3.秘密のほころび
気づけば走り出していた。全速力でその階段を駆け降りる。楽譜が手から離れ、背後でばさりと音を立てる。でもそんなのに構ってはいられない。
踊り場を過ぎると、階段の一番下でうずくまる先輩が見えた。
「阿部先輩!」
ほとんど飛び降りるように階段を下りきり、先輩のそばに駆け寄った。先輩はゆっくりと顔を上げる。薄暗がりの中ぽかりと浮かんで見えるほど白いその顔色に、胸がすうっと冷たくなる。
「先輩! 大丈夫ですか?」
「渡辺……」
先輩は眉根を寄せて大きく深呼吸し、しぼり出すように言った。
「大丈夫だ……どうってことない」
「嘘、嘘です!」
「それより……楽器持ったまま、走るんじゃ…ない」
はっとして腕の中を見下ろす。見つめ返してくるのは、使い込まれた金色の愛器。
「あっ……ごめんなさい」
謝ると、先輩はほんの少し微笑んだ。
「なぜ、ここに来た……?」
「なんでって、先輩の死にそうな声がしたから」
先輩は膝に顔をうずめた。
「死にそうって、お前……」
「すみません。でもほんとに」
「そうじゃないだろ」
先輩はまた深呼吸すると、すっと立ち上がって壁に体を預けた。
「何か聞きにきたんじゃないのか?」
見上げると、先輩の顔にはかすかに色が戻っていた。少し安心して、頷く。
「はい。あのソロを」
「やっぱり、そうだと思った。ちょっと吹いてみな?」
わたしは吹く。音楽室でよりずっと大きな音に聞こえる。最後まで吹いて、わたしは言った。
「包むってどういうことか、どうしてもわからなくて」
腕組みして聴いていた先輩は言った。
「俺があの時、包むことの他に何て言ったか、覚えてるか?」
「えっと、周りを聴け」
「そうだ。たとえソロでも、お前は独りで吹いてるわけじゃない。周りが作ってるハーモニーによく耳を傾けて、どんな音が要求されてるかを知らなきゃいけないんだ」
どんな音が、要求されてるか。そんなこと、考えたことすらなかった。
「お前がすごく練習してることは知ってる。あと少し、頑張ってくれ」
阿部先輩はそう言って、今度ははっきりと笑顔を浮かべた。開いたばかりの桜のような、いつもの笑顔。目が合った途端、わたしは泣きそうになった。先輩、見ててくれてたんだ。なんで? なんでこんなに優しいの? 口を開けばいらないことを言ってしまいそうで、わたしはぐっと唇を噛みしめて頷いた。
「ほら、合奏に戻るぞ。あと五分で始めるからな」
先輩はわたしを追い越して階段を上ろうとした。合奏に戻る? びっくりしてその背中に叫んだ。
「指揮するんですか?」
先輩は振り向いた。
「そうだよ。何言ってるの」
「そんな、さっきまであんなに……」
先輩は首を振る。
「大丈夫だって言ってるだろ。気にすんな」
そう言って行きかけて、また先輩は振り返った。
「俺がどうしてたとか、誰にも言うんじゃないよ」
そして今度こそ先輩は行ってしまった。遠ざかる先輩の背中は、思っていたよりずっと細かった。わたしは不意に怖くなり、腕の中の楽器を抱きしめた。
楽譜を拾い集めて音楽室に戻ると、もうチューニングが始まっていた。指揮台に立ってスコアに目を落とす阿部先輩の姿は、全然普段と変わらない。わたしはひとりぞっとした。わたし以外には誰も、合奏が中断された本当の理由を知っている人はいないんだ。阿部先輩に何が起こってるのかはわからないけど、でも先輩は絶対に、わたしたちに何か隠してる……!
