4.花、ひらく
七時から三時間の夜練を終え、わたしははやる心を抑えながらホールを出た。夜の空気はふわりと甘い。近くのベンチに腰かけて待っていると、後ろから呼ばれる声がした。
「渡辺」
「阿部先輩!」
「ここにいたらみんなに見つかる。あそこにしよう」
先輩はホールの玄関から離れたもうひとつのベンチを指さした。
「はい」
二人並んで座る。みんなのさざめきが遠くに聞こえる。
「理由……って」
わたしが言うと、先輩は頷いた。
「うん、話すよ」
先輩は一呼吸置き、ゆっくりと話し始めた。
「俺がホルンをやめたのは、俺の意思じゃない。俺はずっと吹いていたかった。俺が楽器を愛していたこと、お前も知ってるだろ? でも……ドクターストップが、かかった」
思いがけない言葉に、わたしは先輩を見つめる。
「心臓が悪いんだ。昔からだ。でも最近になって、苦しくなることが増えた。それで医者に行ったら、心臓の壁に開いた穴が広がってる、って。それで、体に負担をかけること、例えば管楽器の演奏なんかは禁止されちゃったんだ。体育はその前からずっと見学だったんだけど、この部で高三の男子って俺だけだから、部員のみんなは知らなかったみたいだね」
そうだったんだ……。わたしはずっと誤解してたってことか。かすかな潮気を含んだ風が、わたしの頬に触れていく。
「本当は、指揮だってご法度のはずなんだよ。でも主治医の先生が全く音楽を知らない人でね、指揮っていうのはみんなの前でいっち、にい、さあん、しって手を降ってればいいもんだって言ったらころりと信じてくれた。実際は演奏よりも疲れる役目だっていうのにね。だから、合奏中に苦しくなったのは自業自得だな。お前に目撃されたのは誤算だったけど」
先輩の言葉が途切れるのと同時に、ホールの電気が消えた。人工の光がなくなり、わたしたちは星明かりだけに包まれた。
わたしは言った。
「でも、それなら、指揮をしてたら先輩の体は……」
「そうだな」
「そんなのいや!」
どっと涙が溢れてきた。慌てて止めようとするけど、もう遅い。堰は決壊しちゃったんだ。
「いや。先輩死んじゃうんでしょう?」
敬語も何もかも吹っ飛んだ。
「そんなのやだ。もう指揮やめてよ!」
いや、いや、と赤ちゃんみたいに繰り返す。先輩は、静かにそんなわたしの手を握った。
「渡辺。本当にそう思うか? 生きてさえいれば、それでいいと思うか?」
「……思う」
「じゃあ聞くけどな。何でお前は、俺を先輩として尊敬するんだ? 俺が技術のあるホルン奏者だったからじゃないのか? 俺が才能ある指揮者だからじゃないのか?」
どうなんだろう? そうな気もするし、そうじゃない気もする。黙ってしゃくり上げていると、先輩は言った。
「お前の答えがどうであれ、俺はそういう肩書がなければ生きていけないんだよ。確かに、部活を辞めて入院すれば死の危険は減るかもしれない。でも、そんな生活は俺の精神を殺すだろう。それなら俺はここに留まる。だいたい、勘違いしてるみたいだけど、俺は今だってそこまで死と隣り合わせなわけじゃないんだよ? 普通の人よりほんの少し危険性があるってだけで」
先輩の手の温もりが悲しい。普通の人よりほんの少し危険性があるだけって言うけど、わたしにとって失われてほしくないのはこの隣にいる先輩だけなのに。「普通の人」なんてどうだっていい、ただこの先輩だけが必要なのに。
先輩は言った。
「なあ渡辺、俺に告白したって言ったよな。悪いけど、もう一回……してくれないか?」
心の一番奥を、つん、とつつかれたような気がした。わたしが黙っていると、慌てたように先輩は言った。
「いやっ、もう別に、今はそんなでもないとかだったら、全然それでいいんだけど」
そんなわけない。わたしは首を振り、先輩の手をしっかりと握り直した。深く息を吸い込み、丁寧に言う。
「……阿部先輩。わたし、先輩のことがすごく好きです」
先輩はほっとしたように息をつき、優しくわたしの手を握り返した。
「ありがとう。俺も……お前が、好きだよ」
今、何て言った……? 胸の中、一斉に桜が花開く。あまりに甘いその芳香が、とろりとわたしの肺を満たす。新しい涙が溢れ出し、露のようにわたしの頬を濡らす。
「ずっとずっと好きだった。でも、この体では何もしてやれない、そう思うと言えなかった」
わたしはまた首を振り、嗚咽をこらえて懸命に言った。
「何もしてくれなくて、いいんです。いてくれれば、それでいいんです」
先輩はわたしを引き寄せ、ふわりと抱きしめた。
「ありがとう……香織。ありがとう……」
押しつけられた先輩の胸の鼓動は、今にも壊れそうに速かった。わたしは嬉しくて、でもそれ以上に怖くて。ここに先輩がいる、今ちゃんとここにいる。そのことを自分に染み込ませるように、きゅっと先輩を抱きしめ返した。
