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6.花の散るとき

 次の日から、また練習が再開された。

「わかってると思うけど、本選は昨日以上にハイレベルな戦いだ。浮かれてちゃいけない」

阿部先輩は指揮台の上で言い、また棒を上げる。

 息を休みなく吹き込みながら、わたしの考えは別のところに行く。何だか先輩の顔が白いんだ。合奏の前からずっとだから、わたしの目の問題かもしれないけど。でも、やっぱり胸がざわざわする。桜が花びらを手放しかけるのを見ているよう。でも、先輩が棒を置く気配はない。やっと休憩時間になったときには、合奏開始から二時間も経っていた。

 みんなが一斉につば抜きやらおしゃべりやらを始める中、音楽室を出て行く先輩の背中をわたしは追った。

「阿部先輩」

ドアを出たところで先輩は立ち止まった。

「香織。どうした」

「大丈夫ですか?」

「え、大丈夫だよ?」

先輩は平然と首をかしげる。あれ、本当にわたしの思い過ごしだったのかな。でも、聞こえてくる先輩の呼吸は明らかにいつもより速い。

「俺、どっか変に見える?」

先輩は自分の頬を引っ張って伸ばしながら言う。わたしは小さく頷く。

「ちょっとだけ」

「昨日頑張ったからじゃない?」

なんだか先輩、他人事みたいだ。

「先輩は何も感じないんですか?」

「うん。別に」

「そうですか……」

なら、心配することもないのかな。わたしは言う。

「無理しちゃだめですよ?」

「しないさ」

先輩は飄々と笑った。

 でも、次の日になってもその次の日になっても、先輩の顔色は戻らなかった。逆に、どんどん色が抜けていっているような気さえする。先輩は一回もつらそうな顔をしないけど、嫌な予感は募る。


 本選が明日に迫った今日、最後の仕上げってことであのソロを見てもらうことにした。阿部先輩は快く引き受けてくれて、合奏の合間に二人で音楽室を出た。あの階段の踊り場に行き、並んで床に座る。

「どれ、吹いてみな」

「はい!」

神々しく、は難しいけど、包む、って感じは何となくわかってきた気がする。気持ちよく吹き終わり、先輩の声を待つ。

「……………」

先輩は黙ったままだ。え、わたし下手だった? 見ると、先輩は深くうつむいている。顔は全く見えない。

「阿部先輩?」

つついてみる。反応がない。さっと血の気が引く。

「先輩! 先輩!」

無我夢中で肩をつかむ。先輩の薄い肩は、少し力を入れるだけで悲しいほど簡単に動く。嘘でしょ、嘘でしょ……!

 ぐらぐら揺らされて、先輩はのんびり顔を上げた。

「んっ……? ああ、ごめん」

平和な表情。途端に力が抜け、情けなく頬が緩んだ。

「もう……びっくりさせないでくださいよ」

「悪かった。寝てた」

寝てた、ですって? このほんのちょっとの間に? あのソロ、一分もないはずよ?

「まったく、どんだけ眠いんですか!」

「ごめん。本当にごめん」

先輩は何度も謝る。その声色に切実なものが混じって、わたしはふと怖くなった。

「まさか先輩……夜寝られてないとか言いませんよね?」

先輩は黙って微笑んだ。

「否定してくださいよ!」

先輩は笑ったまま首を振った。

「香織に嘘はつきたくないからね」

目の前が暗くなる。嫌な予感、的中……。

「どういうことですか」

お願い、コーヒー飲みすぎたとか言って!

