自分と出会う
左に角田山の気配を感じながら僕はスイカ畑の一本道を走っていた。月は雲に隠れ、湿気
たっぷりの闇があたりを包んでいた。ヘッドライトの光に吸い寄せられる羽虫は雨粒のよ
うだ。あのあとマンションのエントランスから萩原美里の携帯に電話をした。まだ父親が
起きていたようで詳しい話が聞けた。
「11時過ぎらったかな、赤塚の小屋で農機具直してたら、対向車線のライトになんか
女の子がとぼとぼ歩いてんのが見えたんらこて。おっかしいなと思って声かけたら百合子
ちゃんらねっか 『こんげ時間になにしてるね』言うたら逃げてってしもうた。直ぐに追
いかけたろも隠れたんかわからねなった。家に帰って美里にその事話したこて、そしたら
命がどうのこうので探してるいうねっか、やっぱなんかあったんだなと思ってすぐに連絡
させたんだ。で?この事は親御さん知ってるんだかね」
電話の向こうの声は何事が起きたと言わんばかりの抑揚だった。
「今さっき、お母さんに会って伝えました」
「ならいいが、尋常じゃなさそうでなあ、一体どうしたんだね」
「ご心配かけてすいません 」 ...
それ以上詳しく語ろうとしない僕に萩原の父親は少し不満そうだった。
「・・・」
いや 無理に聞くつもりもないが 俺で出来ることがあれば言ってくれ、
力になるから。
「はい」
「いっかね、男はこんげときの為にキンタマならしてるんだれ、男なら絶対女守れや」
少し弱音を吐きそうになっていた僕をその言葉がふるいたたせた。
「わかりました」
頭を下げながら丁寧に礼を言い電話をきった。あれから30分、大間を見たという道路沿
いに彼女を見つけられないでいた。この道を進めばもう少しで海に出てしまう。馬鹿な事
は考えるなと心の中で何度も叫びながら、ライトが照らす道の先に目を懲らした。国道と
は違い12時を過ぎると車を見ることはない。プラネタリウムのような満天の星の下、バ
イクが止まっているような錯覚を何度か感じた。しかし、そのうちバイクは防風林の松林
に入った。暫くすると潮の香りを含んだ浜風が頬に吹き付けた。海辺を走る湾岸道路に出
たのだ。そこはさっきまでとは違い、ナンパ目的の男達のミニバンと誘惑を待つ女達の軽
自動車がのろのろと行き交っていた。車内灯をつけたまま窓から身を乗り出し女を物色す
る男、同じく車内灯を付けたまま下着のようなキャミソールで肌を露出する女、ときには
道路に停まる車の窓から小刻みに揺れる女のつま先が見えた。真夏の夜はエロすぎる欲望
で満ちていた。本当にこんな道を彼女は歩いているのだろうか。目のやり場に困り視線を
少しあげた。すると前方の夜空に小さな碧い光を見つけた。周りにいた奴らは自分たちの
事で頭がいっぱいなのだろう、気づく者はいなかった。碧光は見覚えのあるリズムを刻み
発光していた。2回強く光ったあと、周りの何もかも吸い込むようにゆっくりと深く輝き
を失っていく。そして完全に闇と同化したかと思うと又光を放つのだ。それは間違いなく
ブルーが見せる悲しみの表現だった。
「ブルー」
言葉より先に右手はアクセルを回していた。風を切り、対向車のライトの煙幕をくぐり抜
け走った。少しずつ碧い光に近づいていく。そして僕はその光の下で言い争う男女を見か
けた。男三人が嫌がっている女を無理矢理車に乗せようとしていた。ライトの円が女を照
らしたこ。大間だった。金切り声をあげ泣き叫んでいた。
「おまえら」
ひき殺してもかまわない、その時はそう思った。突然現れたバイクに男達の顔が引きつっ
た。クラクションを鳴らしスピードをあげた。大間の腕を掴んでいた男達は彼女から離れ
た。逃げまどう人影めがけてバイクを突進させた。その時、対向車線に車が現れ、上向き
のライトの光が目に突き刺さった。何も見えなくなり、バイクごと林に突っ込んだ。車が
通りすぎるとあっという間に男達に取り囲まれた。
「お前、なんだ」
男達の乗って来た車が方向を変え林を照らした。ライトを背に受け男たちの輪郭が闇夜に
浮かんだ。仲間の一人が又、大間に近づいていこうとした。やめさなければと立ち上がろ
うとした。すると目の前の男が僕の右頬を横蹴りした。そして避ける間もなく二発目の蹴
りが脇腹に入った。息が出来なくなった。
「いやー、やめてー」
別の男に左腕を掴まれ大間が泣き叫んだ 目の前にいた男はチラリとそちらに目をやった。
