表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

愛するってどういうこと?

僕はブルーを肩に乗せ夜空を見上げていた。今夜の月は地上近く、黄色みがかり不気味に

思えた。

「会いたいな、大間に」

あれから一週間、何かあったらと互いに教えあった携帯に電話もなければメールもない。

続けていた水泳の自主トレにもぷっつり姿を現さなくなったらしい。今頃何をしているの

だろう、もしかしてあの男とよりを戻し、僕の知らない女の顔で甘えているのだろうか。

あの時、ああは言ってみたものの、大間の告白がボディーブローのようにじわじわ効いて

いた。嫌いになったわけじゃない、そんなことじゃない、大間の話を聞いたとき僕は悲し

みと怒りを感じたはずなのに、それを態度に表せなかった。そんな資格、自分にはなかっ

たのだと。それともそんな彼女を追いつめる事など出来なかったと、言い訳は幾らでもで

きる。けれど本当に好きなら取り乱し感情的な言葉を吐くべきだった。僕は自分の恋心を

疑った。薄っぺらな恋だと感じたから彼女は連絡をしてこないのかもしれない。

「恋愛になってないのかもな」

ブルーは大きな魚眼で僕を見つめていた。

「なあ ブルー いったい大間は誰が好きなんだ あの男?それとも亡くなったお父さん?」

この時、初めてどうやったら大間は振り向いてくれるだろうと考えた。今までそんな想像

をする自分さえ笑えたはずなのに その時の僕は彼女と向き合える自分を思い描いていた。

でもどうしたら .一つだけわかっていること、それは好きだけじゃだめだってことだ。

突然ブルーは身体を激しくふるわせ真っ白に輝きだした。そしていつかの夜の時のように

その光を洞窟の壁に徐々に集めだした。次第に人影が浮かび上がっていく。それは自分よ

り大きいぐらいのランドセルを背負っていた女の子だった。その子は泣いていた。袖で目

を拭きながらトボトボとこちらに向かって歩いてきた。歯を食いしばり必死に泣くのを堪

えようとしても頬をつたう涙はとまらない。あまりに切なげで僕は映像に向かって声をか

けそうになった。すると画面が暗くなった。それは女の子に向かって近づいていく男性の

後ろ姿となった。映像は男性の肩の下ほどのローアングルにかまえられ、固定カメラのよ

うに少しも動かない、女の子の前に立った男性は彼女の目線までしゃがんだ。ポケットか

らハンカチを取り出すと女の子の涙を拭き、一言二言話しかけた。うつむいていた女の子

がようやく顔を上げた。その顔を見て僕は声を上げた。大間だった。確かに幼かったが目

元や口元は今の彼女の面影をはっきり残していた。

「この女の子大間だよね」

ブルーはそれには答えず、幼い大間の姿と男性を写し続けた。女の子は泣くのをやめ、な

にやら男性の”言葉”に頷くと、小さな手を男性に向かってのばした。顔の見えないその

男性は小さな手を握った。満足そうに微笑む女の子。二人は手を振りながら僕の方に向か

って歩き出しカメラを跨ぎ僕の背中の方へ消えた。その後も同じような映像が幾つも映し

出されては消えた。それはまるで一人の少女の成長記録のようだった。そしてどの場面に

も父親らしき男性がいた。少女はいつも男性の手を独占し、この手は自分の為にあると言

わんばかりに僕には見えた。

「ファザコンだから仕方ないって言いたいのかい?でもそれじゃ父親の思い出に縛られ自

分を傷つけ生きるしかないじゃないか」

何を言ってもブルーは止めようとしない、こんなにも頑なな彼を見たのは初めてだった。

「あんまりだ、ひどいよ、君だって大間のこと好きだろ」

ブルーは自ら映し出す映像を見つめながら寂しそうな顔をした。そして瞼をゆっくりと閉

じた。横穴に溢れていた光は蝋燭の火が消えるように小さくなり、ついに暗闇に取って代

わられた。

「ブルー、どこ?」

闇はひっそりと息を殺し いくら呼んでも豆粒ほどの光さえ見つけられない 怒ったのか 、

それともあまりに非力な僕に呆れたのか、どちらにしてもこれ以上頼れない事だけは感じ

た。その時、胸ポケットの携帯着メロがなった。大間からかと急いで取り出すと、緑色に

光る液晶には見慣れない電話番号が浮かんでいた。悪戯かと思い放っておいたが着メロが

止む様子はない、仕方なくボタンを押すと年配の女性の声が僕の名を呼んだ。

「小林雅俊さんですか?」

「あ、はい」

僕の訝しげな返事に女性は声を改めた。

「突然のお電話申し訳ありません、私、太田産婦人科の看護主任をしております古俣と申

します」

「なにか?」

「大間さんってご存じですか?大間百合子というお嬢さんなんですが」

「ええ、同級生ですが」

「え、あなた学生さん?この前、彼女と来られた男性の方じゃないんですか?」

看護士の言う男性が牛丼屋で突き飛ばした奴じゃないかとピンときた。しかし僕は彼女の

問いには答えず反対に聞き返した。

「大間に何かあったんですか」

「あの、中絶同意書に署名された小林さんてあなたですよね」

その言葉を聞いていろんな事が頭の中を駆けめぐった。大間があの男と言い争った訳、あ

の日、取り乱して僕の胸で泣いた本当の意味、そして何日も連絡のない理由、けれどそん

なことより看護婦のその後の言葉が早く聞きたかった。

「ええ、僕が書きました、彼女に何かあったんですか」

「あのですね、予定通り手術は終わりました。けれど術後も出血が多かったので暫く休ん

でもらっていたんです。三時間ほどしても状態がよくならないんで今日は入院していただ

こうと言う事になったんです。それで今夜泊まられる事をご家族に電話させて下さいって

お願いしたんですけれど、ご本人がどうしても嫌がられて。お気持ちは分かるのですが当

院としましても万が一の事があると困りますので、仕方なく緊急連絡先に書かれていたあ

なたにお電話をと、え!嘘、いなくなった?」 ..

看護士達の慌てる声がスピーカーの向こうで聞こえた。いくつもの足音が響き、遠くで大

間さーんと呼ぶ声が聞こえた。ほっておかれた僕の不安は迷子のように累乗し増大した。

「ちょっと、看護婦さん、ちょっと、おい、何とか言えよーーー、おい、おーーーい」

我を忘れて叫んでいた。それが30秒だったのか1分なのかは解らない。とにかく長く感

じたことは確かだ。そして息を吹き返したかのようにゴトゴトという受話器を持ち上げる

音がした。せっぱ詰まった声が僕の名を呼んだ。

「小林さん、大間さんが病院を抜け出したようなの、今無理をしたら傷口が更に開いて大

量に出血してしまうわ。もしかしたら彼女ご自宅に帰っているかもしれないから電話番号

教えてください」

「すいません、彼女の携帯しか知らないんです」

「困ったわ .彼女携帯を忘れていったのよ、中を見ようにもパスワードでロックされ ..

