細い糸
山頂は霧に包まれていた。アスファルトは砂利道に変わり、次第に細くなっていった。視
界はほんの数メートル先までしかなく、まるで神秘の森に迷い込んでいくようだった。大
間は身を固くし背中にしがみつく。エンジン音が木々にぶつかり四方八方で聞こえた。ど
こまで登っていけばいいのか、天まで続きそうに思えた道の先に、ログハウスの群れが姿
を現した。
「あれかい」
大間は頷き、そしていちばん隅っこのログハウスを指さした。僕はアクセルを戻しゆっく
りと停まった。そして明け切らない霧の向こうに目を懲らした。それは日本史の教科書で
みた高床式倉庫のような作りのログハウスだった。エンジンを切りバイクを降りた。ガラ
スの曇りを拭き取るように風の固まりが吹き抜けた。ぼやけていた視界が一瞬にして鮮明
な縁取りを見せた。それとは反対に大間の横顔が曇った。そのわけはすぐに僕にも分かっ
た。ログハウスの片隅に真っ白なベンツが停まっていた。昨夜マンションでみた大間の母
親の車に似ていた。
「もしかしてお母さんの?」
「たぶん、ねえ小林、どうしょう」
大間の足がとまった。動けなくなったと言うべきかしれない。その時、ログハウスの窓が
碧く光った。レースのカーテンをくぐり抜けブルーが姿をみせた。早く早くと口先でガラ
スをコツコツと突いた。大間は僕を見上げ、戸惑いを見せた。
「どうする」
「会いたくない」
「それでいいのか?」
「どうしろっていうの」
「あんな手紙一枚で家出するなんて後ろから頭殴って逃げるようだろ。どうせ出て行くな
ら派手に喧嘩して思いっきりなじってやったらいい。そしたら奇麗さっぱり別れられるん
じゃないか」
悪戯っぽく笑って言ったやった。
「それでもいいの?」
「あとで後悔するよりいいだろ。それに、なるようにしかならないさ、大丈夫だってずっ
とついてる」
大間の目が不思議そうに僕を見た。
「小林、かわったよね」
「なら惚れてくれたらいいのに」
「頭に乗るな」
僕は大げさに肩を落として見せた。それも思いを寄せる女性に肩すかしを食ったチャップ
リンのようにだ。大間は笑ってくれた。そして穏やかな顔になり、頷いた。
「うん、わかったわ」
「じゃあいくか」
大間の手を引いてログハウスに向かって歩き出した。彼女は僕とつないだ手を放すまいと
した。丸太を半分に切った階段を登り、まだら模様にシミの浮き出ている杉板のドアの前
に立った。ログハウスの中からは音は聞こえてこない。真鍮のドアノブに手を掛けた。大
間は僕の背中に隠れるように張り付いた。ゆっくりとノブを回し、中が伺えるだけドアを
あけた 薄暗い家の中に小さな火がみえた 静かに揺らめく様子からしてストーブらしい。
「ごめんくださーい」
足を踏み入れると同時に外の光が中へと差し込んだ。部屋の隅に映画でしか見たことのな
い薪ストーブがあった。その真向かいには大きなソファーがみえ、中央には如何にもログ
ハウスにありそうな一枚板の素朴なテーブルがあった。壁には女性の好みそうな蔓で作っ
たリースがいくつも飾られてあった。見回しても大間の母の姿は見えない。
「すみませーん」
そう言い終わらないうちに、正面のソファーの背もたれの後ろ付近が碧く光った。その光
のする場所へ駆け寄ると、床にすわりソファーに寄りかかる大間の母親がいた。
「おばさん」
声を掛けると薄目を開けた。
「ああ、君」
力のない、しなだれた指が僕の服をつかもうとする。僕はその手をとった。百合子もそば
に近寄ってきた。
「やっぱりここだったのね」
娘の姿が視界に入ってホッとしたのだろう、表情が柔らかになった。
「具合が悪そうですね、大丈夫ですか」