そして薄ら笑いを浮かべながら言った。
「心配すんな、殺さねえから、ただ死ぬほど気持ちいい事は教えてやるよ」
それを聞いた途端、体の中で怒りと焦りが爆発し男に飛びついていた。不意をつかれ
男はその場に倒れた。その隙に彼女を連れ去ろうとする男に体当たりした。男はガードレ
ールに吹っ飛んだ。大間の腕を掴み逃げようとした。しかし行く手に男達が立ちはだかっ
た。反対に逃げようと振り返ると、奴らの車がエンジンを吹かしながらヘッドライトをこ
っち向けていた。リーダーらしき先ほどの男が握り拳を突き出しながら歩み寄ってきた。
相手を待たずしてこちらから殴りかかった。一発はヒットした。しかし、リーダーの両脇
にいた男達に挟まれ両腕を捕まえられた。
「あったまきた、てめー死にてえのか」
男の拳が僕の右頬に打ち込まれた。口を切り、その血がリーダーの顔に飛んだ。
「きたねえ、なにすんだ、このやろう」
狂ったように何度も殴りつけられた。両脇の男達も容赦なくヒザげりを腹に入れてきた。
「やめてー、小林が死んじゃうよ、お願い、もうやめて」
「うるせえ、なら、素直に言う事聞け」
アスファルトにへたり込む大間の髪の毛をリーダーは引っ張った。大間は泣きながら首を
振った。
「いいんだな、こいつがどうなっても」
リーダーはポケットから何かを取り出した。ライトの光を受けそれはキラリと光った。飛
び出しナイフだった。顔を硬直させぶるぶると震える身体、正直やばいと思った。
「じゃあぁ、お望み通り殺してやるよ」
ナイフの先端が僕の腹にあたった。驚いたのは僕より両脇を固めていた手下らしき男達の
ほうだった。本当にやるのかという戸惑いを感じた。その動揺がリーダーの怒りをさらに
駆り立てた。ここで止めたら下手になめられる。そう感じたのだろう。脅しのつもりが引
っ込みがつかなくなった。
「てめえらなにびびってんだ」
リーダーは左手に握ったナイフの尻に右手を添えた。本気だという意思表示だ。それを見
た大間が男の足にすがりついた。
「わかったから、何でもする、好きなようにしていいから、小林を助けて」
助け船が来たとリーダーはかっこつけながらナイフを降ろした。
「初めからそういやいいんだ、兄ちゃん、女に感謝しろよ、おい、離してやれ」
組んでいた腕を解かれ崩れ込んだ。男達はせせら笑いながら脇を通り過ぎていった。アス
ファルトに打つ伏した僕の目に引きずられていく大間が見えた。それはまるで粗大ゴミで
も運ぶように手荒だった。
「やめてくれ、彼女は病人なんだ」
女さえ手に入れたらもうお前に用はないと男達は振り返ろうともしなかった。何とかしな
ければ、そう思った時、胸の携帯を思い出した。震える手でそれを取り出し男達に携帯の
カメラを向けた。そしてあらん限りの声で叫んだ。
「おい、頭の腐ったちんぽやろう」
げらげらと笑いながら歩いていた男達の足が止まった。
「なんだと?」
リーダーが肩をいからせながら振り返った。その瞬間、僕は携帯のカメラのシャッターを
切った。カシャーという疑似音がスピーカーから流れた。それは奴らにも聞こえたようだ
った。すかさず大げさにボタンを押してみせた。駆け寄ってくる男達に見えるように携帯
を頭上に突き上げた。そして男達が携帯を奪おうとする寸前、暗い海に向かって放り投げ
た。
「お前、なんのつもりだ」
リーダーに襟首を掴まれながら僕はおおげさに笑って見せた。
「あんたの顔を僕の悪友に見せてやったのさ、今頃変な男が写ってる写真見て不思議に思
ってるだろうよ」
「嘘つくな、こんなに暗くて写るわけがないだろ」
「かもね、でもやつはパソコンマニアでね、どんなに写真が暗くてもソフトで補正しちま
うんだ。すると昼間写した写真みたいに何でも見えるのさ、それに万が一写っていなくて
も車のナンバーも一緒に送っておいたから、どっちにしてもお前らの素性は直ぐにわかる
さ」
襟を掴んだ手と反対の手が振り上げられた 僕はリーダーを睨み付け更にダメ押しをした。
「さあ、殺せ、大間を連れて行きたいならそうしたらいい、明日には指名手配されて檻の
中だ、さあ、刺すなり殴り殺すなり好きなようにしろ」
今まで何も言わなかった子分の一人がリーダーの袖を引っ張った。
「やばいっすよ、しんじさん、保釈中じゃないですか」