ていて見れないし」

その時、以前噂好きの先輩から聞いた話を思い出した。大間の家はこの町から電車を二つ

乗り継いだ駅の前に新しく建った温泉付きマンションだと言っていた。

「あの僕、彼女の家たぶん解ると思うんで行ってみます。もしいたなら病院に連れて帰り

ますから」

「主任、8号室の篠田さん破水しました。それから10号室の宮川さんチアノーゼ起こし

てます」

「あ、はい、今行きます、お願いね、待ってるわよ」

電話は一方的に切れた。慌ただしい空気の余韻が耳に残った。

「ブルー、いくよ、やっぱり大間をほっとけない」

そう言うと振り返る事もせず洞窟を飛び出した。淀んだ月は更に赤みをまし、怪しげな雲

にその身を浸し、じっとこちらを見据えていた。それはまるで、これから何が起きても知

らないぞと脅されるような威圧的な光だった。

僕は親父のバイクを持ち出し、大間の家へ走らせていた。免許なんて持っていない。ただ

家の回りを乗り回していたので運転はおてのものだった。道沿いのスーパーやビデオ屋は

深夜だというのに光々と明かり、夜をぼやけさせていた。混み始めたので交通量の少ない

農道に入った。次第に離れていく国道、ヘッドライトの明かりが数珠繋ぎに見えた。それ

はまるで最近よくテレビでみるドロドロの血液に似ていた。田舎だと思っていた故郷が眠

らない町へと変わっていた。バイクは市街地に近づき農道は市道に合流した。里帰りか、

観光か、他県ナンバーのワンボックスカーが前を塞いだ。追い越そうとすると派手な電飾

トラックが向かってくる。気を抜けばぺちゃんこだ。はやる気持ちをじっと我慢しハンド

ルを握った。気づくと横長のマンションが市街地の明かりに照らされ浮かんでいた。ほど

なく広い踏切に出た。貨物車が通り過ぎたばかりの遮断機が斜め45度まであがった。身

をかがめくぐり抜けた。焦げ茶色の外壁のマンション、街路灯に照らされた敷地は平垣代

わりの低い花壇でオシャレに囲われていた。歩道にバイクを乗り捨て足を踏み入れた。携

帯の液晶は11:50。見上げると幾つかの部屋に明かりが灯っていた。エントランスに

駆け寄った。しかしそこはオートロックの半透明のガラス扉。たたき壊すほどの勇気はな

い。辺りを見回すと一台の車が敷地の中へ入ってきた。外灯に照らされたそれは真っ白な

ベンツだった。マンション地下駐車場進入口へゆっくりと進路を変えた。迷っている暇は

なかった、車へ駆け寄り前方を塞いだ。ヘッドライトで運転手の顔は見えない、回り込み

運転席側のガラスを叩き叫んだ。女性だった。その引きつった顔が固まっていた。手を合

わせ頭を何度も下げた。運転席のガラスが2センチ下がった。

「なんですか、変なことをすると警察呼びますよ」

「驚かせてすいません、でも泥棒でも痴漢でもありません、信じてください」

「どちらにしてもこんな真夜中に突然車を止めるなんて非常識でしょ」

「このマンションに住んでる友人の命が危ないんです」

「じゃあご自分で救急車でも呼べばいいじゃない、違う?」

女性はにらみつけた。

「携帯が繋がらないんです。もしかしたら部屋で倒れているかもしれないんです」

なるほどと女性の目尻の角度が少し下がった。

「その方のご家族はいないの?」

「お母さんと二人暮らしなんですけれど、仕事でいつもいないらしくて」

「ちょっと待って」

彼女はガラス窓を全開にした。大きな金色のボタンの付いた黒っぽいスーツに身を包み、

プラチナのイヤリングがかろうじ見えるほどショート、さながら雰囲気は敏腕美人女性ア

ナウンサーだった。

「貴方のいう彼女って?」

「大間といいます、大間百合子、高校の同級生なんです」

女性が僕の腕をつかみ自分に引き寄せた。

「今なんて言ったの」

「大間百合子という同級生の命が危ないんです、助けたくてもどこにいるかもわからなく

て、もしかしたら家に帰ってるかと思って来てみたんですけれど、中に入れなくて困って

るんです。どうか僕をマンションの中に入れてもらえませんか、ご迷惑になるような事は

絶対にしません」

「命が危ないってどういう事よ」

彼女の顔に恐れはなかった。その代わり焦りと不安の入り交じった皺が眉間に浮き出して

いた。ハッとした。もしかしたら ...

