15.なんか不安になってしまうお話
バイト初日からまさかの修羅場で大変だったけどどうにか無事に終えられた。姉妹喧嘩の決着は後日つける事となった。できれば仲良くして欲しいし、さらにできれば僕を巻き込まないでほしい。あと、うら若き乙女が下品な言葉を使わないでほしい。お姉さんが僕にそっと耳打ちしたのだ。
(妹と上の口でキスしたんなら私とは下の口でキスしない?)
あんた、まだ高校生だろ。そこそこの美人さんなんだから彼氏を作ればいいのに。まあ、ともあれこれでようやく着替えられる。この制服を着ている間、ずっと胸に視線が集中してたからな。男から見られるのはわかるが、それよりも女性の方がガン見していたのはなぜだろう。おっぱいなんて見慣れているだろうに。着替え終わると店長が賄いを出してくれた。
「ご苦労様。これ食べてから帰りなさい」
ありがとうございます。元一流ホテルのシェフの料理がタダで食べられるなんて幸せ者だね僕は。食べ終わって店長と彼女のお姉さんに挨拶して店を出る。
「ふうっ美味しかったな」
シフトの時は晩御飯を考える必要は無いようだ。夜風に吹かれながら歩いていると向こうから近所の子供とその親父さんがこちらに手を振りながら歩いてきた。
「姉ちゃーん迎えに来たよっ」
迎えに?僕があの店でバイトしているの知ってたのか?
「近所にえらい別嬪のバイトが働いてる喫茶店があると聞いたからよ。まあ多分あんたじゃないかと思ってさ」
「本当はもっと早く来たかったんだけど父ちゃんが帰るのが遅くてさ」
うちの店で晩飯を食べたかったようだ。あんなおいしい料理を食い損ねるとは同情するね。さっきまで騒がしかったから一人でいたかったが、せっかく迎えに来てくれたんだ。一緒に帰る事にした。子供は僕にすごく懐いていて腰に抱きついてくる。正直、歩きにくいが新鮮な気分だ。こんなにも好意的な接触なんてなかったからね。親父さんの「俺もいいか?」にはジト目で返したが。楽しげに話しかけてくる父子にいつしか僕も会話に入るようになって、驚くべき事に笑い声まで出してしまった。
「あーっ姉ちゃんが笑った」
「おう、やっと笑ってくれたな。あんた、全然笑わないんで笑い方を知らないじゃないかとマジで心配してたんだ」
自分でもビックリだ。以前に笑ったのっていつだろう。そうか、あの時だ。非常に悔しくて、でも笑うしかなかったあの時だ。家族にはペコペコしていた使用人たちも僕にだけは態度が違った。家族への憂さを僕にぶつけていたんだ。心から笑うなんて無いだろうなと思ってたが。
笑えるってことはいまが幸せってことか
幸せか。自分の辞書には生涯掲載されないだろうと思ってた。それは哀れで惨めでちっぽけな存在だった男の時の話だ。いまは眉目秀麗な美少女だ。いつか女子が言っていたように僕は生まれ変わったんだ。いつまでも男を引き摺るのは無意味だ。女の子の自分を受け入れたら今日の騒動も悪くはない。
「どうしたの姉ちゃん?ボーとしちゃって」
ううん、なんでもないよ。この子供もその親父さんも男の時の僕と普通に接してくれていた。女の子になってから手のひらを返してきた人たちとは違う。前にこの親子は僕に一緒に住もうと言ってくれた。あの時はまだ他人と一緒にいるのが不安だったから断った。でも、いまは……。そっと子供の頭をなでる。子供は素直に頭を撫でさせてくれた。僕にもこの子供ぐらいの弟がいたが、同じ様に頭を撫でようとするとすごく怒られた。実の兄弟にすら触れることの許されない生活。当然、家族団欒なんて僕にだけはなかった。心の中ではずっと求めていた家族との絆。しかし、いつしか求めるのも無意味だと思うようになっていた。諦めていたものが手に入ろうとしている?でも、断ったからな。この親子も親切で言ったのを断られたから気を悪くしているはずだ。要領の悪さは女になっても変わらずだな。そうこうしているうちに親子の家の前まで来た。ここでお別れだな。
「せっかくだから家まで送っていくぜ。お前は先に家に帰ってな」
「えーっ、やだよ。俺だって行きたいよ」
「うるせーっ、ガキがこんな夜中に出歩くもんじゃねえっ。大人しく家に入って風呂入って歯磨いてクソして寝ろ」
