2.揺らめく影
それから一週間と経たずコンクール曲の譜面が配られた。歌劇「ばらの騎士」組曲。三年の先輩のひとりが強烈に推して決まったらしい。ぱらっと楽譜をめくり、目に飛び込んできた文字に愕然とする。
「solo……!?」
「渡辺。頑張れ」
背後から聞こえてきたあの声に、ひっと体が固くなる。振り向けばやっぱり阿部先輩だ。
「俺がこれにさせたんだよ。ほとんど無理矢理にね」
「でも、ホルンソロが……」
「だからだよ。お前の演奏に期待している。ほら、吹いてごらん」
先輩に促されるまま、震える唇をマウスピースに押し当てる。冷やりと硬い感触が、わたしの感情を呼びさます。
どうして期待するの? どうして微笑みかけるの? わたしのこと嫌いなんでしょ、だったらそんなことしないでよ……!
たいして難しくない音も外しまくるわたしに、先輩は言った。
「どうか生かしてくれ。お願いな」
生かす? それってどういう意味? 聞き返そうと思ったときには、もう先輩はいなかった。
七月に入ると、本格的にコンクールの練習が始まった。顧問の先生は阿部先輩に指揮を許したものの、やっぱり心配なようで、頻繁に合奏を覗きに来ている。
「阿部、大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
「そうか」
先生がいなくなると、また先輩は指揮棒を上げた。わたしはたっぷり息を入れて、唇を震わせる。先輩がずっと指揮をするようになって、演奏はもちろん難しくなった。隣に先輩がいてくれれば、ともう何度願ったことだろう。
でも、前に立つ先輩を誰からも変に思われず見つめられることは、すごく楽。普段は、見ちゃいけない、想っちゃいけない、と無理に目を背けるしかないから。自分の目の自然な動きを許せるのは、合奏の時間だけだ。全身で音楽を表現する先輩は、ホルンを吹いているときと同じくらいかっこいい。
そして気づいたのは、先輩はホルン以外の楽器にもすごく詳しいってこと。今も、曲のテンポが上がるところで先輩はぴたりと手を止めた。演奏が止むのと同時に、先輩は指揮棒をすっとひとりの一年生に差し向ける。
「三番クラリネット。遅れんな」
先輩はもう一度同じところを振った。そして、また同じところで止めた。
「三番クラリネット、さっきから発音が遅い。ちょっと来い。みんなは個人練してて」
その一年生を引き連れ、先輩は音楽室を出て行く。クラリネットのパートリーダーの先輩が、少し迷って後を追いかけた。
五分ほど経って戻ってきた一年生は、驚くほど輝いた顔をしていた。
「リードの位置をほんのちょっと直すだけであんなに良くなるなんて」
パートリーダーの先輩が興奮ぎみに言っているのが聞こえる。確かに、リードのつけ方はクラリネットにとってすごく重要だ。中学で三年間やってきたわたしには、もちろんわかる。でも、阿部先輩にクラリネットの経験があるなんて話は聞いたことがない。なんで知っているんだろう。やっぱり阿部先輩はすごい……。
その阿部先輩は、クラリネットの子より少し遅れて戻ってきた。大きく肩を揺らして深呼吸し、指揮棒を握る。
「ごめんみんな、お待たせ!」
指揮台に立った先輩の顔色は、少しいつもより白く見えた。光の加減? いや、でも……。微かな胸騒ぎを覚えながら、わたしはまた楽器を構えた。
合奏が終わった直後、予定があったわたしは普段より早く部室に入った。今みんなは合奏の復習中で、部室で帰り支度してる人なんかいないはずだ。わたしは油断しきって、ずかずか歩いていった。
部屋の奥の方で何かが動く気配がしたとき、わたしは思わず叫びそうになった。電気のスイッチが別のところにあるためにみんな面倒くさがって暗いままになっている部室が、前からわたしは少し怖かった。誰? 泥棒? それとも、お化け……?
