表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/9

時間尽く

僕は本を落とした。病室の床に広がるページ、ブルーが僕を見ている。唾を飲み込んだ。

「ねえ、ここに出てくる碧い魚って君の事かい」

痛々しいブルーの身体が碧く光り出した。

「でもこれは大間のお父さんがお母さんに送ったものだろ?なんで君が」

ブルーはベッドに横たわる母親を見た それはとても優しい目だった 大間が顔を上げた。

「どうしたの」

本を拾い上げ大間に渡した。彼女は目をこすりながらそれをめくった。次第に表情が険し

くなった。大間の母親に聞いた本の存在を彼女に話した。

「この本に出てくる魚って、お父さんよ」

大間は本の一行を指さし言った。

「ここを見て 『もう一息』って書いてあるでしょ 。これってお父さんの口癖なの」

ブルーはそわそわし始めた。それを見て僕はある事にづいた。

「もしかして君は 」

大間も僕のとぎれた言葉の先を感じ取り、大きく目を見開いた。

「おとうさん?」

ブルーは恥ずかしそうに頷いた。大間は口に手を当てた。

「本当なの?」

母親を見た時と同じ愛しいものをみるようなブルーの瞳。見つめ合う一人と一匹、いつし

か互いの目を涙が覆っていた。

「どうしよう、お父さん、お母さんが、ねえ、どうしよう」

ブルーは慌てなかった。

「ねえ、お父さん、どうしよう」

いつもの自信に満ちた大間とは全くの別人がそこにいた。まるで親にはぐれた幼子のよう

だった。父親の存在が張りつめていた心の糸を緩めたのだろう。僕は壊れかけた家族を見

つめていた。するとブルーの身体が昨夜のように激しく輝きだした。そしてその光は病室

の白い壁に集められた 人影が浮かんだ それは大間の父 智久の通夜の夜の風景だった。

まだ父の死が信じられないでいる娘 百合子は棺で眠る父の亡骸から離れようとはしない

僕らはそれを見ながら気づいた。この場面を撮っているのは母親だと。いや撮っていると

いう言い方は正しくない、これはその時、母親の目から見えていた映像そのものだ。その

証拠に画面のこちら側から亡骸に手を伸ばそうとする喪服の女の手を、傍らにいた少女の

大間が叩き払って言った。声は聞こえないが確かに『さわらないで、母さんなんか嫌い』

そう少女の小さな口が動いた。場面が変わり画面は斎場の裏から青空に立ち上る煙を映し

ていた。しかしそれは雨の日のガラス窓のように水の幕で覆われていった。結局、荼毘に

付され骨となっても娘は母を父親から遠ざけた。どんなに謝っても娘は泣くばかり。終い

に食事もとらなくなった 日に日にやせ細っていく百合子 ある日母親の態度は変わった。

子供には多額と思える現金を常にテーブルの上に置き、派手な格好で男遊びをしだした。

軽蔑する娘の視線を笑い飛ばし、好き放題をした 『お前にはもうかまっていられない、

私は好きなようにする』といわんばかり、すると娘百合子にも変化があらわれた。男にだ

らしなく、母親らしさのかけらもない姿にあきれ果て、幼い少女は自分一人で生きようと

し始めた。それはまるで『あなたのようには絶対にならない』そう言っているようにも見

えた。それからの二人は憎しみ合う事で成立する親子に見えた。しかしある日、百合子が

母の男を誘惑し関係を持った。前に大間に聞いた大学の医者だ。彼は糖尿病専門の教授で

母親の担当医だった。男は娘百合子との過ちを恥、母親から去っていった。しかし母親は

娘を叱りはしなかった。復讐だと分かっていたからだ。もしこの事で娘百合子を問いつめ

れば、いい気味だとばかりにマンションを出て行くに違いない。高校生になったといって

も娘はまだ子供、いくら賢い子でもそうさせるわけにはいかないと思ったのだろう、母親