「眠っていただけよ、なんでもないわ」
母親は僕の手を振り払った そして体を重そうに起こしながら ソファーの背にもたれた。
怪訝そうな顔で大間は言った。
「なんでここにくるってわかったの」
「萩原さんから電話あってね」
大間が僕をにらんだ。しかし、大間は無事だと連絡はしたがそれ以上の事を言った記憶は
ない。第一、この場所自体今さっき初めて知ったのに話せるはずもない。
そう言いかけたとき、母親がぽつりと言った。
「波の音よ」
電話の後ろに波の音が聞こえたと萩原が言ったそうだ。
「私があなたと知ってる海はここだけだから」
つなぎ止めるものがない親子のはずだった。しかし、母も娘も細い記憶の糸で繋がってい
た。大間は複雑な顔をした。
「帰らないわよ」
「連れ戻しに来たんじゃないわ」
話すほどに呼吸が辛そうになり、額にはうっすらと汗が滲み始めた。
「おばさん、病院に行きましょう」
「ええ、これを渡したら帰るから」
母親は側に置いてあったショルダーバッグを手に取った。
「保険証と着替え、それにこれよ」
バッグの中から預金通帳を取り出し大間に渡した。大間はそれを中指と人差し指で取りあ
げた。金額欄に目を通し驚きの表情を見せ、すぐさま通帳を反対にし母親の方に向けた。
「なによこれ」
窓から差し込む朝の光に僕にもかろうじてその数字が確認できた。1の後に0が・・・、
頭の中で指を折ってみた。思考が停止した。
「お父さんの保険金を積んでおいただけよ、バブルの時だったから利率もよくてね倍以上
になったは」
「そんなこと聞いているんじゃないわ、こんな大金私みたいな子供にあずけてどういうつ
もりって聞いてるのよ」
「出て行くんでしょ」
「へぇ、じゃあ何、手切れ金ってこと?」
「ええ、そうよ、それにユリはもう子供じゃないでしょ」
「なによそれ」
唇が震えていた。それでも母親は止めなかった。
「もう好きなように生きていいのよ」
一筋の涙が大間の頬を伝った。悲しそうな目をしていた。
「ちょっと待ってくださいよ、そんな言われ方したら彼女が可哀想だ」
「いいのよ、この子もよく知ってるわ、ねえ、そうでしょ」
大間は顔をそむけ唇を噛みしめ涙をぬぐった。
「聞いたでしょ、こういう人なのよ。なんでもお金ですまそうとする人、でもまさかここ
までするなんてね、それも一億ですって。とことん私が嫌いなのね。いいわ、貴女の前に
一生現れるつもりもないし、もう顔も見たくない。それどころか母親がいたことさえ忘れ
てやるわよ。どうそれで満足?」
「ふふ、おかしぃ、母親だなんて思ったことない癖に」
目をむいて母を睨み付ける娘、少しぐらいの言い合いは覚悟していた。けれどこれは母と
娘の斬り合いだ。無責任といわれれば言葉もないが、どう二人を止めていいかもわからず
僕はあせった。
「まあいいは、正直、私も疲れたのょ」
目にかかった髪を母親はうざったそうにかき上げた。
「そう」
大間は母親に背を向けた。玄関から差し込む朝の光が彼女包んだ。肩が震えていた。
「あんたなんて、死ねばいい」
そういうと玄関から飛び出していった。苦しそうな表情で見送る母親、しかし何故か目元
は満足げに見えた。走り去って行く大間が踏みしめるジャリの音。
「なにしてるの、あの子の側に付いていてやって」
「おばさん」
不安げな僕の言葉に母親は首を振った。
「優しい子ね、私は大丈夫、だからお願い」
そういって背中を押された。潤んだ瞳の奥に覚悟を感じた。僕は頷き大間を追ってログハ
ウスを後にした。まだ靄の残る木々の小道を大間の後ろ姿が小さくなっていく。走った、
走った。今まで生きてきた中で記憶にないぐらいに早く大間を追いかけた。大きな声で叫