「本間のお母さんですか?」

「そうよ、ねえどういう事よ、詳しく話しなさい」

「待ってください、話は後にして家に電話かけてみてもらえますか?帰ってるかだけでも

確かめたいんです」

母親は車から降りるとバッグから携帯を取り出し耳に当てた。

「お母さん、部屋の明かりは?」

「あの子、いつも部屋にいるから居間の電気はつけてないの」

マンションを見上げ鎖のストラップを小指に絡め唇をかみしめる。呼び出し音は鳴り続け

た。我慢しきれず携帯を閉じ、バッグを抱えてエントランスに向かって走り出した。

僕は母親の後を追った。彼女はエントランス脇に置かれている大理石作りのオートロック

解除装置のパネル『指紋感知』に人差し指を置いた。一秒もたたないうちに[本人確認

OK]という表示があらわれた。それと時を同じくして半透明の扉が開いた。僕は母親に

聞いた。

「一緒に行っていいですか?」

「名前なんて言うの」

「小林雅俊といいます」

「嘘じゃないのね?」

娘が危険な状態にいる事は間違いないのかと念を押された。僕は目を見て頷いた。

「じゃあ来なさい、早く」

3機あるエレベータのうち右から2番目が開いた。まるで僕らが乗り込むのを知っていた

かのようだった。後で知ったがエントランスの扉が開いた時点で各階に止まっているエレ

ベーターのうち一番近いものが自動的に呼び出される仕組みになっているらしい。扉が閉

まり重い空気に閉じこめられた。途端に母親はこちらを振り返った。

「で、百合子はどうしたの」

どこまで話していいのか迷った。

「何、いいなさい」

詰め寄る母親、そうしているうちに扉は開いた。不満そうな表情で彼女はエレベータを跳

び出ると、マンションを東西に貫く通路を小走りに駆け抜けた。エレベータから5つめの

扉の前に立つとバッグから鍵を取り出した。鍵を差し込み片ハンドルのノブを降ろした。

「百合子~、百合子・・・帰ってるの?」

ヒールを脱ぎ捨て暗闇に飛び込んでいく背中。奥へと続く通路の照明がともった。

「百合子」

あちこちのドアを開ける音、娘を呼ぶ母親の声、玄関に漂うざわついた空気。緊張感が張

りつめた。

「いましたか?」

思わず声が出た。

「 ...」

言葉は返って来ない。許しも得ずに上がり込んだ。半開きになっていた扉を開けるとリビ

ングにへたり込んでいる母親の背中があった。

「すいません、勝手に」

母親の手に1枚の便せんが握られていた。彼女は黙ったまま便せんを僕に差し出した。

『ママへ』と書かれていた。


ママへ

とうとう最後までママは私を怒らなかったね。

ママ、私のしていたこと気づいてたよね?なのに何故?

やっぱり愛していなかったから?

私、ママに抱いてもらった記憶がないの。なんでだろ ...

ママがどんなふうに笑うのかもしらないし。

私ってやっぱり、嫌われてた?

産んだこと後悔してた?

こんな事、面と向かって怖くて聞けなかった。

父さんが言ってたの。

ユリの事一番好きなのはママなんだよって。

そうだったらいいなって、だから、そう信じようとしたの。

でも、側にいてくれたのはパパだけだった。

なのに、ねえ、何でパパまで私から奪ったの。

そんなにいけない事私してたの?

わからないの。

ねえ、私 ...