それを聞いたリーダーは自分を掴む手下の手をふりほどいた、そしてそいつめがけて強烈
なけりを入れた。手下は腹を抱え路面にへたり込んだ。
「だまってろ」
うめき声をあげる手下を見下ろしながらリーダは立ちつくした。
「どうする、このまま去るなら警察には黙っててやる、しんじさん」
これ見よがしに名前を呼んでやった。リーダーは悔しそうに爪を噛んだ。
「取引のつもりか」
「彼女を助けたいだけさ」
「かっこつけんな」
「いいだろ、かっこつけさせろよ、そしたら感謝するぜ?」
「くだらねえ」
そういうと僕の腹にも一発蹴りをいれた。
「いてー」
「いくぞ」
リーダーはそのまま車に向かって歩き出した。
「しんじさん、女は?」
聞き返す手下の頭をもう1人の手下が殴り付けた。男たちは無言のまま車に乗り込みマフ
ラーから爆音を響かせ走り去った。とたんにあたりは真っ暗になった。何とか立ち上がり
わずかな月明かりを頼りに大間を探した。
「大間、どこにいる」
ふらつきながら手を闇の中に泳がせた。するとか細い声がした。
「小林」
声のする方へ近寄っていくとガードレールに寄りかかる人影を感じた。かけより肩に手を
掛けるとぶるぶると震えていた。
「しっかりしろ、大丈夫か?痛くはないか?」
泣きながら抱きついてきた。恐ろしさからか言葉が出ない様子だった。
「奴らは行った、もう何も怖くないから」
震えを止めようと精一杯強く抱きしめた。歯をガクガク鳴らせながらコクリと頷いた。自
分の頬を彼女の頬にあてた。ひんやり冷たかった。背中をさすりながら何度も大丈夫だか
らと言葉をかけた。暫くしてようやく落ち着いたのか、やっと大間が口をひらいた。
「小林は大丈夫?」
「ああ、なんともない」
咳き込みたいけれどぐっと我慢した。たぶん右目が相当腫れているはずだ。
「ほんとう 」?
「無事でよかった、心配したぞ」
涙を拭きながら子供のようにうんうんと頷いた。
「ブルーを追ってきたの、ほらあそこにいるの見えるでしょ」
しゃくり上げながら話す指さす先に、先ほどと違い静かに光るブルーがいた。
「ああ、僕もブルーに気づいたから君の居場所が分かったんだ」
「うん」
「でもよかったよ無事で、とにかく今は病院にもどろう、看護婦さんが心配してるぞ」
「じゃあ・・・何もかも知ってるんだ」
「よくいうよ、緊急の連絡先に僕の携帯番号書いておいて」
「ほかに書く番号なんてなかったの、ごめんなさい」
「もういいよ、とにかく、病院へ帰ろう」
「怒らないの?」
何に怒れというのか、あの男の子供を堕した自分を責めないのかと聞くのか?言えるもの
ならいいたかった 『でも僕は君のなにものでもないだろ』またこれだ。どうせいえない 。
くせに、自己嫌悪だ。
「いいから、とにかく、病院へ帰ろう」
大間の腕をとろうとすると彼女はその手を振り払った。
「帰らない」
「そんな事言ってる身体じゃないだろ、死んじまうぞ」
「大丈夫なの、痛くも何ともないの、ほんとよ」
元気の無かった大間がよほど嫌なのか必死に訴えはじめた。
「何、訳のわからないこと言ってるんだ、怒るぞ」
近寄ろうとすると大間は後ずさりしていく、それ以上行くと対向車線に入りそうで仕方な
く追いかけるのを止めた。
「解ったから、なら、どこかで休もう、な?それだったらいいだろ?」
「絶対に帰らないからね?」
念を押すような大間の言葉に、僕はアメリカ人のように両手を広げ頭を振った。いい加減
にしろという怒りと、疲れがそんなオーバーな振る舞いをさせた (大間にその様子が見
えたかどうかはわからない)
「好きにしろ」
結局、病院には戻らず海沿い道路のバス停で休んでいた。バス停はほったて小屋のような
作りで、ペンキの剥がれたベンチが暗いの蛍光灯に照らされていた。大間は横になり目を
閉じている。僕は停留所脇にあった公衆電話から大間に気づかれぬようにメールに書かれ
てあった萩原美里の携帯に電話をした。
「萩原さんですか?」
つながったはいいが、一向に返事は帰ってこない。番号違いをしたのかと電話を切ろうと
した寸前眠そうな声が聞こえてきた。
「ん・・・あ、小林、ごめん、うとうとして」
「こっちこそごめん、心配かけて」
「いいの、さっきまで起きてたから、で?ユリは?みつかった?」
覚醒して行くにつれて声の輪郭ははっきりしていった。
「大丈夫、変な男達にからまれてたけれど何とか無事に済んだ」