んだ。何を叫んだのかもわからない、うなり声だったかもしれない。情けない声だったか
もしれない。今見失ったら二度と会えないような、いや大間がこの世からいなくなってし
まいそうな気がした。
「いくな、いかないでくれ」
このまま彼女を見失ったらもう一生あえない、そんな気がした。そんなのは嫌だ、絶対に
嫌だ、焦りが土壇場ではじけた。突然大間の足が止まった。しかし坂道で急に止まったせ
いで彼女は前のめりに転んだ。すぐにかけより抱き起こした。目は涙で一杯だった。鳴き
声も声にならない。わかったからと背中を抱いた。すりむいたのか肘や膝から出血してい
た。持っていたハンカチを引き裂き両方の傷口を軽く縛った。
「大丈夫か?痛いところないか?」
昨日の事もある、とにかくひとまず病院に連れて行こうと思った。
「病院に行こう」
大間は何も逆らわなかった 僕は彼女を背負いバイクを止めてある駐車場まで歩き出した。
相当ショックだったのだろう、凍えるウサギのように小さく身体を縮めていた。駐車場ま
で戻ってくると二人とも声をあげた。ログハウスの窓という窓が激しく光っていた。それ
は間違いなくブルーの放つ閃光だった。胸騒ぎがした。大間も何事かが起きていると気づ
いた。
「やっぱり、あのままにはしておけない」
「いやよ」
「本当に君はそれでいいのか」
「もう何も考えたくない」
耳を塞ごうとする大間に行った。
「君の好きなお父さんならどうすると思う」
「そんなの、ずるいよ」
「ごめん」
いやがる大間を背負ったまま、ログハウスの階段を駆け上った。そこには大間の母親がう
つぶせに倒れていた。床には壁に投げつけられ壊れたのか携帯がバラバラになって落ちて
いた。傍らでブルーが光を放ちながら母親を見ていた。事態は深刻なのだと直感した。
大間を降ろし母親に駆け寄ろうとすると。ログハウスの外で人の声がした。
「どうかしましたか?」
他のログハウスに宿泊客していた客が、騒がしい物音に気づき出てきたのだ。
「あぁ、彼女のお母さんが」
それを聞いた宿泊客はログハウスの中に入ってきた。咄嗟にブルーは光るのを止め僕のポ
ケットに逃げ込んだ。客は突然消えた光に首を傾げたが、それよりも虫の息の母親を見て
顔色を変えた。そして腕の脈を取り、瞳孔を確かめた。- 47 -
「とても危ない状態だ、時間がない、僕の車で病院へ運ぼう」
「貴方は?」
「消防隊員だ、そんな事よりお母さんを運ぶのを手伝ってくれ」
彼は休暇で家族とこの海に来ていたのだ。ステーションワゴンに二人で母親を運び入れる
途中、真ん中のログハウスからパジャマを着た奥さんらしき女性が口を押さえながら出て
きた。
「急病人だ、ちょっと行ってくる。風邪をひくから中に入ってなさい、あとで電話するか
ら」
慣れているのか慌てもせず女性は分かったと頷き何かを隊員に向かって投げた。
「貴方、鍵」
隊員はそれを受け取ると、後ろのドアをあけ座席をフラットにした。そしてゆっくりと母
親を寝かせると僕を見た。
「君、免許持っているかい」
「いいえ、運転なら彼女が」
大間はボーと車の前で立ちつくしていた。
「何をしている、君が運転するんだ」
隊員は母親の側に正座し、頸動脈に指を当てた。しかし大間はまだ躊躇っていた。僕も後
部座席に乗り込みながら言った。
「さっきまで、彼女たち喧嘩してて」
それを聞いて隊員は彼女を一喝した。
「何があったかはしらんが君を産んでくれた人だろう、その恩は返せ」
我に返ったかのように大間の目つきが変わった。彼女の心の中がその時どうなっていたの
かは分からない。憎しみなのか、寂しさなのか、義務なのか、無意識なのか、それとも未
練なのか。大間の固まった表情がバックミラーに張り付いた。
