8.怖そうなお兄さんたちに絡まれてしまうお話
『悪事千里を走る』とはこういうのを言うのだろうか。教室という公衆の場で女の子とキスしてしまった事件は瞬く間に全校に知れ渡った。これが悪事にあたるかはわからないし、故意でやったわけでもなくいわば不可抗力だ。もし、これが悪事になるとしたらその罪は彼女の方にあって僕には罪は無い。断固として無罪を主張する。
あの後の事はよく覚えていない。頭が呆けてしまって周りが騒がしかったことしか記憶にないのだ。我に返った時にはすでに自宅に帰っていた。頭が覚めて記憶が呼び起こされてあの時の状景が蘇ると僕は顔が真っ赤になってしまった。
「お、女の子とキスしちゃった……」
自分には未来永劫無いであろうと悟りに似た境地に達していた。人差し指で唇に触れてみる。まだ感触が残っている感じだ。
「でも、どうして……」
彼女も僕には冷たかった。きつくあたるようなことは少なかったが、僕を露骨に嫌っていて避けていたのはよくわかった。それが自分からあんなことをしてくるなんて。
「男よりも女に興味があったのか」
しかし、だとしたら元が男でいまでも精神的には男のままの僕に興味を示すとは考えにくい。
「いまの僕の姿形が自分の好みにドンピシャリだった?」
だとしたら、キスだけでは済まなくなるかも。僕は彼女と裸で絡む光景を妄想した。いかん、鼻血が出てしまった。彼女との絡みを妄想するのはこれが初めてではない。隠し撮りした彼女の入浴画像をオカズに何度か絡みを妄想したことはあった。それが現実になろうとしているかもしれないのだ。
「でも、初めて彼女ができたんだし細かい事は気にしないでおこう」
二次元の女の子からしか告白された事のない僕にもついにリアルな彼女ができた。由緒ある家に生まれながらなぜか自分だけリア充ではなかったこれまでの人生が嘘のようだ。まさかの人生逆転満塁ホームランに体の震えが止まらない。
「やったあ」
僕は喜びを全身で表した。余計なことを考えないようにするため自分に暗示をかけたりもする。
「余計なことは考えるな。いまの状況を受け入れろ。それが僕にとっての幸せになる」
ブツブツとテスト前に重要な単語を暗記するかのように呟いて頭に叩きいれる。しかし、いくら呟いても否定的な考えが押し寄せてきて僕の思考を押し流そうとしてくる。
:僕にも彼女ができた、嬉しい
:本当にそう思う?
:当然だろ。僕だって年頃だ。彼女ぐらい欲しい
:でも、君も彼女になるんだぞ
:別にいいだろ、僕の彼女であることには変わりないんだから
:女の子を抱くのが願望だったんじゃないのか?
:そうだよ
:でも、今日の状況からして君は抱かれる方になると思う
:うっ…
:これからも君は女の子を抱くことはないだろう。むしろ男に抱かれまくることになる
:や、やめてぇっ
悍ましい想像を振り払おうと僕は頭をブンブンと横に振った。いくら異性に縁遠かったからとはいえ同性に走ることは男のプライドが許さない。それに、なにも女の子を抱く機会が無いわけじゃない。チャンスさえあればいくらでも女の子を抱くことぐらいできるはずさ。
:果たしてそうかな?
:な、なんだよ。違うって言うのか?