は今の生活を変える事ができなかった。そしていくら誠実そうな優しい男性が現れても、

深く理解しあおうとするまえに必ず娘が奪い去っていった。母親は度々智久の墓を訪れて

は何時間も泣いていた。しかし、マンションに帰り玄関のドアを開けた時、下駄箱脇にあ

る大きな姿見に映る姿はいつもの自信に満ちたものだった。その場面を最後にカーテンは

暗転した。

共に壁に向かっていた娘と父はゆっくりと向き合った。

「母さんは私の為にこんな馬鹿な事をしてたってこと?」

ブルーは大間を見つめたまま小さな口を閉じた。自分で考えなさい、私は事実をお前に見

せただけ、そんな思いをブルーの瞳に感じた。

「そんなのないよ、憎んでほしくてあんなデタラメな生活してたなんて。第一お父さんは

お母さんのこと許せるの?あんなに優しくしてくれたお父さんを裏切ったんだよ」

大間が持っていた本のページがパラパラとめくれた。そこには魚の腹の中から今、芽吹こ

うとしている種の挿絵が描かれていた。ブルーは余白に書かれているある文字に自らの光

を当てた。

『もう君が僕の全てなんだ』

それを見て大間は唇を噛んだ、そして母親を振り返り悔しそうに言った。

「父さんが一番愛しているのはてっきり私だと思ってた。でもやっぱり母さんだったの

ね 」

物言わぬ母親の顔をじっと見つめる大間。

「これじゃお母さんからいくら幸せ奪っても意味なかったわけよね、私一体何してたんだ

ろ」

母親の頬に手を当て大間は首を振った。

「私が死ねばよかったのよ・・・」

押し殺す声は後悔というより、それが自分に一番ふさわしい生き方だと聞こえた。

「やめろよ」

「怒ったっていいよ、私知ってるもの、なんで私から男が逃げていくか」

丸まった背中は今にも崩れそうに見えた。

「私は本気で誰かを愛せないのよ、だからみんな嫌になって離れていくの。当然よね、自

分しか可愛くない女を好きにはなれないもの、だから一人でいるしか無かったの。あなた

もそう、そのうち呆れて私の前からいなくなるの」

淡々と唇が動いた。彼女の胸の内に溜まっていた自責の膿がだらだらとこぼれ落ちるよう

だった。叱ろうにもうつろな目の大間は抜け殻のように力無くうなだれるばかり。それは

横たわる母親以上に見るも無惨の姿。大間の身体を引き寄せた。力無いその身はぽっきり

と折れそうだ。すると目の前に浮いていたブルーが大間の頬まで降りてきた。そして身体

を頬にこすりつけた。

「お父さん」

ブルーの目から涙が溢れていた。それは優しく慈しむように、そして別れを惜しむように

僕には見えた。大間もそれを感じたのだろう。

「私がこんなに悪い子になったから嫌いになったの?だからいっちゃうの?」

手元にあった本が又めくれた。それは自分たちの故郷の風景を語り合う場面だった。

魚の故郷、山の麓の湖の水辺に咲く色とりどりの花にお腹の中の種が寂しく呟く一行。

『君と僕の花だよ、そうだろ?』

僕はそれをみて大間がどれほど父親から深く愛されていたのか改めて知った。それは彼女

も同じだろう。何とも情けない顔で大間は微笑み、そして泣いた。ブルーは大間の瞼にキ

スをした。そして顔をこちらに向けゆっくりと僕らの回りを廻った。真っ黒な瞳にはくし

ゃくしゃ顔の娘の姿が映って見える。切ない時が流れ、そして別れの時は来た。ブルーを

包む光は碧から、いつか見た時のようにオレンジ色に変わり、みるみるうちに炎のように

赤く染まっていった。身体は見ていられないほど苦しそうにふるえだした。

大間がブルーに手を伸ばした。辛いはずなのにブルーは優しそうな目で顔を振った。まる

で聞き分けのない子供を諭すようだった。真紅の身体は病室の天井まで昇ると、僕ら二人

を眺めた。

「お父さん、やっぱり・・・いやだよ」