「しっかり?まっててください、飛ばします」
この前を知るだけに僕は助手席のヘッドレストにしがみついた。案の定、車はいまにも転
げ落ちそうにな勢いで山道を下った。正直、今度こそ死ぬかもしれないと思った。
「大間」
「なに」
「安全運転・・・」
「うるさい」
病室のベッドに横たわる母親を見つめ大間はため息をついた。半日以上も意識不明のまま
だ。壁の電気スタンドの明かりが編み目模様のカーテンに大間の影を映していた。蒸し暑
くて開けた窓から微かな夜風が流れ込んでいた。僕はブルーを看護婦さんに借りた洗面器
に泳がせていた。容態を確かめに来た医師は透析の機械を調整しながら言った。
「お母さん、予定されていた透析を受けられなかったようですね」
運び込まれた時、看護士がバッグの中の診察券を見つけ、病院に連絡を取り分かったらし
い。母親は重い腎臓病だと先方の医師から説明を受けたと目の前の医師は話してくれた。
なんでも大間の母親は出産時 何らかの原因で糖尿病になり それが悪化し腎臓病へと、
そしてここ10年は週に3回透析を続けていたそうだ。最近は病状が思わしくなく、担当
医師は仕事を休み入院するよう忠告していたらしい。それを聞いた大間の顔は真っ青だっ
た。彼女の顔をみて医師の方が反対に驚き聞き返した。
「何にも知らなかったんですか?相当無理をしていたようですよ」
大間は両手で自分の肩を抱き目を閉じた。僕は医師に聞いた。
「助かりますよね」
心電図モニターの波形を確かめる医師の顔はとても暗かった。
「全身状態が相当悪すぎます。意識が戻るかも .とにかく今夜が山です」
医師が病室を出て行った後、大間はパイプ椅子にうなだれた。
「やっとわかったわ」
「なにだい」
「母は私を産んでこんな身体になった事をずっと恨んだのよ」
「考えすぎだ」
「いいの、それなら納得がつくもの」
「ちがうって」
大間はとても疲れて見えた。年齢が分からないくらいにやつれて見えた。ここに来て無理
矢理彼女も婦人科の女医に診てもらっておいた。彼女の言うとおり出血も止まっていた、
しかし、やはり精神的にも肉体的にも限界なのだろう。そしてもう一人、いやもう一匹限
界を超えそうな奴がいた。
「ブルー、大丈夫なのか?なんならお前だけ連れてかえってやろうか」
けれど ブルーは言う事を聞かない 見ると鱗が所々剥がれ白い肉が無惨にのぞいていた、
僕は自分の勝手で大間に引き合わせた事を後悔していた。これは僕の問題だ、なのに優し
すぎるブルーはほっておけないのだ。病室には又僕たち三人と一匹だけになった。ブルー
は洗面器から宙に泳ぎだした。その姿は洗面器の真上から見るより痛々しかった。それで
も大間に元気をだせと尾を精一杯振って見せた。大間は目を背けた。
「やめて、そんな気分じゃないの」
その時、病室のドアを誰かが叩いた。ブルーは大間の背中に隠れた。
「あの、お渡しする物が」
看護士の声だった。僕は病室から出てそれを受け取った。絵本だった。なんでも処置室で
母親のバッグを開けた時、この絵本が中に入っていて籠に取り分けて置いたのを忘れてし
まったらしい。病室の扉を後ろ手で閉めながら本を見た。
題名『君と』
若き日、大間の父が妻に送った本だと直感した。子供を堕そうかと結婚に悩んでいた女
性に手渡された一冊の本。それは製本された立派な物ではなく、画用紙に書かれた手作り
の素朴なものだった。大間に見せようとしたが彼女はベッドにうつ伏している。ブルーは
不安げに彼女を見ていた。なんだか自分以外のものが止まって見えた。僕は壁に寄りかか
り表紙をめくった。そしてそれは太陽が照りつける砂漠の風景から始まった。