ななせさまと七不思議 上
季節は夏。
木村一は首筋に汗を浮かべながら山道を一生懸命に走っている。
彼の汗は暑さと運動だけによるものではない。いわゆるいじめというものの標的になり、今までおとなしく従っていたが、とうとうささやかながら反抗を試みた、そんな最中であったのだから。
「くっそ、なんで僕が、こんな目に……!」
一は凡庸な名前で見た目も地味。ビン底と馬鹿にされる丸メガネにちゃんと切りそろえた髪、第一ボタンまできっちり留め、ズボンに裾をしっかり入れているワイシャツ、それが一という男の構成要素。つまりお手本のようにつまらない真面目な男だった。
それが、社会に逆らってみたい年頃の男の子たちにどうも癪にさわったらしい。中学校入学当初に些細なことから目をつけられ、すっかりカモにされてしまっていた。
だが、今日という今日は無理だ。普段の彼らは大体が折に触れて小突いてくる、悪くてものをぶつけられたり蹴られたりするようなところだったが、さっきは金をゆすられたのだ。
彼のお小遣いは月に千円ほど。それをなんとか趣味のためにやりくりしている。いきなり三万円もってこいと言われても、できるはずがない。悪ガキたちはでは親の通帳を、とほのめかしたが、あいにく堕ちてやる義理なぞない。第一そこまでやったらさすがに保護者にばれて向こうもただでは済まないだろうに、奴らは馬鹿なんだろうか。馬鹿なんだろうな。そんな奴らに目をつけられて平凡な生活を侵略されかけている自分も偉そうなことは全く言えない。一の思考は冷たい結論を出す。
「畜生がっ!」
小声で悪態をつきながら、夕方の山道を駆け上る。見た目こそがり勉といった感じだが、こう見えて小学校ではずっとバスケをやっていたのだ。特にうまいわけではなかったが、体を動かすのは別に嫌いではない。だから追いかけてくる不良たちは、予想外の抵抗に戸惑っているらしい。
「あいつどこ行った?」
「探せ探せ!」
「くっそつっかえねえ……おい、逃げてんじゃねーぞビン底眼鏡!」
「俺たち友達じゃーん、ぎゃははははは!」
(しつこいな、いい加減にしてくれよ!)
一は心中で舌打ちする。だいぶ息が上がって余裕がないのと、追跡の声が結構近かったので刺激したくなかったのだ。山道に入って姿が見えなくなったら諦めてくれないかと思ったのに、三人とも執拗に追ってくる。こうなると人気のない方に逃げたのは間違いだったと思うが、あの時囲まれていた状況的にこっちにしか来られなかったのだ。ここまで逃げてこられただけでも結構頑張ったと思う。
と、自分を奮い立たせているつもりである。
不意に木々がいきなりなくなって、開けた場所に出た。一は思わず立ち尽くし、出現した建物に目を見張る。
門には未だその名が残っていた。
七星小学校。
これがあの旧校舎か、と一は思い至った。このあたりの人間なら皆知っている、いわくつきの有名な廃墟。一はそういうものに進んで近づきたがる趣味はないので、実際目にするのはこれが初めてになるわけだが。
時間がちょうど逢魔が時である上に、蔦に彩られ錆に浸食され、どう見てもお化け屋敷だ。頻繁に変な噂が立つのも仕方ない――。
「いたぞ!」
その止まっていた時間がいけなかったのか、背後から鋭い声が上がった。一の肩が跳ね上がり、心臓がどくどくとせわしなく仕事を始める。あっちもあっちで疲れているだろうが、思わぬ抵抗を受けて頭に血が上っている。その状態でとうとう見つかってしまったらしい。追い付かれたらただでは済まないだろう。
(どうする……)
一は目の前の廃墟を見て迷う。彼は自分が見た目通り真面目な凡人であると自覚している。お化け屋敷に入れないほどではないが、気分でない時に好んで入りたがるほどではない。
フラフラと、足は閉ざされた校門に近づく。開くのだろうか? やろうと思えば乗り越えられるだろうが、それであの校舎に逃げ込んだとして、今より状況がマシになるのか。あの不気味な所に逃げ込むのと、このまま追い付かれてリンチされるの、どっちのほうが――。
そんな風に、一瞬だけ思考に気を回し、目を閉じた隙に。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
それは、出現した。
先ほど不良に声をかけられたとき以上に心臓が止まるかと思った。驚きすぎると声が出ない。今それを経験していた。
それは校門の内側に、彼が目を離した瞬間出現した。本当に、出現したとしか言えない。小首をかしげて微笑む少女は、肩までのおかっぱを揺らしている。服は白いブラウスとひざ丈の赤いスカート。見事なまでの左右対称な顔は市松人形を彷彿とさせた。
瞳はどこまでも黒い。吸い込まれそうなほどに。
「困ってるの?」
「き、君……」
一はようやく何か言おうとしたが、いよいよ追手が迫ってきた。
「木村ぁ、手間かけさせてんじゃねーぞ!」