夏休みに入った翌日から、わたしたちは合宿に向かった。海の近くの小さな施設で、二泊三日。コンクールまでは、もう二週間を切っている。お昼過ぎに施設に着くと、すぐに練習が始まった。去年も来たからわかっているけど、合宿の間は二十四時間部活のようなものだ。ご飯のときと寝る時間の他は、ほとんど休みなんかない。
四時間ぶっ続けで練習して、やっと夕ご飯の時間になった。練習場所のホールを出ると、どこからか流れてくる美味しそうな香りが空っぽの胃をくすぐった。
「席順は、パートごとでお願いします!」
部長が言っているのを聞いてどきっとした。パートごとってことは……阿部先輩と一緒だ。
食堂に入ると、もう阿部先輩は席についていた。自然な仕草で手招きされ、引き寄せられるように隣の椅子に座る。
「腹減ったか?」
「はい! うふふ、エビフライがある」
「いっぱい食べろ。夜もみっちり練習だからな」
エビフライと竜田揚げとほかほかのご飯が、食べられるのを待ってる。もう何も考えられない。
「……みんなでここにいられることに感謝して、いただきます!」
「いただきます!」
高橋部長の号令で、みんな一斉に箸を持つ。わたしは真っ先にエビフライを口に突っ込んだ。
「んーっ、美味しい!」
「お前な、野菜から食べないと太るぞ?」
阿部先輩が隣でくすくす笑っている。今気づいたけど、先輩がすごく近い。それもそうか、あんまり広くないこの食堂に、部員三十人と顧問の先生方が詰め込まれてるんだから。でも、深い意味はないとわかっていても、やっぱり先輩の間近な気配に頬が熱くなる。サラダから食べればよかったな。
阿部先輩はミニトマトのへたを引っ張りながら言った。
「ソロ、どうだ?」
「周りを聴くように努力してます。何か変われてますか、わたしの演奏?」
「うん、すごく質量感が出てきたと思うよ。お前にソロを与えた俺の判断は正解だった」
先輩の目はずっとトマトに注がれてたけど、その言葉は何よりも真っ直ぐわたしに届いた。
「ありがとうございます!」
嬉しい。こんな近くで言われると、尚更。こんなことをわたしなんかに言ってくれるなんて、先輩の心はなんて広いんだろう。もしわたしだったら、三か月近くの冷却期間があったにしろ、いきなり告ってきたやばい奴となんて話すことさえできないかもしれない。
少し黙ってトマトを噛んだ後、先輩は突然言った。
「なあ渡辺。お前最近どうしたんだ?」
わたしはお味噌汁を吹きそうになった。
「はい!? どうもしませんけど?」
「やっぱまだ怒ってる? 俺がホルンやめたこと」
「え? 怒る? わたしが?」
青天の霹靂、ってやつ。どういうことかさっぱりわからない。
「だって、ここ何カ月か、お前俺を避けてただろ」
「それはだって、先輩がわたしのこと嫌いだから、嫌いな奴に話しかけられちゃ気分悪いだろうと思って」
今度は先輩が盛大にむせた。
「は? 俺がお前を嫌い? んなわけあるはずないだろ」
「そうだったんですか?」
「そうだよ。そもそも何でお前は俺に嫌われてると思ったんだ?」
「わたしが告った直後に、先輩がホルンやめたじゃないですか。だから、先輩は同じ楽器の奏者であることにすら耐えられないほどわたしを嫌いなんだと思いました。違ったんですか?」
先輩は天井を仰いだ。
「ちょっと待ってくれ。俺はお前に告られた覚えはない」
「ええっ!?」
もう何が何だかわからない。だってわたしははっきり覚えている。ごめん、って先輩が言ったのを。なのに……どういうこと?
「いつのことだよ、それ」
「五月の初めくらいです。部活の後、駅前のつつじの植え込みの前で」
「ああ、何か話しかけられたことがあったな」
「聞いてなかったんですか!?」
「聞こえてなかった、の方が正しい。でもそれは本当に俺のせいだ。すまない。申し訳ない。ああ、泣くな。エビフライあげるから」
視界がにじみ、先輩がわたしのお皿にのせたエビフライがコロッケくらいの幅に見えた。でも口に入れたそれは、やっぱりエビフライの大きさだ。先輩のエビフライをただの赤い尻尾にしてしまってから、わたしは言った。
「じゃあなんで、ホルンやめたんですか? 先輩のお手本聴きたいって、もうわたし何百万回も思いました。……ううん、わたしのお手本じゃなくて、先輩がソロやればよかったじゃないですか!」
エビフライのご恩のために、何とか涙はこらえた。でも声が震えるのは抑えられない。先輩は悲しそうに首を振り、ごめんな、と言った。
「吹けたら、って俺も何百万回も思った。でもそれはできないんだ。……今日の夜、時間あるか?」
頷くと、先輩は言った。
「じゃあ、夜練の後楽器を片付けたら、ホールの外のベンチに来てくれ。もうお前には隠せない。理由を話す」
俯いて、何回も頷いた。先輩の指が、頬を滑るひとしずくを優しくすくい取った。