「よかった 、ありがとぅ」
どれほど萩原が心配していたかは彼女の声を聞けばすぐに分かった。
「いま何処?父さんに車出してもらって迎えに行こうか」
「萩原」
「なに?」
「頼みがあるんだ」
「いいよ、言って」
大間が今精神的に不安定で動かせる状態で無い事を伝えた。もちろん落ち着いたら病院に
連れて行くつもりだという事も。萩原もある程度大間の事情は知っているらしくそれに関
しては何も言わずに頷いた。
「大間の家の電話番号しってる?」
僕は声を潜めて聞いた。
「え、えぇ、知ってるわよ」
恐らく状況を察したのだろう萩原の声も小さくなった。
「母親に無事だって連絡してやってくれないか」
「わかった任せて」
「うん」
「それから君のお父さんにお礼言っておいて、僕にもキンタマついてましたって」
「ヤダ、なにいってんのよ、バカ」
「頼んだぞ」
「あ、小林、ちょっとま・・・」
萩原の言葉を振り切り、シーラカンスのように現代に残ったでかすぎる受話器をフックに
かけた。そのあと僕は公衆電話脇に並んで立っている自動販売機でジョージアを2本買っ
た。大きな音がガチャンガチャンと夜に響いた。中学の時、真夜中、町外れの食堂の前に
あったエロ本自動販売機から何度か雑誌を買った。その時、機械の中を落ちてくる雑誌の
音に心臓が締め付けられるほど響いた。僕はその記憶を反対に利用し缶コーヒーの落ちる
音で電話をしていたことを誤魔化そうと思った。夏真っ盛り、ホットなどあるわけもなく
ジョージアはキンキンに冷えていた。僕はなにもなかったようにバス停の中に戻った。
「電話してたでしょ」
目を閉じたまま大間の唇が動いた。
「おきてたのか」
「寝てないもの」
「そっか」
「あの人の所?」
「いや萩原の所」
「なんで美里?」
「あいつの親父さんが君の居所おしえてくれたんだ、話すと長くなるからやめよ。とにか
くみんなが君の事探してくれたんだ」
「そう」
みんなという言葉を使うのは正直ためらった。大間が何を思うかは想像できたからだ。
しかし、彼女は何も言わなかった。僕は缶コーヒーを彼女の額に当てた。
「きもちいい」
大間は自分の手で缶コーヒーをもった。僕は自分の缶コーヒーを開け一口口に含んだ。
「何であんな所にいたんだ」
「私にもよく分からないのよね」
彼女の話はこうだった。病院を抜け出したけれど行く当てもなく、気づくとブルーの元へ
足が向いていた (たぶん時間的に彼女の家に向かっている時だ)洞窟に入ると痛みと貧
血で倒れ込んだ。肩で息をするのがやっと、声も出せなくなっていた。すると真っ暗だっ
た洞窟にぽっと碧光りが灯った。ブルーが来てくれた。そう思った彼女はその光に手を伸
ばした。人差し指と中指の腹が光に触れた瞬間、豆電球の程だったちいさな光が化学実験
でやったマグネシウム燃焼の一万倍程の光を放った。目を閉じる間もない突然の事。けれ
ど瞳はその光に焼き切られはしなかった。それどころか閃光に佇むブルーの姿をはっきり
と見つけた。ブルーはなにかを語りかけているように見えた。すると鉛が埋め込まれたよ
うだった下腹部の鈍い痛みがスーと消えていった。
「なんだか眠くなったわ」
ブルーの姿がまどろみの中へ溶けていった。
「気がつくと、ブルーの後を追いかけ歩いていたの、夢の中にいるようだったは」
そのとき既に出血も止まり、痛みも残っていなかったと大間は不思議そうに話した。僕は
山で遭難し足の骨を折ったときの事を思い出した。
「ブルーが私をどこかへ連れて行こうとしているような気がしたの」
「心当たりは?」
「ないわ」
「どうするつもりだい」
「いっとくけれど帰らないわはよ」
「心配してるんじゃないかな」
「やめてよ、何にも知らないくせに」
大間はベンチから体を起こした。不快な話を聞かされて、横になにっている事が出来なく
なったと言わんばかりにこちらを睨んだ。
「じつは俺、君を探しにマンションへ行ったんだ」
「へえ、で?」
「君のお母さんにあったよ、部屋に入れてもらったんだ」
「・・・」
珍しい 大抵午前様なのに 男にデートすっぽかされでもしたのね それならいい気味
その後も大間は口汚く母親を罵った。それはさも自分の行動が当然の成り行きだったのだ
と正当化しているように見えた。止まらない彼女の言葉に僕は句読点を投げ込んだ。