ひっ、と思わず呼びかけらえれた方の肩が跳ねる。あのドスを利かせた声はリーダー格の広瀬だ。振り返って確認したくない。一にはさっぱり理解できない突っ張った髪が、今まさに怒髪天をついていることだろう。
少女にも彼ら不良たちの姿が見えたらしい。途端に、ニコニコとしていた愛らしい顔がすっと引っ込んだ。横顔を見る一の腕にざっと鳥肌が立つ。不機嫌になった瞬間、少女の印象は変わる。何か得体のしれない、触ってはいけないものに。黒かった瞳が、ほんのり赤く染まった幻覚を見た。
「ななせ、下品な人、暴力振るう人、嫌い」
甘えるようだった声が一気に冷めて無機質になる。
「お兄ちゃん、あの人達の仲間?」
冷たい瞳のまま睨みつけられそうになって一は慌てて弁明した。見ず知らずの年下の子に、である。
「ちっ、違うよ、僕はあいつらに、追われて」
少女はしどろもどろながら懸命に一が言うのを聞くと、ぱっと花が咲いたように無邪気な笑顔になった。
「じゃあ、ななせと遊びますか? そうしましょうよ」
その顔に、本能的な嫌悪感、違和感を感じなかったわけではない。
一にまともな思考をする状態と時間が許されていたのなら、瞬間移動のように現れた怪しげな彼女にそのまま頷いてついて行くような馬鹿な真似はまず取らなかっただろう。何が「じゃあ」なんだよ、ぐらいの突っ込みはいれた。だが、彼は酸欠だったし追われて焦っていた。
するすると重たそうな錆び付いた校門が音もなく開く。一の手を少女がつかんだ。
「おいでよ、お兄ちゃん。ななせ、独りで寂しかったんだから」
いざなわれるまま、彼は旧校舎へと歩を進める。
まるで、吸い込まれるようにして。
「なんだあいつ、校舎に……」
「う、うわあああああ!?」
背後から追ってくる音が聞こえたが、それはすぐに野太い悲鳴に変わった。同時に少女に手を引かれている彼も叫びそうになった。
少女は門から広い校庭の真ん中を突っ切り、一を校舎へと連れて行こうとしているらしい。
その、彼らの周辺。
校庭に、下から盛り上がるようにして何かが生えてきている。それが何かわかって一は血の気が引くのを感じている。
墓石だ。
夥しい数の墓石が校庭の砂の中から現れ、見回せば辺り一面墓になっていた。少し遅れて卒塔婆だのなんだのも砂の中から出てきてはセッティングされる。墓は朽ちているものもあれば新しいものもある。ガタガタ揺れているのは風のせいではないだろう。おまけにそこかしこで浮き上がってきて飛んでいるあれはなんだ、人魂とでも言うのか。
だが不思議な事に少女が校舎に向かって進んでいく、その一本道だけはどの墓も謎の動く光たちも邪魔をしようとしない。海を渡るために道を作った。そんな聖人の偉業を無性に思いだす。だが彼女が割っているのは墓の群れなのだ。背筋がぞわぞわ粟立つ。
「校庭の、墓――」
一の口から無意識に唱えられたそれの名前に、振り返った少女がくすりと笑う。
「大丈夫ですよ。ななせが一緒にいますから。ぼーちゃんはね、通るだけなら怒りません。うるさくしなければ平気よ」
黒い髪がゆらゆらと走るたびに揺れる。邪気のない人形のような笑みを前に、一は迷う。
この手を振りはらって逃げるべきか?
(でもこいつは今、自分が一緒にいるから大丈夫なんだと言った)
このまま少女についていくべきか?
(この得体のしれない奴に。どう考えても普通じゃない奴に)
前門の虎、後門の狼とはこのことかもしれない。後ろに目だけ戻すと、叫び声を上げながら、なんと墓の中に追手達も足を踏み入れているではないか!
(これ見ても帰ってくれないのかよ!?)
一はうげっと顔をしかめ、思い直す。
(――いや、そうか。僕と同じくパニックになってるのかもしれない)
どっちにしろ、ここで手を振りはらうのは最悪だ。もうどんどん日が暮れている。徐々に、でも確実に空は赤から紫、黒へと変わっていく。その時間帯にこの墓の中であいつらと追いかけっこ? 冗談じゃない。
(それに)
一は少女に視線を戻す。彼は得体が知れないと言ったが、少女に心当たりがないわけではない。
ななせ、と彼女は繰り返し自分のことを言う。それにその姿は、設定集に書いてあったものと酷似していた。絵の上手い誰かが書いた落書きにそっくりな服。
(だけど、七不思議なんて存在しないはず。少なくとも、七番目は絶対に実在しない。七番目なんかもともとなかった。だから皆で作ったんだ)
彼は知っている。
七星小学校七不思議。
鉛筆でノートに書いた幻の怪談。一度だけ見せてもらったのだ。あの陳腐な怪談書を。
瞬きを繰り返しても少女も墓地も消えない。校舎はどんどん近付く。
(今、僕が見ているものはなんだ? これは悪い夢なのか?)
だったら早く醒めてくれ。できるだけ、早く。
一の懸命な祈りも届かず、彼は校庭に出現した墓の中を通り抜け――いつの間にか下駄箱の前で一人ぽつんと立ち尽くしていたのだった。




