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5.光が満ちて

 指揮台に立つと、もう先輩はさっきまで苦しんでいた人のようには到底見えなかった。情感たっぷりの指揮をし、ふさわしいところで止めては的確な指示をする。完全に普段通りの阿部先輩だ。目が合うと、他の人にはわからないくらいのかすかな微笑みを浮かべてくれた。


 夜練までやりきると、わたしはホルンを抱えたままあのベンチに急いだ。先輩はもうそこにいて、腕を組み空を見上げていた。

「お待たせしました」

「香織、お疲れ」

隣に座ると、先輩は言った。

「お願いがあるんだ」

先輩は何かを取り出し、わたしに手渡した。白く薄いハードケースだ。開けようとするけど、開かない。よく見ると、端に小さな鍵がついていた。

「何ですか、これ」

「預かっていてほしいんだ。俺が引退するときまで」

「文化祭の日まで、ですか」

「うん」

三年生が引退する文化祭は、九月の中旬。あと二ヶ月足らずだ。何だかわからないけど、まあそんなに長い期間じゃないし、いっか。

「わかりました」

頷くと、先輩はほっとしたように笑った。

「ありがとう」

 それきり、先輩は口を閉ざした。わたしも何も言わない。沈黙。膝の上のホルンだけが、大きく口を開けているように見える。そういえば、何で楽器なんか持ってきたんだっけ?

 時は流れ、ホールの電気が消えた。それを待っていたように、先輩が言った。

「香織、聴いてくれるか?」

え? 横を見る。先輩は前を見つめている。星明かりに照らされた、真珠のごとく透き通る横顔。

「俺の、最後の演奏を」

やっと、楽器を持ってきた意味がわかった。わたしは夢中で頷く。

「はい! はい……」

大事に抱いていた楽器を先輩に渡す。先輩はマウスピースを指さして言う。

「このまま吹いていいか?」

また頷くと、先輩は笑った。満開の夜桜のように、美しく。

 先輩は深く息を吸い込み、マウスピースに口をつけた。全身の神経を耳に集める。最初の一音が届いた瞬間、わたしは息もできなくなった。あのソロ。でも、全然違う……!

 どこまでも純粋な、澄み切った音。真っ直ぐに天へ昇っていき、星の光となって戻ってくるような。ううん、もうこの星空自体が、先輩の音なのかもしれない。「神々しく」昼に言われた言葉が思い出される。ああ、こういうことだったんだ……!

 光が胸をいっぱいに満たし、しずくとなってきらりとこぼれた。先輩のソロが終わる。見上げると、先輩の目も光っていた。

「聴いて……くれたか?」

「はい」

「ありがとう……っはぁ」

ほんの少しの間の演奏だったのに、先輩の息は乱れている。それに気づいた途端、胸の桜が大きく揺れた。

「今の俺を見れば、わかるだろ? ……もう、俺は吹けない。たぶん、もうすぐ……音すら出せないように、なる。だから……」

はぁっ、はぁっ、と肩を喘がせ、先輩は懸命に言葉を継ぐ。

「最後に、お前に聴かせられて……よかった」

最後、最後だなんて! 熱い固まりがまたこみ上げた。先輩の頬を、つうっと一筋光が伝う。ぐちゃぐちゃになる視界の中、不思議とそれだけははっきり見えた。


 合宿が終わると、あっという間にコンクール当日だ。わたしたちが出場するのはB部門。全国大会には元から繋がっていないけど、今日いい結果を出せば二週間後の本選に出られる。

「香織。頑張ろうな」

校門の前で、阿部先輩が言ってくれた。

「はい!」

ホルンのケースを大事に抱えて、わたしは全力で頷く。

 コンクールは二日間の日程で行われていて、わたしたちの演奏順は二日目の最後。つまり、大トリだ。表彰式がすぐ後に行われるから、2000人以上入るホールは一杯になっているはず。そんな大観衆の前で演奏した経験はないけど、圧倒されないでわたしたちの音を作らなきゃいけないんだ。……っていうのは、顧問の先生の受け売りだけど。