「君の事話したんだ、そしたら驚いて泣いてたよ」
「馬鹿ね嘘泣きに決まってるじゃない、男はこれだから」
聞くにも値しないとばかりに大間はコーヒーを一気に飲み干し始めた。僕はその横顔が痛
々しく見えた。
「そんなに強がらなくてもいいんじゃないか」
「へぇ?なんのことよ、まさか私が強がってるって、冗談じゃない、なんでそんなことし
なくちゃならないのよ、怒るわよ」
「でも手紙にはそう書かなかったじゃないか、あれは君の本心なんだろ」
本間はそれを聞き 腹を押さえて笑い出した 可笑しくて仕方ないと涙まで拭いて見せた 。
本当の大間は一体どっちなんだろうと分からなくなった。僕は顔を上げた。夜空にブルー
が北斗七星のように止まって見えた。けれどココまで降りてこようとはしない。苦しくな
いのだろうかと心配した。
「ああ書いたらきっと苦しむと思ったのよ、頭いいでしょ」
「そんなに憎い?」
「もうどうでもいい、もう会うつもりはないもの」
「聞いていいかい」
「そういう質問のされ方困るよ」
大間の返事も待たずに切り出した。
「なんでお母さんがそんな態度とってるのか君は知ってるの?」
「あの人はいつも間合いを伺っては肝心な所で逃げていくの、まともに話をした事なんて
ないのよ、だから分からないわ」
一呼吸置いて大間が横から僕の顔をじっと見た。
「あの人と何を話したの?」
「お父さんと出会う前のお母さんのことさ」
僕は知っているかと目で尋ねた。けれど大間は首を振った。
ほんの数時間前聞いた話を僕は一つ一つ言葉にした。あのとき俯きながら語った母親の体
温をそのまま伝えようと思った。大間はじっとそれを聞いていた。毎日のように継母に疎
んじられて育ち、仕事に忙しく家庭に無頓着な父親、大人の顔色を伺いながら暮らすうち
に殻に閉じこもり泣く事さえも怖くて封じてしまった子供時代。そして必死にしがみつい
てきた家庭からの追放、そして突然知らされた父の死。金太郎飴のようにどこもかしこも
苦々しい場面がつらなっていた。すべてを聞き終わった後、大間は目を伏せた。
「もしそれが本当なら、あの人は父さんと何で一緒になったんだろ」
「お母さんを求めたのはお父さんの方さ」
「そう言う事じゃないの、あの人は頭のいい人、自分がどんな事をしてしまうか予想でき
たはずじゃない、なのに何故結婚なんてしたのかわからないってことよ」
「お父さんにかけたんじゃないかな」
「どういうこと」
「過去に縛られ、身動き出来ずにいる自分を壊して欲しかったんじゃないかな」
「女を知らないからそんな事言うのよ、女は自分を変えようなんて思わない生き物、そん
な窮屈な事するより、ありのままを受け入れてくれるような男を捜すか、そんな男に仕立
てていくかのどっちかなのよ」
「じゃあ聞くけれど、今の自分が好きかい」
髪を耳にかき上げ大間が鼻を啜った。自動販売機のブーンという濁ったモーター音が何も
言えない彼女の苛立ちに聞こえた。蛍光灯に吸い寄せられた羽虫が目の前で同じ大きさの
円を描きせわしなく飛び回る。
「どうにかしたい、でも何をしたらいいか解らない、そんな時誰かに手を引いてもらいた
と思うのは自然な事なんじゃないかな」
「他人に自分の人生預けるなんて、すべて放棄したって事と同じじゃない」
「僕は君と出会ってやる気になれた、それと同じように出会いって人を変えるよ、お母さ
んもそれに賭けたんじゃないかな」
本心だった。大間に出会えって僕は自分の可能性を信じる勇気が芽生えた。だから好きだ
という気持ちと同じくらい彼女に感謝していた。
「じぁなんであの人は父さんを裏切ったの、自分から賭を始めておいて勝手に放りだして
逃げたじゃない」
「そうだね、君の言うとおりお母さんは逃げ出した」
「結局はそう言う事よ」
大間は吐き捨てた。
「いってたよ、赤ちゃんだった君の真っ黒な瞳に見つめられると、何故自分のような女か
らこんなピュアな命が生まれたんだろうって思たって。だから自分が抱くと君を汚してし
まいそうで抱けなかったって。でもお父さんと仲良さそうにしている君を見て寂しかった
って」
「自業自得じゃない」
「お母さんもそう言ってた」
大間は黙り込んだ。
「実は君のお母さんに酷い事言ったんだ、でも今思うと酷な事いったのかなとも思うよ」
「いいのよ、そんな事気にする人じゃないわ」
「そうかな 」 ...
