1.すべての始まり
「俺、これから指揮しかしないから」
「はあ? 何言ってんのよ!」
先輩方が言い争っているのを見たのは、わたしが先輩に振られた二日後のことだった。
ものすごく楽器が上手くて、音楽のことなら何でも知っている阿部先輩のこと、わたしはずっと好きだった。入部したての高一の時から、ずっと。
わたしは中学でも吹奏楽をやっていて、クラリネットを吹いていた。でも、オーディションに落ちてしまい、クラパートに入れなかった。泣きそうだったわたしの肩を、阿部先輩が叩いてくれたんだ。
「渡辺、だったよな? お前、ホルンに来い」
そう先輩は命令し、わたしが返事する間もなくホルンのケースを手渡した。
「俺は二年の阿部。よろしく」
そして、訳もわからないままホルンパートに入れられてしまったのだ。ホルンパートに他の先輩はいなかったから、阿部先輩とわたしは毎日ふたりきりで練習した。最初は反発もないわけじゃなかった。だって、あんなに強引に引き込まれたから。でも、気づけば好きになっていた。
先輩は抜けるように色の白い人で、背もすらりと高かった。先輩の細く長い指は、眩く光る金色の楽器によく映えた。見た目だけじゃない。先輩はほんとに上手かった。小さいころはアメリカにいて、そこで習ってたんだとか。先輩は生徒指揮もしていて、先輩が振る曲はホルンがわたしだけになった。でも、そんな曲は特に、先輩は丁寧に教えてくれた。
「ほらここ、スタッカートだろ? スタッカートの意味は、ただ短く切れってことだけじゃない。この音を大事にしなさいってことでもあるんだ」
「ここはピアノ。ここもピアノ。でも、同じように吹いたらいけないんだ。こっちのピアノは、女性的に繊細に。こっちのピアノは、燃え盛る情熱を押しとどめるように」
解説の後、先輩は自分で吹いて聴かせてくれた。先輩の楽器からは、本当にひとつの楽器だろうかと疑いたくなるほどいろんな質感の音が出た。長い睫毛を伏せ、愛おしそうに楽器を奏でているときの先輩が、わたしは特別好きだった。
先輩の姿を見つけるだけで胸が高鳴るようになったのは、まだ鯉のぼりも揚がらない時期だったと思う。
そして一年以上の片想いを経て高二となったわたしは、つい一昨日、満開のつつじの前で先輩に告白したのだ。帰り道、前を歩いていた先輩を呼び止めて。でも、先輩の返事はつれなかった。
「あ、……ごめん」
いつになく真っ白な顔をしてそう言った先輩は、足早に立ち去ってしまった。翌日、つまり昨日、先輩は部活に来なかった。ひとりぼっちでホルンを吹きながら、わたしは死ぬほど後悔した。なんで好きですなんて言ったんだろう、ただ先輩の近くにいられるだけでよかったのに……、って。
今日、先輩の席にかばんがあるのを発見して、本当にほっとした。でも、どんな顔をして会おうかと考えていた矢先、阿部先輩と部長の高橋先輩がやり合っているのを見てしまったのだ。いつも冷静な高橋先輩が、今は取り乱したようにまくし立てている。
「どういうつもり? ホルンはどうなるの? 他の生徒指揮には、何て説明するの?」
「生徒指揮には俺から頼む。とにかく、俺はもうホルンは吹かない」
阿部先輩は静かに言った。もうホルンは吹かない? 何それ、どういうこと?
「何言ってるの、まだコンクールも文化祭もあるんだよ?」
「悪い。でももう吹けないんだ。もし許されないなら、俺は退部する。これは脅しでも何でもない」
たいぶ……? 世界がさあっと遠ざかる。なんで、なんで? これも、わたしのせい?
呆然としながら楽器を取りだし、ロングトーンを始める。でも、どうしても楽器の鳴りが悪い。きっと先輩は、わたしの隣にいたくないんだ。同じ楽器を吹くことさえ、耐えられないんだ。それほどわたしが嫌なんだ……。
いつの間にか、涙が頬を伝っていた。あとからあとからこぼれ出す涙はとどまるところを知らず、ついに音も出せなくなった。楽器に顔をうずめ、気づかれないように嗚咽をこらえる。
「どうした」
その時、誰かの手が肩に置かれた。顔を上げたわたしは、一瞬涙まで凍った。
「阿部、先輩……」
ごめん、と言われたあの声が脳裏に反響する。温かい先輩の手の感触が、わたしをゆっくりしめつけていく。
「泣いてるのか? 何があった、言ってごらん」
言ってごらん、じゃないですよ……! 一旦おさまりかけた涙が、また勢いよく噴き出した。
「先輩、もうホルン吹かない、って……許されないなら、退部するって……う、ひぐっ……」
わたしは両手で顔を覆った。聞かれてたのか、と先輩が呟いている。
「わたしのせいでしょう、わたしがあんなこと言ったから……ごめんなさい、忘れてください……わたしは先輩と演奏できればそれ以上何も望みませんっ」
先輩は優しくわたしの背をさすった。その温もりに、またしても涙がこぼれる。
「落ち着け、とりあえず落ち着けって」
そう繰り返し言ってくれる。ゆっくり涙が引いていき、わたしはぐしゃぐしゃになった顔で先輩を見た。
「大丈夫か?」
頷くと、先輩は静かな声で語りだした。
「すまない。でも本当に俺は、今後一切ホルンに触れない。これは動かせない事実だ。ごめんな」
「どうして……」
「今は言えない。きっといつか、お前にもわかる」
先輩はそう言って、すっと離れていった。
理由は、言えない? いつかお前にもわかる?
やっぱりわたしが嫌いなんだ。いつかわかるっていうのは、将来わたしが好きでもない人から告白されたとき、どんなにそれが気持ち悪いことか理解するだろうってことなんだ。もう本当に、なんで告ったりなんかしたんだろう。わたしの馬鹿、わたしの馬鹿……!
帰りのミーティングで、先輩は部員全員の前でホルンをやめることを発表した。もちろんみんなざわめく。コンクールでも阿部先輩が指揮をすると言うと、ざわめきは非難の声に変わる。
「いくら阿部でも……」
「阿部ちゃん何考えてるの?」
「それで銅賞だったらどうしよう、ってんだよなあ」
声を上げたのは三年の先輩がほとんどだけど、同級生や後輩たちにも不満げな子がたくさん見える。例年、コンクールは生徒ではなく先生が指揮していたから、みんな不安なんだろう。わたし自身だって、正直そうだ。ホルンの後輩は入ってこなかったから、本当に先輩が吹かないのならコンクールのホルンはわたしひとりになる。それを思うと、尚更だ。
しかし、何を言われても先輩は、ごめんと繰り返すばかりで何も明かさなかった。