 いよいよ出番が迫り、わたしたちは舞台袖に入った。前の学校の演奏が聞こえてくる。阿部先輩は側板のすき間からこっそり客席を覗き、小さな声でみんなに言った。

「次が最後ってんで、客席はふわふわしてる。惑わされちゃだめだぞ」

「はい!」

ささやくような音量でも、わたしたちの返事は揃う。そう、わたしたちはひとつなんだ。

 前の演奏が終わった。係の人が、入場するように言う。

「よし、行くぞ」

阿部先輩は最後に言い、真っ先にステージへ出て行った。

 わたしたちもぞろぞろと先輩の後を追う。ステージの上は眩しいくらいに明るい。ぎっしり埋まった客席が見える。椅子の配置替えやら譜面台の高さ調整やらが終わると、会場はしいんと静まりかえった。

「七十二番、豊嶋学園流月(とよしまがくえんりゅうげつ)高等学校。歌劇『ばらの騎士』組曲」

アナウンスが入り、阿部先輩が指揮台に立った。みんなの顔を順番に見つめてひとつ頷き、静かに棒を差し上げる。

 一度棒が下りると、もう緊張なんか吹っ飛んだ。音楽はもう脳みその芯にまで染みついている。何も考えなくたって、勝手に体は反応する。すっと棒が向けられ、わたしのソロになる。周りを聴いて。包んで。神々しく。阿部先輩の桜色に上気した顔が、ふわりとほころぶように微笑む。

 七分間は瞬く間に駆け抜けた。一瞬の空白の後、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。阿部先輩は本当に嬉しそうに礼をし、にこっとわたしに笑いかけてくれた。

 余韻に浸る間もなく、楽器をしまうとすぐにわたしたちは元のホールに戻った。今度はステージじゃなく、客席に。もうすぐ表彰式が始まる。ステージ上には、阿部先輩と高橋部長が他の学校の人に交じって並んでいた。見えないだろうとわかりつつ、こっそり手なんか振ってみる。

 五時半ぴったりに式が始まった。偉い人のお話と審査員の先生方の紹介が終わると、いよいよ結果発表だ。壇上に並ぶトロフィーは八個。金賞受賞校だけが手にできる、栄誉の象徴。わたしたちの分、ありますように!

「五番、県立大洋高等学校。ゴールド金賞!」

「十一番、県立桐岡高等学校。ゴールド金賞!」

ああ、どんどん取られていく。わたしたちの番はまだずっと遠いのに。

「四十三番、新生大学附属新生高等学校。ゴールド金賞!」

列はじりじりと短くなる。でもトロフィーも刻々と減っていく。

「六十五番、県立椎葉高等学校。ゴールド金賞!」

あと一個しかない。我々七十二番までは残り七校もあるのに!

「六十七番、県立元丸高等学校。銀賞」

そう、よしよし……

「六十九番、県立優輪高等学校。銅賞」

まだ大丈夫。あと少し!

「七十一番、県立駒沖高等学校」

お願い、ゴールドって言わないで。

「銀賞」

やった! 周りのみんなの顔がぱあっと明るくなる。

「七十二番、豊嶋学園流月高等学校。ゴールド金賞」

「きゃああああぁぁぁ!!!」

みんな一斉に叫ぶ。阿部先輩のガッツポーズが見える。やった、やったあ!

「続いて、本選出場校を発表します」

そうだ、まだあったんだ。金だったからって、必ず本選に行けるわけじゃない。

「十一番、県立桐岡高等学校。四十三番、新生大学附属新生高等学校。……七十二番、豊嶋学園流月高等学校」

「きゃああああぁぁぁぁ!!」

嘘っ、嘘でしょ!? みんなの歓声の綺麗なフォルテが夢みたいに聞こえる。本選、出場? 流月が……?

 喜びでもみくちゃになりながら、みんなと一緒に絡まるように会場を出た。出口から少し離れたところで待っていた顧問の先生に一斉に駆け寄る。もうみんな涙でびしょびしょだ。阿部先輩と高橋先輩が賞状とトロフィーを持って帰ってくると、みんなは歓声を上げて先輩たちを取り囲んだ。

「おめでとう!」

「金賞!」

「本選!」

阿部先輩がトロフィーを掲げてみせると、わっと拍手が上がった。

「本選まで二週間、また一緒に頑張ろうな!」

阿部先輩は高らかに言い、頭の上でトロフィーを振った。きらきらした先輩の笑顔は、夕日をはねかえすトロフィーと同じくらい輝いていた。

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