:君に積極的に女の子を抱きに行く度胸があるとは思えないな。だって、いつも絡んでいるシーンを妄想するだけじゃないか。そこまでにいく過程をシミュレーションしたことあったか?他の男子はいかにして彼女をつくるかに始まって、そうしてできた彼女と添い遂げるためにデートを企画してムードを盛り上げる算段をつけて事前に実践シミュレーションを繰り返したりするんだろ。でも、君は一切そういうことをしてこなかった。どうせどんなに足掻いても自分に彼女ができるなんて天地がひっくり返ったとしても有り得ないと諦めていたから。そんな君が彼女に何もできず逆に抱かれるしかなくなるなんて誰だって想像はつくよ
:じゃ、僕はどうしたらいいんだよ
:いまの現実を受け入れることさ。少なくとも女の子と絡むことはできそうだからね
:でも、僕だって女の子を抱きたい…
:それができるかどうかは君が一番わかっているはずだ
どうして自分に対してこうも否定的になれるんだろう。でも、もう一人の思考のみの僕の言っている事は間違っていない。僕には自分から女の子を抱きに行くという積極さはない。ついこないだまでそんな機会なんて絶対にないと思っていたから、いきなり女の子を抱けるかもしれないと言われてもどうしていいかわからない。だから、彼女のリードに任せるしかないのか。
「それもしょうがないか」
いままでできないと諦めていた彼女ができたんだ。これ以上の贅沢は図々しいというものだ。とは言うもののどこか納得できない。どうしても素直にすべてを受け入れる気持ちになれないのだ。やはり、男の性がまだ残っているからだろうか。
「こんなことになるんだったら責められパターンも妄想すりゃよかった」
クラスの女子をオカズにする時は日常の鬱憤を晴らすためかいつも僕が主導権を握って女の子と絡んでいた。女子の方から積極的にという妄想はしたことがなかった。少しでもやってたらまだ受け入れる余地はあったのに。
「いまからでもやってみるか」
肉食な女子に襲われて食われていく己を妄想する。でも、僕は別に草食じゃないからなぁ。どうしたものかと悩んでいると不意に声がしたのでビクゥッとなった。
「な、なんだよ」
起き上がって見てみると一緒に風呂に入った子供が上がり込んでいた。
「他人の家に上がるときは声ぐらいかけろよ」
「かけたよ。でも返事が無いからさ」
考え事に没頭して聞こえなかったのか。
「で、なに?」
回覧板を持ってきたわけではなさそうだ。
「今日も姉ちゃんと一緒にご飯を食べようと思って」
またか。
「今日も親父さん遅いのか?」
「ううん。今日は父ちゃんも一緒だよ」
「……」
どういうわけか、この子供は僕が一緒に食事をするのを断るという想定はしていないようだ。赤の他人が二日続けて一緒に晩ご飯を食うなんてどういう事情からだよ。ずっと、一人だったから誰かと食卓を囲むなんて想像すらしなかった。自分でも周囲と壁をつくってしまっていたらしい僕は食事を誰かに邪魔されたくない気持ちでいた。でも、人との接触が皆無だった悲しさで相手の気分を害さずに断る術を僕は持ち合わせていない。だから、子供がすっかり寛んでいても何も言えない。しかし、このままじゃこの子供はこれからもずっと晩ご飯を食べにくるかもしれない。昨日は他人とご飯を食べる珍しさから僕もそれなりに満喫できたが、毎日も続くとなるとさすがにね。ここで断っておかないと後で禍根を残すことになる。でも、どう切り出す?
「あー、食べに来るって言われてもうちにはお客さんに出せるような料理はないよ。親父さんも来るのにレトルトじゃ悪いだろ」
どうだろう、この断り文句は。
「それなら大丈夫だよ。父ちゃんから晩飯の買い物代もらってるから」
子供は5000円札をヒラヒラと見せた。
「これで買い物行こうよ」
そう来たか。しからばこちらは料理ができないってことで攻め申そう。
「こないだお姉ちゃんがくれた煮物おいしかったよね」
「……」
