返り、先生に叫んだ。
「わたしも救急車に乗せてください!」
先生は困ったようにわたしを見た。わたしは必死に畳み掛ける。
「お願いします!」
先生はしぶしぶ頷いた。
救急車が到着し、先輩は車輪つきのベッドで運ばれていった。先生とわたしもついていく。隊員さんが先輩の住所を尋ねる。先生はかばんから名簿を引っ張り出し、それに答える。先輩の身内の連絡先を聞かれると、先生は困った顔をした。
「母親は亡くなっていて、父親は外国に」
隊員さんも困った顔をして、代わりに先生の電話番号を書き留めた。
「何かこの方が病気を持っていたりはしますか?」
先生はわからない、と首を振る。わたしは答えた。
「心臓が悪かったらしいです」
「心臓ですか。詳しいことは知りませんか?」
「壁に穴が開いてる、とか。前はホルン吹いてたんですけど、ドクターストップがかかったみたいです。この頃は、横になって眠れない、って」
隊員さんの表情に緊張が走った。先生は呆然と言う。
「そうだったのか……」
「先生はご存じなかったんですか?」
「ああ。コンクールで指揮したいって言われたときには驚いたが、まさかそんな理由だったとは」
先輩、先生にも言ってなかったんだ。さっき渡されたペンダントをきゅっと握りしめる。小さな鍵の形のそれは手のひらに食い込み、ちくりと切なく痛んだ。
先輩が乗せられた後から、わたしたちも救急車に乗り込む。氷のように色のない顔で処置を受ける先輩を見つめながら、先生は呟いた。
「そうと知っていたら、指揮なんかさせなかったのに」
わたしは言う。
「先輩、最後の方はもうふらふらだったんですよ。でも、指揮者でいたいって言い張って、わたしがどんなに止めても休まなくて。みんなが俺を待ってる、って……」
先生は頭を抱えた。
「俺、教師失格だな。何も気づいてやれなかった」
「先生のせいじゃないですよ」
先生は一瞬口をつぐみ、わたしを見た。
「そういえば、何で渡辺はそんなに知ってるんだ? 渡辺と阿部って、付き合ってたのか?」
わたしは少し考える。
「付き合ってた、と言えるのかはわかりません。でも……」
香織、と先輩の声が頭に響いた。わたしは一層強くペンダントを握る。
「わたしは、阿部先輩が好きです。先輩も、わたしにだけは苦しいのを隠そうとしませんでした」
「そうか……」
先生はため息をつき、先輩に視線を移した。ぐったりと目を閉じていても、いろんな器具を体中につけられていても、やっぱり阿部先輩は綺麗だ。目を放したら消えてしまう気がして、わたしもじっと先輩を見つめる。
気づけば病院に着いていた。先輩は早速奥に連れていかれ、わたしと先生は待合室にいるよう言われた。ずいぶん長いこと、わたしたちは押し黙ったまま待ち続けた。一時間くらい経ったときだろうか、突然先生の携帯が震えた。先生はそれをつかみ、外に出て行った。
戻ってきた先生の顔は泣き笑いになっていた。
「金賞、だったらしい」
「本当ですか!」
「本選で金なんて、学校始まって以来の快挙だ。ふっ、まったく、阿部は……」
微笑んだ先生の目から、はらはらと涙が落ちる。わたしの視界もじわりとにじみ、スカートにいくつも点が散る。
金賞だったって言ったら、先輩どんな顔するかな。俺が振ったんだから当たり前って胸張るか、嘘でしょって笑い飛ばすか。ねえ先輩、結果、知りたいでしょう? 知らないまま逝っちゃうなんて、絶対だめだからね……!
何時間待っただろう。外はすっかり暗くなり、院内に蛍の光が流れ出した。看護婦さんが出てきて、わたしたちに言う。
「阿部春一さんの付き添いの方ですよね? 阿部さんの意識はまだ戻っていなくて、今は集中治療室に入っています。お疲れでしょう、今日のところはお引き取りください」
先生はわたしを見る。仕方ないか、とその目は言っている。
「そうですか、ありがとうございました」
先生はわたしを促して立ち上がり、出口に向かって歩き出した。わたしも後を追う。病院を出たところで、先生は言った。
「何かあれば、俺に連絡がくるはずだ。そのときは必ず伝えるから」
「お願いします!」
「渡辺の荷物は、高橋が学校に持って帰っておいてくれたらしい。もう遅いから、学校に寄ったらすぐ帰れ」
「はい!」
見上げた空は、深い藍色に染まっていた。先輩、助かってくださいね……! わたしはぎゅっと目を閉じ、そびえ立つ病院に向かって祈った。
家に帰ると、わたしはずっと握りっぱなしだったあのペンダントを眺めた。鍵の形。突起とかがやけにリアル。もしかしてこれ、本物の鍵なんじゃ? そう考えたとき、わたしははっと思い出した。
あの白いハードケース! 引き出しに入れたきり忘れていたそれを引っ張り出す。やっぱり鍵がついている。穴を見比べてみると、ちょうどはまりそうだ。そろそろとペンダントを挿し入れる。抵抗なく入った。回してみる。かちり。開いた!