「そうよ、だからもうやめて」
大間は耳をふさいだ。すると夜空にいたブルーが僕らの目の前にすーと降りてきた。そし
て大間の鼻をチョンチョンとつついた。彼女が顔を上げるとくるりと反対を向いて元気よ
く尾びれを振って見せた。その姿は『さあ行くよ』といっているように見えた。
「どこに連れて行くつもりなんだ?」
答えはなかった。黙ってついてこいと言わんばかりに前を向いたままだった。しかしその
姿は鱗がめくれ痛々しく見えた。
「お前こそ洞窟に帰らなくていいのか?死んじゃうぞ」
それを見た大間は空になった缶を側にあったゴミ箱に放り込んだ。
「私、ブルーと行く」
「おい、病院戻った方がいいって」
「あなただって、なにかあったらブルーが助けに来てくれるって思ったんでしょ、私も同
じよ。それに、ついて行きたいの」
どうしても行くという大間の頑なな意志を感じた。ブルーは成り行きをじっと見ていた。
彼女は髪を整え靴を履き直した。
「君が心配なんだよ」
「ごめんね、小林」
僕は呆れた。そして腹立たしくもあった。
「これじゃ男が逃げるわけだ」
「いいよ、仕方ないもの」
そう言っておきながら一緒について来てと目は訴えていた。
「行くよ、バイクに乗って」
大間の顔がパーと明るくなった。決着がついたと思ったのだろうブルーは再び夜空高く昇
っていった。僕は大間を抱きかかえバイクの後ろに乗せた。スカートの裾が車輪に絡まな
いように大間のお尻の下に押し込み整えていると彼女が言った。
「ありがとう」
聞き流した。僕は運転席に腰掛けハンドルを握った。彼女の腕が僕の腹にまわった。
「怒ってるの?」
「あたりまえだろ」
ブルーは碧い光の帯を引きずりながら北の空に向かって星の海を泳ぎだした。
「でも、うれしい」
真っ暗だった空が微かだがしらみ始めていた。朝露の香りを含んだ風は心地よい冷たさと
なって肺の中に吸い込まれていった。あれからどれくらい走っただろう。海岸沿いを未だ
北上していた。こんな遠くまで一人で来た事はなかった。さすがに尻も痛くなり、どこか
で休みたいと思った。けれどブルーがそれを許さなかった。少し目を離すと遙か遠くの空
を泳いでいる事がなんどもあった。その姿は生まれた川へ必死に戻ろうとする鮭にも似て
いた。とにかく一刻も早く僕らを目的地へ連れて行こうとしている強い意志を感じた。
大間は僕の背中に頬を押しつけ話しかけてきた。振動が背骨を伝った。
「なんだ、ん?具合悪いか?」
違うと大間の顔が背中をこすった。
「どうした」
「小林って変な人だよね」
「変態だってか?」
「え?そうなの?」
「なわけないだろ、でなんだよ」
「うん、どうしてここまでしてくれるの?」
何で今更こんな事を聞くんだ、いやな女だと思った。
「さあなんでだろ」
「なんでなの」
「不満?」
「やっぱり、もう嫌いになった?」
「もういいよ」
「なによぅ、そのぶっきらぼうな言い方」
つまらなそうに呟く言葉が吐息となって背中に降りかかった。
「そうだよね、化けの皮も剥がれたしね、仕方ないよね」
そう聞かれ、あの夜の海で怒る事も出来なかった自分を思い出した。あれ以来、自分を言
い訳で誤魔化してはいるものの、切なさは瞼の裏に張り付いたままだった。
「正直、辛かった、なんて事しているんだと怒りたくもなったさ」
「そう 」 ...