そうだった。僕だってたまにはレトルトやインスタントじゃないのを食べたくなる。で、煮物を作ったわけよ。我ながらうまくできたものの作りすぎて一人じゃ食べきれないからこの父子におすそ分けしたんだった。僕からの贈り物で受け取ってくれるのはこの父子だけだったからな。そう考えたら一緒に晩御飯を食べるくらいはしてもいいかな。
「じゃ、行こうか。着替えるから外で待ってて」
「うん」
子供を外で待たせて服を着替える。
「どうしてこんなことになったんだろ」
周囲の僕への見方は明らかに変わった。それもおそらくは良い方に。でも、僕としては生活のリズムが狂わされた感じで素直に喜んでいいかわからない。誰からも好かれない見向きもされない哀れな男から見た目麗しい美少女になった。人生が180度変わったと人は言うだろう。確かにそうだ。でも、何かが違う。僕だって皆から嫌われるよりかは好かれたいと思う。でも、こういうのとは違うと思う。いったい、何が違うんだろう。
「きっと環境が変わりすぎたせいでそれで違和感を感じちゃってるんだな」
だから時が経って慣れてきたらこの違和感も薄まることだろう。いくら考えても答えが出てきそうにないのでとりあえずこれで納得することにした。着替え終えて財布を持って外に出る。
「待たせたな」
「ううん、姉ちゃんとお出かけできるならもう少し待っても構わないよ」
そうかい。二人並んでスーパーへと歩く。子供は楽しそうにいろいろと話しかけてくるが僕は適当に相槌を打つことしかできない。世代の違いもあるが僕はほとんどテレビを見ないので近ごろの話題についていけないのだ。だってさ、最近の流行を知ったところでそれをネタに話しできる相手なんていなかったんだからしょうがないじゃないか。でも、これからは流行についてもいろいろ知っとかないとダメだな。……面倒だな。男の時はある意味気楽だったかも。他人も僕を求めない、僕も他人を求めないで割り切れていたからそんなに辛いとは思わなかった。祖父を除いて家族や親類たちからすら愛情を受けた記憶が無い僕に赤の他人が親しく接することなんてありえないと思っていたからだ。
(どうする?このまま現状を受け入れるか?)
それがベストの選択だとは思う。頭では理解しているのにどうしても踏ん切りがつかない。家族、友達、僕が望んでも手に入らなかったもの。いつしか求めることすら諦めてしまったもの。それが思いがけず手に入ろうとしている。何を躊躇することがあろうか。
(わからないな。どうしたらいいか)
僕は考えるのをやめた。どうしても答えにたどり着けないだろうからだ。そうこうしているうちにスーパーマーケットに到着した。
「さて、何にするかな」
できるものは限られる。
「何が食べたい?」
「姉ちゃんが作るものならなんでもいいよ」
そうかい。そうだな、鍋にしようか。肉と野菜と出汁と調味料とポン酢をカートに入れる。後は……
「親父さんにビールを買っていくか」
いや、日本酒がいいかな。
「いらないよ。うちの冷蔵庫にいっぱいあるから」
酒だけは切らさないんだ、と子供は続けた。いらないと言うならいいか。
「もう買うものはないかな」
「姉ちゃん、お菓子買ってよ」
お菓子か。子供だもんな。一個ぐらいならいいだろ。
「一個だけにしとけよ」
「はーい」
子供がお菓子を取ってくる間にレジ待ちの列に並ぶ。やけに混んでいるな。夕食時ではあるが。そうか、今日はポイントが3倍になる日だ。しまったな、ポイントカードを持ってきてないや。貧困生活の我が身にとってポイントは生きる糧の一つともいえる大事なものだ。今から取りに帰るのもアレだし今日は諦めるか。レジ待ちしている間に子供も戻ってきた。ちょっと遅かったな。
「うん、友達に会ったんだ」
友達?ああ、この子たちか。いいよね友達がいてさ。なんか呆けた顔でこっちを見ているが。
「なあ、これがお前が言ってた姉ちゃんか?」
「そうだよ」
「すっげぇ美人じゃないか」
「ああ、うちの姉ちゃんと月とスッポンだ」
「いいよなぁ、こんな姉ちゃんと一緒に風呂に入ったんだろ?」
待て、そんなことを言いふらしたのか。
「うん!」
まったく、余計なことを言いふらすなよ。