どこへいったらいいんだろ、誰に聞いたらいいの。

もう寂しいって言う言葉も忘れてしまった。



母親は重い口を開いた。

「ねえ、百合子どうしたの」

声を押し殺し泣いていた。ファンデーションが剥がれ、幾筋もの涙の筋が出来ていた。僕

は今日大間が堕胎手術をしたことを話した。出血が止まらない状態で病院を抜けだし、今

も危険な状態でいる事も説明した。

「あなたとの?」

答えに迷った一瞬、それで母親は全てを悟った。

「あの人の子供なのね」

再び手紙に目をやり肩を落とした。

「行きそうなところあなたは知らないの?」

「ここに来る前に水泳部のやつらとか、彼女がよく話す女子に連絡とってアドレス教えて

おきました。見かけたら直ぐ連絡よこすようにって言っておきました。でも今になっても

誰からも」

「そう」

「お母さんは知らないんですか?」

「読んだでしょ、娘とはもう何年も話らしい話をしていないの」

あまりに無責任な母親に腹が立った。

「こうなって満足ですか」

アイスピックのような鋭角な言葉で突き刺してやった。

「大間言ってましたよ、あなたが憎いって。残酷すぎませんか?彼女は貴方を憎んだり嫌

われることで家族の絆見つけようとしていたのに、それさえも無視するなんて」

母親は激しく頭をふった。

「そんなに自分が可愛いんですか、なら産まなきゃよかったんだ」

「あなたに何がわかるの」

「何をわかれっていうんです」

「いいわよ、もうやめて」

「いつも、そうやって逃げていたんだ」

「どうしようもなかったの」

「はぁ?母親なんだろ、娘一人愛してやれないんですか」

ぶるぶると体を震わせ言った。

「できるものならそうしたわ、でもわからないのよ」

「なんだよ、それっ」

「私ね・・・」

ぽつりぽつりと自分の生い立ちを話し始めた。彼女の母親は彼女を産みそのまま病院で死

に、父親は生まれたばかりの娘が片親では可愛そうだと一歳の誕生日を前に、子供が出来

ず実家に戻された女性と再婚した。しかし、半年もしないうちに継母は身ごもった。結局

不妊は前の亭主が原因だった。そして男の子が生まれた。子供をあきらめていた継母の喜

び様は半端じゃなかった。息子を溺愛し、反対に二歳になる彼女を疎んじた。父親のいる

前では平静を装い、子供だけになると彼女につらく当たった。時には激しく叩かれ、また

ある時は食事を与えられなかった。優しい言葉などかけてもらえず、それこそ母の胸に抱

かれたことなど一度もなかった。彼女が中学生になると継母は一切口をきかなくなった。

それどころか邪魔者は早く家を出て行けといわんばかりに、全寮制の私立高校に無理矢理

入学させられた。家に帰ったのは父親が脳溢血で急死した時だった。葬式が終わり後かた

づけをしていた夜、継母に『やっとあなたと縁が切れたわ』といわれたそうだ。その時か

ら彼女は独りで生きざるをえなかった。自分の力だけで大学を卒業し、都会の名門私立高

校の教師を経て現在の予備校に引き抜かれた。彼女はがむしゃらに働いた。受け持つ生徒

に徹底した指導を行い、高い確率で第一志望の大学へと送り込んだ。人気は鰻上り、美人

講師として予備校の看板スターとなった。お金や男に不自由しなかった。けれど心を許せ

る相手は現れなかった。そんな時に百合子の父、智久と出会った。彼は童話の絵本作家を

していた。たまたま女友達が子供を産み、出産祝いに出かけた時にそこに智久がいた。彼

は女友達の義弟で自分の書いた絵本をプレゼントしにきていた。彼女は智久の柔らかな空

気に心許し、屈託のない笑顔に惹かれた。そして二人の恋は始まった。彼女は今までの辛