逃げ出したい。でも、楽器ケースをとらないと帰れない。電車の時間が迫っている。わたしは意を決し、楽器ケースがある物音のする方へと足を向けた。
だんだん目が慣れてくる。大丈夫、お化けじゃなくて人だ。そう思うとほっとして、わたしはその人に歩み寄った。その人は壁に手をついて、こちらに背を向けて立っている。壁ドンしてる? と思いかけたが、その人以外には誰もいないようだ。
背が高いから、女の人じゃない。でもこの部に男の人なんてそんなにいないはず。誰なんだろう、と考えたとき、わたしははっとした。そうだあの人だ、あの人しかいない。どうしよう、気づかないふりをしようか? でも、お目当ての楽器ケースは彼のすぐ近くにあって、スルーするには不自然すぎる。本当に、どうしよう?
迷いに迷って、結局声をかけた。
「阿部先輩」
わたしの声は、思いの外大きく反響した。
「……ああ、渡辺。どうした?」
やっぱり阿部先輩だ。先輩は振り返り、壁にもたれてこちらを向いた。ふわりと微笑みかけられ、息がくっと詰まる。だめ……わたしまだ、好き。
「どうもしませんけど……先輩こそ、何してるんですか?」
普段と変わらない声を頑張って出した。先輩は少しの間の後、ため息とも声ともつかない音を発した。
「俺? 俺は……」
あれ、珍しい。いつもの先輩は、わたしが何か言うとすぐに的確で正確な答えを返してくれるのに。静かな部室に、先輩の息遣いだけが響く。そういえば、何でこんなにはあはあしてるんだろう?
「先輩、猛烈ダッシュでもしたんですか?」
「え? ……しないよ、そんなこと」
「そうですよね……」
だめだ、会話が続かない。きっと先輩だって、わたしなんかが話しかけたことを迷惑に思ってるんだ。電車が行っちゃう、と自分に言い訳して、わたしは一気に言う。
「お疲れさまでしたっ!」
楽器ケースをひっつかみ、逃げる。振り返りさえしなかった。
コンクール練は日に日に厳しくなってくる。今日の合奏ではついに、あのホルンソロのところで捕まってしまった。
「ホルン。もっと周りを聴け。そして包め」
合奏中、先輩は決して個人名を呼ばない。だからわたしは渡辺じゃなく、ホルン。高一だった頃、先輩はその訳を教えてくれた。「演奏中は、奏者が誰かなんて関係ない。そこに楽譜と楽器があり、何者かがそこから音楽を作っているというだけのことなんだ」あの頃はまだ、先輩はホルンを吹いていた。わたしと先輩の間も、今みたいに変になってはいなかった。
「はい」
わたしは返事をして楽器を構え直し、指揮棒を指しつけている先輩を真っ直ぐに見た。
「もう一度、52番から」
周りを聴き、包む。言われたことは覚えているけど、音にできない。また指揮棒が止まる。
「ホルン。要練習な」
「……はい」
わからない。包むって、どういうことなのか。どうしたら、包めるのか。わからない……。
合奏が一時間ほど続いたところで、阿部先輩は突然指揮棒を置いた。二十九対の目が、訳もわからず先輩を見つめる。
「ごめん。これから三十分、個人練にする」
言い終えるが早いか、先輩はすたすたと音楽室を出て行った。
最近ではみんな阿部先輩を信頼しているから、いきなり合奏が途切れても非難の声は上がらない。すぐに音楽室はいろんな楽器の音で満たされた。
そんな中、わたしは一人迷っていた。ホルンソロを、教えてもらいに行くかどうか。昔だったら、何の躊躇もなく行っていたと思う。でも今は、告白してからもう二ヶ月近くも、先輩とまともに喋っていない。わたしに近づかれたら嫌かな、とか、キモいって思われてるかな、とか考えると、話しかけられないんだ。
でもでも、これは本当にどう吹けばいいのかわからない。もう音も外さなくなったし、リズムだって合ってる。なのに要練習って言われても……何をどうすればいいのやら。
聞きに行こう。楽器と楽譜を持っていれば、わたしは渡辺香織じゃなくて「ホルン」。そう、ただのホルンなんだから。
意を決して音楽室を出る。先輩、どこに行ったんだろう。先輩が出て行ったこのドアは、部室には繋がっていない。この廊下を直進すると一年生の教室があるけど、先輩がそんなところに行くとは思えない。困っちゃったな。ぼんやりしてたら、三十分が終わっちゃう。
その時、わたしの耳に何かが聞こえた。
「っはぁ、ぅく……」
右の方からだ。見ると、倉庫に繋がるいつもは滅多に使わない階段があった。
「ぅ、かはっ……」
この声……阿部先輩!?