子供はムーっとふくれて見せるが親父さんには通用しないようだ。ここは諦めて大人しく家に入るしかないだろうなと思ってたら、子供は何かを閃いたようでポンと手を叩いた。
「そうだ、姉ちゃんがうちに泊まりにくればいいんだ」
まるで妙案を思いついたかのようなドヤ顔ぶりの子供。子供ならではの発想だな。でも、そんなの親父さんがダメって言うに……
「おおっ、そいつぁ名案だ。どうでい?」
あれ?う〜ん、急に言われてもなぁ。
「なんだったら、ずっと泊まってくれてもいいんだぜ?」
「えっ?」
思いがけない言葉。もう無いだろうなと思ってた矢先だから反射的に答えてしまった。
「はい、ありがとうございます」
すると、今度はあっちが「えっ?」となった。向こうにしても思いもしなかった返答だったようだ。こないだは頑なに拒んでいたからこうもあっさり応諾するとは思わなかったみたいだ。
「え?姉ちゃん本当にずっと俺ん家に泊まってくれるの?」
ポケーっとしていた子供は我に帰ると目を輝かせた。まあ、いいか。
「うん、そちらさんさえ良かったらね」
「良いに決まってるよ。ね?父ちゃん」
「あたぼうよ。こっちは前からウエルカムだぜ、らっしゃい」
「だったら、いまから荷物を運ぼうよ」
さすがに子供だけあってテンションがマックスになるのが早い。
「今日は遅いし親父さんも疲れてるだろうから後日にしよう。な?」
「えーっ」
子供は不貞腐れるが、いまから荷物を運ぶのはしんどいというのは理解できたようで駄々をこねる事はなかった。
「じゃあ、次の日曜日って事でいいかい?」
「はい、お願いします」
話がまとまってここで解散となった。親父さんは家まで送ると言ったがそんなに遠くないのでやんわりと断った。親父さんも無理強いはしなかった。「気をつけてな」と言って子供と家の中へと入っていった。僕の家ほどではないが、父子の住む家もかなり古いようだ。それにちょっと小さい。二人だけなら大丈夫そうだけど、僕も住むとなったら手狭ではないだろうか。居候なんだから多少の不便は我慢しないと。何だったら押入れや天井裏でもいい。
「引越しか…」
と言っても荷物なんて知れてるから引越し屋を呼ぶまでもない。僕と親父さんで一輪車を二台押して運べば終わりだ。パソコンの秘蔵のデータは子供の目に触れると教育に悪いので削除しておこう。これからは他人と住むんだからいろいろ注意しないとね。いや、一緒に住むとなったら家族同然だ。家族か…。僕は歩きながらこの街に来る前の事を回想した。僕には両親も兄弟姉妹もいたが、家族としての扱いを受けた事は一度たりとてなかった。別に住んでいた爺ちゃんだけが僕を孫として可愛がってくれた。その爺ちゃんが死んで僕の味方は誰一人いなくなったので、僕は家を出たのだ。家族にも使用人にも言っていない。僕がいなくなったと気づいても誰も気にしないだろうし、それどころか邪魔者がいなくなってせいせいしている事だろう。身内にさえそんな扱いだったから、学校で除け者にされててもそんなに苦にはならなかった。でも、他所の家庭で家族団欒を見ていると胸がギュッと痛んだりもする。僕には縁が無いとわかっているつもりでもやっぱり憧れというものがあったのだ。家族というものに。しかし、実の家族からも家族として扱ってもらえなかった僕が赤の他人に家族として受け入れられるはずがないという確信が僕に家族を諦めさせていた。だから、前に一緒に住もうと言われた時は断ったのだ。でも、いまは違う。初めて他人と接して笑えたんだ。あの父子となら本当の家族以上の家族になれるかもしれない。
「ちょっと、話ができすぎな気もするけど…」
なんか幸せというものに縁遠かったためか疑心暗鬼になっている。いまはクラスメートともうまくやれている。僕を必要としてくれている人とも出会えた。そして、ようやく僕にも家族と呼べる存在ができようとしている。確実に良い方向に向かっている。でも…なんだろう。この一抹の不満は…。
予定では衝撃の事実が発覚のはずだったんですが、父子がふらりと出てきてしまったので次回になります。