かった過去を智久に打ち明けた。孤独、怒り、虚しさ、自分でも驚くほど言葉はあふれ出

した。他人にそんな話をするのは初めてだった。智久は彼女が話し疲れ眠るまで聞いた。

救われた気がしたと彼女は思った。そしてお腹に百合子が宿った。智久に結婚を申し込ま

れた。けれど返事が出来なかった。家族を持つ事が怖かった。だまって堕そうかと本気で

悩んだ。そんな彼女に智久は一冊の絵本を渡した。それを見て迷いが消えた。本の内容を

話してはくれなかったが、智久の一途な思いがその本には込められていて、彼と幸せにな

りたいと思ったそうだ。そして二人は指輪を交わした。

「愛されるってこういう事なんだって初めて気づいたの」

これで自分にも家族が出来る、不安と期待の10ヶ月だった。予定日より2週間遅くにそ

の日はやってきた 想像もしなかった痛みとともに百合子は生まれた 医者は言った 『

母さん似の美人さんですよ』手渡された小さな命は力一杯泣いた。あまりに激しい刹那の

叫びに彼女はたじろいだ。この子は自分に何を求めこうも泣くのか、気づくと手が震え傍

らにいた智久に我が子を託した。そんな彼女の気持ちを察し、智久は微笑み言った『僕が

君とこの子 いっぱい愛してあげる だから焦る事なんてなにもないさ よく頑張ったね 、

ありがとう 、彼女はその言葉を信じ頷いた。その日から記憶にない実母の影を想像しな 』

がらの育児が始まった。智久は絵本を書く傍ら、彼女と百合子の世話をした。まるで二人

の赤ん坊をあやすようだった。ここちよかった。けれど、どうしても赤ん坊を素直に愛し

てやれなれなかった 毎日 必死に育児をし ベビーベッドに寝かせつけるだけで精一杯 。

赤ん坊の真っ直ぐな瞳に見つめられるとどうしても顔が引きつり笑ってやれない。愛さな

くちゃと思えば思うほど 智久が優しければ優しいほど彼女は自分に閉じこもっていった 、

そしてその反動は泣きやまないわが子への荒々しい言葉となり、気づくと目をつり上げ手

をあげそうになっている自分がいた。

「彼ね、昼間は僕がみるからって、復職を勧めてくれたの。仕事しながらなら気持ちに余

裕が出来るんじゃないかって」

一年の育児休暇を終えた後、彼女は予備校に戻った。智久の言うとおり鬱屈していた自分

から解放された気がした。久しぶりの仕事は楽しく、夜遅くまで帰らない時もあった。家

にいない母親より、いつも側にいてくれる父親に百合子がなつくのは自然な成り行きだっ

た。いつしか母と娘の間を目に見えないガラスが隔てていた。

「帰るとね、百合子、彼の胸の中でスヤスヤ幸せそうな顔で寝息たててるの。でね、それ

を見ながら嫉妬してる自分が惨めでね。彼に甘えて仕事に逃げた罰、気づいたときには抱

きたくても抱けなくなっていたわ」

彼女は家庭で自分の居場所を無くしていった。智久の愛がなくなった訳ではない 。しか

し仲のいい父と娘の空間に割り込めなかった。孤独だった。寂しかった。自分が一番いけ

ないと知りながら、智久以外の男性に救いを求めてしまった。

「それが公園で抱き合っていたっていう若い男なんですね」

その時の自分を悔やむようにため息が一つ落ちた。

「みんな知ってるのね」

「大間、ショックだったって言ってましたからね」

「そう、そうよね」

「でも何故別れようなんてしたんです、少なくとも旦那さんに落ち度はなかったはずでし

ょ」

「だからよ」

「そんなのわかりませんよ」

「 彼は私を救おうといつも必死だった でも自分が傷ついていってるのに気がつかないの

可愛そうで見てられなかった。だからこれ以上側にいちゃいけないって、それで百合子を

彼に任せて身を引こうとしたの。でも本当のこと言ったら彼は私を捨ててはくれない、だ