小さなしっぽが可愛く振られた 『さようなら』と言っているように見えた。大間の目も

僕の目も涙で一杯だった。

「ブルー」

僕はおもわず手を伸ばした、けれどブルーは指先をかすめ、愛しい人の胸に飛び込み消え

た そして次の瞬間 大間の母の身体は碧く輝き出した 波立つように ざわめくように光は

暴れた。ブルーは最後の力を振り絞り救おうとしている。あんな姿になってまで彼は

戦っている。彼の強さが凄すぎてくやしかった。大間への思いが本気なのかなんて悩む自

分が惨めになった。そして思った。こんな風に大間を守りたい。

「お父さん、もうやめて」

苦しそうにもがく光、もう見ていられないと大間は母親の身体を揺さぶった。それでも彼

は戦いをやめなかった。碧い光は眩い閃光と変わり部屋中の全てを光で飲み込んだ。それ

は声のないブルーの最後の叫びだった。そして僕らは気を失った。



お父さんへ

お父さん、今日はとてもいい天気です。このログハウスのベランダから眺める春の海は幼

き日 あなたと見たそのままです きらきら光る波の瀬 水彩画のような淡い色合いの空、

そしてその空を舞う二羽のカモメ。目に映るものどれもが体を吹き抜ける微風のよう。あ

の日から10年、私ももう27歳、母が私を産んだ年齢と同じになりました。私は今、小

さな出版社で作家と一緒に童話の絵本を作っています。正直言ってなかなか売れません。

でもやりがいはあります。むかしあなたが何を思い童話を書いていたのか、そんな事を想

像しながら本を作り、子供達に送り届けられる事が嬉しいのです。そんな私を母は変わっ

たといいます。でも変わったのは母の方です。あの夏の夜の翌朝、ベットにうつふし眠っ

ている私の頭を撫でている人がいました。母でした。母は夢を見たと言いました。

「百合子はもう大丈夫だよって、父さんが笑ってた」

その後、母はごめんねと一言いい、目を赤くしました。私は母にブルーの事は話しません

でした。少し嫉妬もありました。でも本当は話さなくても母の中に父さんがいるからいい

と思ったのです。そして母は病院を退院した後、まもなく予備校を辞めました。私たちの

暮らす町で小学生相手の小さな塾を始めたのです。学校の授業に取り残された子供達ばか

り集めた塾です。今、母は子供達と泣き笑いの毎日です。

「百合子、雅俊さんのご両親が来られたわよ」

玄関で着慣れない着物を着た母があたふたしています。今日は彼との結納の日です。私が

無理を言ってこのログハウスでとお願いしました。母は渋りましたが彼は快く承知してく

れました。そう言えばあの後いろんな事がありました。聞いてください、彼自分の夢を叶

え医者になりました。偉いと思いません?でも、何よりも凄いと思ったのはこんな我が儘

な女から去っていかなかった事。そんな彼を私はいつのまにか本当に好きになっていまし

た。あの夏の日、頼りなさそうに笑った彼が今、私を笑わせてくれています。静かで深い

思い 『力尽く』という言葉あるけれど彼の強さは『時間尽く』でした。ある意味一番強

引な男性だったのかもしれませんね。でもよく考えると父さんの思い通りになったような

気がします。なんか少し悔しいです。

「娘の結婚相手は俺が決める、なんて時代おくれよ」

私は風に言葉を流しました。

「百合子、早くお出迎えして」

お父さん。いつか母になりこのベランダで彼の子供を抱きます。そうそう、むかしお父さ

んが彼に見せたえくぼのある綺麗な女性、それは私ではないかもしれません。でもいいん

です。彼は私のもの、笑い皺が出来るぐらい二人で幸せになるつもり。いえ、なります。

「百合子!」

「はーい、今いきまーす」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