合宿二日目の朝、わたしたちは六時に起き、六時半から練習を始めた。個人での基礎練を中心とした一時間半の朝練を終える頃には、昨日のエビフライも竜田揚げも消化され尽くし、わたしはほとんど飢えかけていた。
食堂で、昨日と同じ席につく。目玉焼きの黄色い目と見つめ合っていると、間もなく阿部先輩がやって来た。
「おはよう、渡辺。いや、香織」
やっぱり昨日の夜は夢じゃなかったんだ! 胸の中の桜がさらりと揺れる。わたしはにこっと笑った。
「おはようございます。わたしも、阿部先輩じゃなくて春一先輩って呼んだ方がいいですか? ああ、でも阿部先輩で慣れちゃってるから変な感じしますね」
「好きにすればいいさ」
先輩はちょっと赤くなって言い、くすりと笑った。
昼間の練習では、パート練習の時間がとられた。先輩がホルンをやめてからはずっと、パート練の時間をひとりぼっちで過ごしていたけど、今日は阿部先輩が来てくれた。
みんながいるホールはうるさいからと言って、先輩は少し離れた小ホールにわたしを連れてきた。先客はいなくて、わたしたちだけだ。
「ソロ。吹いてみ」
階段のときからの進化を見せようと、意気ごんで吹く。先輩は笑ってくれる。
「うん。うん。ホルンらしくなってきてる」
「どうすれば、もっと良くなりますか?」
「そうだな。こう、天から降りてくるような神々しさが加われば完璧かな」
天から降りてくる? 天井にはねかえせって意味かな。ベルを上に向けて吹いてみようとすると、先輩は手を振った。
「いやごめん、そうじゃないんだ。あのね、もっとこう」
先輩はわたしの楽器に手をのばそうとした。しかし、
「ぁ……くっ」
その手は途中で空を切った。
「先輩?」
嫌な予感がする。
「阿部先輩?」
先輩の顔色はどんどん青ざめていっている。それでも先輩はいつもの微笑みを浮かべた。
「大丈夫……何ともない」
すうっと、先輩が遠ざかったような気がした。何にも言ってくれないんだ。何ともなくないことくらい、ちょっと見ればわかる。だってこの一年以上、ずっと先輩を見続けてきたんだから。それに、病気を持ってるって教えてくれたのは先輩だ。なのに、言ってくれないんだ……。
「先輩の嘘つき」
やっと出た言葉は、たったそれだけだった。でも、先輩には通じたみたいだった。先輩は困ったような顔で白状した。
「ごめん香織……本当は、ちょっと…苦しい」
言ってくれた。わたしは先輩の胸にそっと手を当てた。クライマックスのときのティンパニみたいな、激しく速い鼓動が触れる。先輩の荒い呼吸が、耳元ですごく大きく聞こえる。
「痛いんですか? わたしどうすればいいですか?」
「痛い、わけじゃないんだ。でも、……はぁ、くっ……くふ、かはっ……」
先輩の顔がつらそうにゆがみ、先輩はその場にずるりとしゃがみこんだ。
「先輩! 先輩!」
「大丈夫、すぐおさま、る……だから、静かに……気づか、れる…」
先輩は体を小さく丸め、肩を喘がせながら浅く速い呼吸を繰り返す。わたしは真っ白な頭で、ただ先輩の背中をさすることしかできない。背骨の形がくっきりわかるほど薄い背中。その感触が、さらにわたしの心をかきまわす。先輩がこんなになってたのに、今まで気づかなかったなんて……!
少しずつ先輩の呼吸は落ち着いていき、ゆっくり先輩は顔を上げた。
「もう、治まった。ごめんな、驚かせて」
先輩は微笑む。でもその顔色はまだ紙みたいで、その笑顔は咲きたての桜じゃなくて散りかけの桜だ。それなのに、先輩はこんなことを言う。
「もう合奏の時間だ。俺はもう行くから、チューニングしたら来いよ」
立ち上がり、先輩は小ホールを出て行こうとする。でも、ドアのところでつまずいた。ふらり、細い体がかしぐ。
「あっ……!」
わたしは考える間もなく走り出し、先輩の背中を抱きしめていた。
「行かないで!」
「うん?」
「行かないで。今指揮なんかしたら、ほんとに先輩死んじゃう!」
ふふっ、先輩の笑う声がした。
「ありがとう。でもね、行かないわけにはいかないんだ。みんなが俺を待ってて、そのみんなはこのことを知らない。そうだろ?」
「でも……!」
「行かせてくれ、香織。無理はしないと、約束する」
それでも離さずにいると、先輩は言った。
「大丈夫、俺は死なない。まだやるべきことを残しているから」
思わず腕の力がゆるんだ。その言葉に、今までにはない強さの意志を感じたから。先輩はわたしの腕を優しくほどき、言った。
「夜になったら、楽器を持ってあのベンチに来てくれるな?」
「はい」
抗いようもなくて、頷く。顔を上げたときにはもう、先輩は遠くに行っていた。