から嫌いになったと罵ったの」

目にかかった髪を耳にかけ直した。横顔に疲れを感じた。

「それってあまりにも身勝手すぎませんか、可哀想すぎるよ」

「ええ、酷い妻で酷い母ね、でも解ってはもらえないでしょうけれど、誰より家族のまま

でいたかったのは私よ」

「父親を殺したのはあなただと大間は言ってましたよ」

「私もそう思うわ、周りにいる人を不幸にしながらじゃないと生きていれないのかもしれ

ない」

それを聞いて、もう何故と問いかえす気にはなれなかった。この母親はずっともがいてい

たのだ。僕は罪を認め十字架にかけられた罪人を鞭で打ち据えるなど出来ない。母親はし

めった声で言った。

「お願い、あの子を助けて」

湿度が上がってきたのか、自動運転になっていたクーラーの羽がモーター音とともに動き

出した。カチカチカチという音が二、三秒したあと、なま暖かい風が吹き出し始めた。部

屋の角におかれた観葉植物の大きな葉がゆらゆらと揺れた。昔はやった電気仕掛けのダン

シングフラワーのようだった。

「貴方はなにもしないんですか」

母親は下を向い鼻をすすった。

「無責任すぎませんか」

「私はあの子をつなぎ止めるものをもっていないのよ、出来る事と言えばあの娘の前から

消えるくらい」

「本当にそんな事思ってるんですか」

「追いかければ逃げていくは、もう許してはもらえないのよ」

そう言いかけたとき携帯にメールが入った。三年間、大間と水泳部で一緒にだった萩原美

里からだった。


父が海へ向かってスイカ畑の中を歩く百合子っぽい女の子みかけたって、なんなら父の携

帯に電話ちょうだい、何時でもいいから。080-5555-****


美里の父親は子煩悩で娘の応援によく競技会場にきていた。その際、大間とも何度か話し

をしていたのをみている。彼は誰も育てたことのないスイカを県の大学と共同開発してい

た。昼も夜もなくスイカ畑で新種の栽培に挑む姿は周りの農家にとって異端児に映ったよ

うだが、僕の父親も美里の父親の事を彼は頭のいい情熱的な男だとかっていた。

「あの子みつかったの?」

「まだわかりません、でもそれらしい人を見かけたって言うから行ってきます、お母さん

はどうしますか」

しばらく考えた後母親は首を振った。歯がゆかったがこれ以上言い争いをしている暇はな

かった。

「彼女から連絡がはいるかもしれないので家にいてください。もし電話がかかってきたら

何処にいるのかを聞いて僕が迎えに行くまで歩き回らないように言ってください」

「ええ、そうさせてもらうわ」

申し訳なさそうに母親は頭を下げた。携帯の番号をサイドボードの上にあったメモ用紙に

書いて渡した。

「待って」

脇にあった本革のショルダーを引き寄せ、焦げ茶色の財布からありったけの札を取り出し

た。

「タクシー代にして、足りなければあとで払うから」

割り切れなかった。というより納得できなかった。娘のことを心配しているはずなのにど

んな理由があれどうして他人に任せられるのか。もやもやとしたわだかまりが僕を飲み込

もうとしていた。重なって一枚板のような1万円札を手に持ちながら鼻をすすった。

「こんな事しか考えつかないのよ、許して ...」

「きっと連れて帰ります。だからちゃんと話し合ってください。このままじゃ誰もすくわれ

ないでしょ」

「そうね」

短すぎる返事に不安になった。

「約束ですよ」

母親は静かに頷いた。それを見届けると僕は部屋を飛び出した。日付は変わろうとしてい

た。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