鍵を外して蓋を開ける。入っていたのは、先輩の筆跡でびっしりと埋め尽くされた分厚いレポート用紙の束。最初の文字を見て、思わず息を呑む。「香織へ」慌てて手に取り、最初から読む。これ、手紙だ……!
「香織へ。
お前がこれを読んでるってことは、あまり嬉しくない事態が起こってるんだろうな。本当だったら、引退の日に何事もなくお前の手から戻ってきて、無駄だったな、とか呟きながらシュレッダーにかけるはずだったんだけどね。今から書くのは、引退のときに語るはずだったこと。これを言わないではお前の前から消えられない、ってずっと思ってきたこと。ぎっしり手書きで読みにくいとは思うけど、我慢してくれ。
今は合宿一日目の夜だ。ついさっきまで、お前は俺の横で泣いてた。あんなに泣かせるつもりじゃなかったんだ、ごめんな。でも、誤解が解けてよかった。解けないまま別れることになっていたらと思うと、本当にぞっとする。元はと言えば、お前に何も言わなかった俺が悪いんだよな。だから、俺がいろいろ悩むことになったのは当然だ。けど、お前にもつらい思いさせちゃってたよな。申し訳ないと思ってる。全ては俺のせいだ。何とでも言ってくれ。でもね、香織が俺のこと好きって言ってくれたとき、俺死ぬほど嬉しかったんだよ。いてくれるだけでいい、って言ってくれたな? あの言葉にどれだけ救われたことか。生きててよかったって初めて思った。ありがとう。ありがとうな。何回書いても書き足りないよ。
話題は変わるけど、俺が何でお前をホルンに引き入れたか知ってるか? 確か言ってなかったよな。それはね、ホルンパートに木管的な繊細さが欲しいと思ったからだよ。ホルンは金管と木管の橋渡し役だって、よく言われるよな? でも、何となくわかると思うけど、俺はどうしても金管寄りなんだ。だから、クラリネット経験者のお前を連れてきた。その計画は成功だった。いや、想定以上にとんでもなく素晴らしかった。俺がどうしても手に入れられなかった小さな柔らかさを、お前は最初から持ってたな。欠けていたピースがぴたりと満たされたようなあの感じ、すごく気持ちよかった。感謝している。
ばらの騎士のホルンソロを与えたとき、俺が生かしてくれって言ったの、覚えているか? あれにはふたつの意味があってね。ひとつめは、あのソロが曲中で重要だから、ちゃんと生かせよっていう普通の意味。でも、俺にとってはふたつめの方がずっと大事だった。そのふたつめの意味では、俺が生かしてくれって言ったのはソロのことじゃなくて、俺自身のことだ。意味わからん? そうかもしれない。でもちょっと、語らせてくれ。
俺は昔からずっと、死を意識して生きてきた。俺の病気はすぐに命に関わるようなものではなかったけど、でもたまに心臓が自己主張するのを感じると、もし次の拍動がなかったら、なんて考えずにはいられなかった。自己主張の頻度が増してきた最近では、特に。そんなとき必ず思うのが、俺は今まで何をなしてきた? っていうことだ。俺は世界に働きかけ、世界も俺に働きかけてる、だから今ここで死んだって、何らかの影響は世界に残り続けるはずだって、頭ではわかるんだよ。でも、俺自身に認識できなければ、何だか安心できないんだ。ということで、俺自身ではっきりわかる足跡を世界に残そうと思って、お前にソロを与えた。足跡っていうのは、別に世界記録とかじゃなくて、人の記憶とかに残るものだから。肉体が消えても、お前の記憶に俺がいる限り、俺は生きてるんだ。生かしてくれって言ったのは、そういう意味。ごめんな、自己中で。
調子乗って書いたら、長くなりすぎた。香織も疲れちゃうだろうから、もうこの辺で終わりにするよ。お前がこれを読んでるときの俺は、たぶんもう逝っちゃってるか逝きかけてるかのどっちかだろう。でも、まだもしこの世界に指一本でも触れているのなら、俺はとどまれるように必死に頑張っているはずだよ。これを読み終えた香織にまた会えるのかはわからないけど、また会いたいと切に願っている。
もしも、もしものときのために、恥ずかしいけど書いておくね。香織、大好きだ。お前ほど大切に思えた存在はなかった。俺と同じ世界にいてくれて、本当に本当に、ありがとう。
阿部 春一」
あとからあとから涙がこぼれて、もうどうすることもできない。
「先輩……頑張って、いかないで……」
声さえ聞こえてくるような先輩の肉筆を抱きしめて、わたしはただひたすら涙を流した。