「なあ、僕が男だったことなんか言ってないだろうな?」
友達に聞かれないように子供の耳元にそっと尋ねる。
「それは言ってない」
そうか。だったらいいんだ。ようやく順番が来たのでカゴをカートから載せ替える。と、女性の店員がこちらを振り向いた。
「あ」
そしてフリーズした。
「あの……」
「す、すみません」
店員は我に返ると慌てて自分がなすべき仕事に取り掛かった。途中、何度もこちらをチラ見してくる。顔と胸を交互にだ。そして小さく溜息。なんなんだ?勘定を終えてもまだポーっとした顔でこっちを見てる。どうも女受けするみたいだ。この顔と体は。カゴをサッカー台に持って行って袋に詰めていく。
「あれ?」
プリンなんて入れた覚えがないのになんであるんだ?それも3つも。
「それ?デザートだよ」
デザート?3つってことは親父さんの分もあるのか。
「プリンって顔かよ」
僕もついこないだまで他人のことを言えた顔ではなかったが。袋に詰め終えたのでそれを持って店外へ。例の店員はまだこっちをチラ見していた。
(僕が男だったって知ったらどんな顔するかな)
まあ驚くだろうな。いや、信じないかも。クラスの皆だって目の前で僕が女の子になるのを目撃してなかったらとても信じなかっただろう。でも、博士の事を知っている人たちはあの親子みたいに簡単に信じるかもしれない。意外と近所で有名な博士だったみたいだし。その博士はどこに雲隠れしたのだろう。変な連中に狙われているみたいだけど無事でいるかな?ふとそんなことを考えていると横から声をかけられた。
「よお、ここらじゃあ見かけない姉ちゃんだな」
見るからに怖そうなお兄さんが3、4人。
「あの、何か用でしょうか?」
子供を後ろに隠して応対する。
「用が無ければ帰ります」
ここはさっさと退散するのが吉だ。だが、回り込まれてしまった。
「用ならあるぜ。俺たちとちょっと付き合えや」
付き合え?金を寄越せじゃなくて?カツアゲじゃないのか。しかし、付き合えとは……。
「あの僕、男ですよ」
まあ信じないだろうな。
「あん?何わけわかんないこと言ってんだ?」
案の定信じてもらえなかった。どうしよう。逃げる自信ならある。女になった僕は男の時よりも足が速くなっているのだ。しかし、後ろで震えながら僕にしがみついている子供はそうではない。そうだ。
「僕と勝負しませんか?」
「勝負だと?」
「そうです。僕と追いかけっこして僕を捕まえられたらどこにでも付き合いますよ」
「ほう、足に自信があるようだな。だがな、俺らだって足には相当の自信があるんだぜ」
「だったら決まりですね」
このお兄さんたちがどれだけ足自慢かは知らないが、たぶん僕の敵ではないだろう。言ってみればこっちはある意味改造人間だ。僕は子供に荷物を持って先に帰るように言った。
「でも、姉ちゃん……」
「心配いらないよ。必ず帰るから」
そう諭すも子供は納得できないようだ。心配になるのはわかる。本気で心配してくれているようだ。それが妙に嬉しかったりする。
「大丈夫だから、な?」
「…わかったよ」
ようやく納得してくれた。
「話は済んだようだな。じゃあ行こうか。ここらじゃあ追いかけっこには不向きだからな」
確かにここは人が多くて逃げるのにも不向きだ。いい場所があるとお兄さんたちが言うのでついていった。そうして連れてこられた場所は人気のない如何にも不良のたまり場みたいなところだった。なるほど、ここなら動きやすいな。後はお兄さんたちから逃げ切るだけだ。楽勝だな。と思いきや、両腕をお兄さん二人に捕まえられた。
「あの?」
これじゃ走れないじゃないか。
「へっへっへ、誰が追いかけっこなんかするかよ」
「え?」
「わざわざ獲物を逃がす獣がいるかってことだよ」
なっ。
「騙したの?」
「ああ、あそこで無理矢理連れて行こうとして騒がれても困るからな」
なんて計算高いんだ。
「さあて、お待ちかねのお楽しみタイムといこうか」
「こんな上玉なんて久しぶりだぜ」
やめろ、近づくな。僕はどうにかして腕を振りほどこうとするが、ガッシリと捕まえられていて離れない。