「でも嫌いになれなかった、気になって仕方ないんだ」
憧れは少なからず金のメッキで覆われている。僕はようやくそれに気づき、そして大間の
本当の声が聞こえるようになった。
「おかしいね」
「君が言うなよ」
「だって、私が貴方ならとっくに見捨ててるもの」
「しかたないだろ」
大間の腕が更に強く僕に巻き付いた。アスファルトは日本海へ突っ込んでいくように左へ
弓なりにカーブしていく、明るくなり始めた水平線が斜めに見えた。
「しっかりつかまってろ、こけたら二人とも死ぬぞ」
「いいよ死んでも」
「そう言う事は本当に好きな男にいって」
「今ならいいよ」
「それじゃいやだね、お情けみたいで」
「贅沢」
「そう言う事言うか、まったく」
大間はクスリと笑った。
「でもね嬉しかったのよ」
「?・・・なに」
「感謝してるって、言ってくれたでしょ」
「ああ、そのこと」
「うん、なんか初めて認めてもらえた気がした」
大間にとっての”初めて”という言葉が理解できなかった。
「何言ってんだよ、みんなが認めてるじゃないか、頭がよくて美人で、それに」
「上辺だけよ、私を必要としてくれる人はいなかった、頼られる事もね。でも小林は違っ
た」
「劣等感の固まりだったからプライドもなく素直になれたんだろうな」
「聞いていい?」
「さっきそう言う聞き方困るって行ったの誰だっけ」
「女はいいの」
大間の指が僕の腹の肉を摘んでねじった。
「痛いなあ、だからなんだよ」
「 将来何になりたいの』って聞いたら答えなかったでしょ、ねえ、今も言えない?」 『
そ言えば大間との喧嘩の発端はそんな事だったなと思い出した。カーブだった道は漸く終
わりを告げ、漁船の停泊する魚くさい港町に入った。微かにほの明るくなった空に恐竜の
ような首の長い街路灯が赤い光をこぼしていた ブルーはその遙か上を黙々と泳いでいた。
「医者になりたいんだ」
昔遊んだおもちゃを放り投げるようにわざと放り投げるように言った。
「医者?」
「あんな成績で医者なんて笑えるだろ」
「笑わないよ、でも何で?」
「俺、次男坊なんだ」
「ねえ、兄弟はいないって言ってなかったっけ?」
「5つ上の兄がいたんだ、でも僕が小学校5年の時肝臓の病気でさ」
「亡くなったの?」
「手術のしようがなかった」
それはまだ僕が生まれていない頃の話だ。兄、雅巳は小さい頃から何度となく入退院を繰
り返す日々を送っていた。肝硬変だった。このままだと20歳まで生きられないだろうと
主治医に両親に話した。母は何とか助けて欲しいと懇願した。医師は海外での肝臓移植手
術を教えた。だが、それには多額の費用がかかった。これといった財産などない我が家に
は天文学的な数字だった 諦める そんな言葉では現せない悔しさが両親をひねり潰した 。
兄が4歳になった時、それまで国内では認められていなかった生体肝移植手術が承認され
た。両親は喜び、自分の肝臓を提供したいと医師に申し出た。しかしその望みはあっけな
く絶たれた。肝臓移植に必要な型条件を満たさなかったのだ。当時移植には大きく分けて
三つの条件が定められていた。1,提供者は2親等以内の親族で、20歳から60歳まで
の自立した意志決定ができる健常者であること。2,提供する肝臓の大きさは体積の60
%までとすること。3,血液型は近い( 型→ 型 または 型→ 型 または 型 O O , A O A , B O
→ 型 または または または 型→ 型)ものとする事。父も母もA型でO型 B , A B O AB AB
の兄には移植が不向きだった。それでも免疫抑制剤をつかえば移植できないことはなかっ
たが父は検査時に心臓に異常が見つかり、小柄だった母の肝臓は小さすぎサイズ的な問題
で許可がおりなかった。また母は早くに二親を亡くしており、僕の家のばあさんも去年脳
溢血でこの世を去っていた。70歳になる爺さんは”俺のをやる”と医者に言ったが自殺
行為だと医者は聞き入れなかった すべての道は閉ざされた しかし両親は諦めなかった 。
兄を救う為に純粋な提供者を自ら作る事にした。それが僕だった。
「ひどいよ、そんなのモルモットじゃない」
大間が身を乗り出し怒った。
「危ないからじっとしてろ」
しかし僕はそう思わない、僕も兄が好きだったからだ。よく戦艦のプラモデルを作っても
らった。細くしなやかな指、そこから形作られるプラモデル、完成したそれを胸に抱き、
僕はよくはしゃいだものだった。兄はそれを見てほんの少し頬を緩ませ微笑むのだ。今思
えば、兄の怒ったり泣いたりした顔を見た事がない。どんなに具合が悪くても『大丈夫だ
から』と頭を優しく撫でてくれた。そして幼い僕は慕った。兄を包む静かで透明な時の香