「誰にも言ってなかったんだけどね。もう横になれないんだ」

「嘘……」

そこまで進んでたなんて。先輩の声が遠くに聞こえる。

「座ったまま寝てはいるんだけど、なかなかぐっすりとはいかなくてさ」

茶化すように先輩は笑う。わたしは絶望に襲われる。

「それって……それってかなりやばくないですか? 指揮なんかしてていいんですか? いや、まずここにいていいんですか?」

先輩は表情ひとつ変えず言う。

「さあね。医者は怒るんじゃない?」

さあね? 自分のことなのに? 突如として、怒りにも似た感情が湧き起こった。わたしは叫ぶ。

「なんでそんなに落ち着いてるんですか! 本当に死んじゃったらどうするんですか!」

わたしの声はわんわんと反響した。先輩はゆっくり腕を伸ばし、優しくわたしの肩を抱いた。

「……ありがとう、香織。でもね、今俺がやめるってわけにはいかないんだよ。わかるでしょ?」

わたしはいやいやと首を振る。

「指揮くらい先生にだってできる!」

先輩は諭すように言う。

「ううん、できない。本番は明日だしね、みんな俺の指揮に慣れきってる」

「でも、でも……!」

先輩は一瞬沈黙し、静かにわたしの手をとった。

「あのね香織。俺は、明日死んでも後悔しないんだよ」

先輩の細い指に、いつかのような温もりはない。

「生きてたって、みんなに迷惑かけるだけだ。お前だって、そのうち俺を疎ましく思うだろう」

わたしは必死に言う。

「そんなこと絶対ない! それに、お父さんとお母さんも悲しむでしょ!」

「お袋は心臓で死んだよ。親父はアメリカにいて、もう十年も会ってない」

淡々とした先輩の声。わたしの口はまた開くけど、何も言葉は紡げない。

 先輩は最後にわたしを抱きしめ、言った。

「俺を指揮者でいさせてくれ。明日まで、明日まででいい」

わたしが何も言わないと、先輩はそっと顔を近づけ、耳元でささやいた。

「桜はね、散り際が一番綺麗なんだよ」

わたしはただ泣くしかなかった。


 そして、迎えた本選当日。先輩の顔は一段と白かった。

「本当に振るんですか? 大丈夫ですか?」

「だい、じょうぶ……」

控室から舞台袖までの少しの距離を歩いただけで、もう先輩の息は危うげだった。

「くっ……はぁ」

「先輩!」

「しぃーっ……みんなは、知らないんだから……」

周りを見ると、みんなは阿部先輩には目もくれないで願掛けに精を出している。

「ほら、な……?」

頷くしかない。その時、前の学校の演奏が終わり、側板がずらされた。

「俺を、信じてくれ」

阿部先輩はみんなに笑顔を向けて言い、別人のように颯爽と歩き出した。

 観客の見つめるステージ。指揮台に立つ阿部先輩の顔は、透けるように白い。でも、その体は揺らぎなく直立している。準備が整い、訪れる静寂。

 棒が宙を割る。平穏を破る突然のフォルテ。先輩の瞳にぱっと光が宿る。わたしたちは棒に操られ、ただひたすらに音楽となる。曲は高まり、おさまり、また激しくなっては、落ち着きを取り戻す。その度ごとに躍動する阿部先輩の体。「俺を指揮者でいさせてくれ」今の先輩は、こぼれんばかりに咲いた真っ盛りの桜だ。クレッシェンド。もっと、もっと。フォルテッシモ!!

 真っ赤な興奮をオーボエソロが優しく鎮め、曲は中間部に入る。木管の甘い旋律の後、棒は静かにわたしを示す。

 いっぱいの思いをこめて、わたしはホルンに息を入れる。先輩の瞳がじっとわたしを見据えている。あの夜の星を映したような、深く透んだ瞳。神々しく。その意味が、すっとわたしに下りてきた。神々しく、そう、神々しく。全ての音をふわりと包み、わたしは音を昇天させる。先輩が小さく頷く。やった……!

 雰囲気はがらりと変わり、華やかなワルツへ。舞踏会さながらの明るい曲調。楽しく踊った後、ある一点を境にみんなの気持ちは一斉に高まっていく。アッチェレランド。これで本当に終わり。満身の力をこめて、先輩は腕を振る。ガラスのような先輩の顔は、壮絶なほど美しい。「桜はね、散り際が一番綺麗なんだよ」巨大なフォルテッシモをホール全体に響かせて、演奏は終わった。

 鳴り止まない、盛大な拍手。阿部先輩は恍惚の表情で浴びるように受け、ステージを後にした。

 わたしは楽譜を取るのももどかしく、すぐにその背中を追う。

「先輩! 終わりましたね!」

先輩は振り返る。

「うん、終わった……」

先輩は頷いて、突然視界から消えた。

「ぅくっ……、ああっ!」

崩れ落ちる先輩の体。

「阿部先輩!!!」

耳をつんざいたのはわたしの悲鳴。胸の桜が一斉に散る。まぶたの裏を真っ白に染め上げる、花、花、花。何事かと部員のみんなが駆け寄ってくる。

「か、おり……」

床に倒れこんだ先輩は、かすかに蒼い唇を動かした。

「何ですか? 何ですか!?」

先輩は首もとに手をやり、細いペンダントを引き出した。

「これ、を……お前に……」

糸のようにか細いジョイントをふつりと切って外し、先輩は震える手でわたしに差し出した。

「か、ぎ……ぅ、っく」

わたしが受け取ると、先輩は一際強く顔をゆがめ、それきり意識を失った。

「先輩! 阿部先輩!」

救急車、と誰かが叫んだ。思考回路を覆い尽くす純白の花びら。先輩が行っちゃう、先輩が行っちゃう……!!

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