「諦めな。ここじゃ誰も助けに来てくれないぜ」
「おめえも楽しめよ。おとなしくしてたら気持ちよくさせてやるからよ」
やだ!男と絡むなんて死んでも嫌だ。
「お前ら、ちゃんと捕まえとけよ」
何する気だ?よせ、顔を近づけるな。
「くっ」
顔を背けて男の口から逃れようとする。
「おい、顔を背けてんじゃねーぞ」
男は僕の顎を掴むと無理矢理前の方へと向けさせた。もう男の口は間近に迫っている。ダメだ、男となんてキスしちゃったら二度と立ち直れない。
「う、う、うあああああああああっ!!」
堪り兼ねた僕は腕が使えないので代わりに足で男を押しのけようとした。それがたまたま男の股間にクリーンヒットしたのだ。
「ぐ、ぐおおおぁぁぁっ!!?」
股間を抑えて悶える男。
「お、おい!?」
ん?僕の腕を掴んでいる男たちがあっちの方に気を取られて力が緩んでいる。いまだっ。僕は男たちの腕を振りほどくと一目散に逃げだした。
「待て、捕まえろ!」
男の指示で男たちが追いかけてきた。でも、いくら足自慢でも僕の足には敵わない。余裕で逃げ切った。
「しかし、危なかったな」
もう少しで取り返しのつかない事になってしまうところだった。男とキスするという変態的な嗜好は持ち合わせていないし向こうもそうだろう。結果的にどちらも救われたのだ。
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夜、僕は子供とその親父さんと鍋をつついていた。僕が怖いお兄さんたちに絡まれたと聞いた親父さんは烈火のごとく怒り狂って“そいつらを見つけ出してぶっ殺してやる”と大層な剣幕だった。なんとか宥めてこうして食卓を囲んでいる次第である。
「しかし、それにしても危ないところだったな」
「すみません、ご心配をおかけして」
「お前さんが謝ることじゃねえよ。とにかく無事でよかった」
「姉ちゃん、俺も本当に心配してたんだよ」
ありがとよ。男たちから逃げ切った後、家に戻ると僕の顔を見るなり抱き着いてきたのだ。心配で心配でしょうがなかったと。それからすぐに親父さんが帰ってきた。子供から電話を受けるとすぐに仕事を放り出して血相を変えて帰ってきた。ここは僕の家だから帰るというのは正確ではないな。
「今回は何事もなかったが、今日みたいなことがあるとお前さん一人をこの家に置いておくのは危険だな」
「え?」
「女の一人暮らしは物騒だってことだよ」
確かにこの家には防犯という概念がない。見るからに金目のものがないのが一発でわかるボロ家だ。
「どうだい、この家を引き払って俺の家で暮らさないか?」
「……」
僕は返事に窮した。前にも同じことを訊かれた。僕を心配して言ってくれているのはわかる。でも、家の中で誰かと一緒に暮らすという環境で良い思い出が祖父以外の事では皆無の僕にとって、誰かと一緒に暮らすということはどうしても警戒心を抱いてしまう。かといって今日みたいなことがあるとこんなボロ家で一人でいるのが怖くなってしまう。
(でも、まさかこんなボロい家に美少女が一人でいるなんて誰も思わないな)
自分で美少女って……。
「あのお気持ちはありがたいのですが……」
「そうかい…でもな何かがあってからじゃ遅いんだぜ」
「そうだよ。俺たちと一緒に暮らそうよ姉ちゃん」
ありがとよ。でも、やはり“うん”とは言えない。親父さんも無理強いはしない方針のようでしつこく勧誘してはこなかった。
二人を帰した後、後片付けをしているとガラスをガリガリしている音がした。猫が帰ってきたのだ。
「お帰り」
猫を中に入れると買っておいた猫缶を開けてやった。僕がこの家を出ないのにはこういう理由があったのだ。
「君がいない間に大変なことになったよ。僕だってわかってくれるかな?」
猫にとってはどうでもいい事なんだろうけど。
「確かにこの家はボロい。でも、僕の家だ」
誰からも傷つけられることのない初めての空間。ここには僕を傷つける者はいない。こんな家にも愛着があるんだ。それを見捨てるなんてできないさ。