りにふれ、いつの間にか彼の膝で寝てしまっている事がよくあった。
「兄も、大間と同じように頭のいい人でね・・・、憧れの人だった」
兄を助けたいと両親が必死になるのもよく理解できた。だから『雅俊、早く大きくなって
お兄ちゃんを助けてあげてね』という母の言葉にも反発した事はなかった。むしろその日
が来るのを待ち望んでいた。しかし兄は僕が大きくなるのを待ちきれなかった。僕が小学
校5年の晩秋の日、多量の吐血をしてそのまま帰らぬ人となった。両親は生きる目的をな
くし抜け殻のようになった。それは僕も同じだった。兄を救う為にこの世に生まれ、そし
て必要とされなくなった。どうしていいか解らなかった ”いらない子”そんな劣等感か 。
ら僕は自分に閉じこもった。このときから学校でのいじめが始まった。そんな僕を温かく
見守ってくれたのが今はなき爺さんだった。爺さんは兄の死に悲しみくれる息子夫婦の代
わりに僕を育ててくれた。
「雅俊、父さん母さんの愛が雅巳をこの世に授け、そして雅巳の生きたいという思いから
お前が生まれた。いっか、命ってのはそうやってつながっていくもんら、お前は”いらん
子”じゃねえれ、お前は自分の命を誰かにつなげねえとだめなんられ。お前にはみんなの
愛がつまってんだ、忘れるなよ」
その言葉を聞いてから僕は漸く前向きなれた。
「それで医者なのね」
まだ微睡みの中にいる漁港、軒を連ねる魚の直売所はまだ閉まったままだ。ヴーンという
エンジン音はシャッターに跳ね返り黒から紺に変わり始めた空に散っていく。先を行くブ
ルーを見上げながら僕は苦笑いをした。
「単純明快だろ」
「偉いよ」
「どこがさ、なれなきゃ只のホラじゃないか」
「でも、小林はこの前それさえ口にしなかったじゃない」
「実際、話せる状態じゃなかったし、まあ、今もどうかは解らないけれどね、でも初めて
他人に話せたよ」
「私が初めて?」
コクリと頷いた。
「うれしい」
大間は言った。
「大間がいなかったら、こんな事一生言えなかったんじゃないかな」
「少しは自信ついたって事?」
「がんばってみようと思うよ、だから」
「なに?」
二つの言葉が舌の先で天秤に掛かっていた。僕はそのうちの軽い方をあえて選んだ。
「こんな気持ちにさせてくれた大間に、僕の出来る事をしたいんだ」
夜中より明け方の風の方が冷たく感じた。しかし寒いというのではない、細胞の一つ一つ
の濁りを取り去り透き通らせるような涼しさだった。西の空が一気に明るさを増し、朝靄
の中から海に落ち込むように急な斜面の山が現れた。山頂を綿帽子のような雲が覆い隠し
ていた。ブルーがその雲の内めがけて方向を変えた。そして大間にも変化が現れた。背中
に押しつけていた顔を離し、キョロキョロと辺りを見回しだした。
「あっっ」
突然、大間が声を上げた。驚いた僕はブレーキをふんだ。
「どうした、具合が悪い?」
「ここ・・」
大間はバイクを降りた。そして大きく目をあけ360度まわりの風景を確かめ始めた。
まるで夢を見ているよう顔だ。
「おい、大間」
「私、昔、ここへよく来たは、泳ぎを覚えたのもこの海」
大間は記憶の淡い影を読みとり始めた。保育所の年中になった頃、親子で度々この海の近
くにあるコテージに来ては週末を過ごしたそうだ。ほっておけば離れていってしまう妻を
繋ぎ止めようと父がしていたのだろうと大間は当時の自分たち家族を語った。
「この道をいくと山を登っていくの、するとね」
林の中のでこぼこ道を行くと高台にでるらしい。日本海を見渡す眺めのいい場所だと大間
は言った。
「貸しログハウスが5棟程建っているの、この場所に来ると母も努めて明るく振る舞おう
としていたのか、普段より笑い声が多かったの。もしかしたらこれが本当の私たちなのか
もしれない、そう錯覚し、はしゃいだは」
彼女の言葉は自分たち家族にも木漏れ日がさした時があったのよと聞こえた。話し終わる
頃に空から星は消えていた。
「でもなんでだろ、ねえブルー」
大間はブルーを呼んだ、だがそのときにはブルーの姿もどこにも見えなくなっていた。彼
女は地図を無くした旅人のように途方に暮れた顔をした。
「心配すんな、ブルーは僕らをおいていったりしないよ、すぐ又現れるさ、それに僕がい
るだろ」
大間の手をとった。細い指、その指先が冷たく感じた。両手で暖め、ふと思った。僕は何
をしているのだろう。ほんの少し前まではダメ犬だった男、それが今彼女とこうやって夜
を駆け抜け朝を迎えている。ハッと気づいた。生きているってこういう事なのかもしれな
いと。
「大間、いこう、思い出のその場所へ。昔の君にあってこよう」
握っていた大間の手にそっとキスをした。