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剥がれた鱗

あれから一週間、僕らは毎日のように洞窟にいた。遊んでいた訳じゃない、大間に追試

の勉強を教えてもらっていた。僕は大間が簡単に洞窟へ降りて来られるように草木を伐採

し、新しい道を造った。汗だくの作業だったけれど彼女はとても喜んでくれた。

『それでこそ男子、こういう心遣いが女性には嬉しいのよ、ありがとう』

僕と彼女とブルー、二人と一匹が顔をつきあわせ、朝から夕暮れ近くまで時間も忘れ勉強

した。テキストだけ配って終わる数学の上田より遙かに理解できた。異国の文章だった古

文も彼女が話すとおもしろい物語に聞こえ、続きが気になり、それが興味となり学習意欲

となった。とにかく今まで詰め込むだけの苦しい勉強が”知る”喜びに180度変わった。

「万葉集とか読むともっと興味がわくかもしれないよ、あれは他人のラブレター読んでる

みたいな気にさせられるから」

そういって大間はそらで何首か詠んでくれた その中に今の僕にぴったりの一首があった。


門部王の恋の歌一首

(おう)の海の潮干の潟の片思(かたもひ)に思ひやゆかむ道の長手を飫宇の海の潮が引い

た干潟ではないが、片思いにあの子を慕いながら行くのだろうか、長い旅の道のりを。


期待など抱かず、ただ大間を思いながら自転車をこいで家路を帰る自分の姿と重なった。

昔の人もそんな気持ちになったのかと知ると少し救われた気がした。

「大間は何でも知ってるね、やっぱりかなわないよ」

僕が家から持ってきたナビスコオレオを頬張っていた大間は口に手を当てた。そしてある

程度かみ砕いた後、咳き込みながら言った。

「大げさよ、小林はただ勉強の仕方が間違ってただけでしょ、今の調子ならすぐに上にあ

がれるわよ」

やる気を出させるための褒め言葉とはわかっていても嬉しかった。学力が上向いていくと

いう充実感より、大間の善意になんとか応えられているという事が男としてのプライドを

さらに奮い立たせた 誰かの喜ぶ顔が見たくて勉強するなんて考えたこともなかった。

そんな浮かれた僕を見て大間は笑い、そして何気なく聞いてきた。

「ねえ」

「ん?」

「小林って、勉強して何になりたいの、何かしたいことでもあるの?」

言葉に詰まり、笑い顔がこわばった。

「ないよ」

「ほんと?」

黙り込む僕を見て大間は笑った。

「なんだ、あるんじゃない、ねえ教えてよ」

「いやだ」

「なんでよ、ケチ」

「君みたいな人にはわからないかもしれないけれど、そんなこと話せるほど僕は立派な人

間じゃないょ」

「なによそれ、私と何が違うっていうのよ、小林だって出来ない訳じゃないでしょ」

大間は不機嫌そうに口を尖らせた。僕は彼女と何が同じなんだとかっときた。

「あるさ、さっき君が言ったろ、僕は勉強の仕方を間違ってたんだって。そうさ、君がい

なければその事に気づかなかった。それだけじゃない、何をするにしたって僕はまっすぐ

に道を歩けない。だからいつも遠回りして疲れ果ててしまう。僕だって思うように生きた

いよ。でも何をしたって思う事の10分の1も進めない。夢を語れないなんて自分でも恥

ずかしいけれど、夢がありますなんて言ったりしたら直ぐその後、多分無理だろうなって

思っちゃうんだよ。だから」

「じゃあこんな勉強なんて無意味じゃない」

「違う」

小さな声でぼそりと言った。

「大間といられた」

池の畔で僕らを照らしていたブルーが明かりを少し弱めた。

「何、子供みたいな事言ってるの、そんなことの為なら私もうこないよ」

大間を喜ばせようといった訳じゃない、本当の気持ちだ、高校生活の中でこれほど楽しく

て満ち足りた日はなかった。うれしくて仕方なかったのに、彼女に無意味だと切り捨てら

れ悲しくなった。

「大間には馬鹿らしいと思うんだろうね、でもこうやって毎日自分を前に押し出すだけで

必死なんだ、怠けてる訳じゃない。万年補欠の選手が毎日訓練する辛さだってこの世には

あるんだ。夢がないんじゃない、何でも自由になる君とは違うんだ」

今にも泣きそうな目で唇をかんだ。恥ずかしい自分をさらけ出させた大間を恨んだ。彼女

はそんな僕に驚き、口に手を当てた。まるで見た事もない生き物をみるような、初めてブ

ルーを見た時以上のショックを受けているようだった。

「行きたきゃいけよ、これが僕さ、幻滅したんだろ、嫌いになればいい、というか初めか

ら何とも思ってないか」

「ひどい、そんな言い方しなくても」

言い返そうとすると ブルーが池を飛び出し もうやめろと僕の顔の前でイヤイヤをした 。

咄嗟に手で追い払った。ブルーは水面にたたきつけられた。手を挙げた事など今まで一度

もなかった。初めての事で手が震えた。大間が僕の頬をはたいた。

「なにするの、ブルーにあたるなんて卑怯よ」

大間は鞄を抱え立ち上がった。

「ブルー、私と行こう、こんな所にいたら殺されちゃうよ」

お菓子の入っていた薄いレジ袋に池の水を入れながら、大間はブルーをその袋に呼び込ん

だ。

「ダメだよ、ブルーはこの洞窟から出て行かない」

「なによ小林のペットじゃないでしょ、私だって友達よ」

僕は首を振った。

「そうじゃない、ブルーはこの洞窟から離れては生きられないんだ」

以前、ブルーを胸ポケットに入れ夜の山を散歩しようとした事があった。鱗が乾かないよ

うに近くの小川までいくつもりだった。けれど横穴を4、5メートル離れるとブルーに異

変が起きた。身体から発せられていた碧い光は炎のような赤に変わり、ポケットの中で苦

しそうに身をよじらせ始めた。何が起きているのかよくわからなかった。慌ててポケット

からブルーを取り出した、鮮やかな赤が腐った血のようなどす黒く鈍い光にかわった。

そして、終いには痙攣を起こし硬直した。焦った、手のひらに乗せたまま横穴に戻り池に

ブルーを浅瀬に浸した。けれどピクリとも動かずない、赤黒い光は次第に弱くなっていく

ばかり。ついには焚き火の残り火が消えるように光は失なわれた。暗闇の中、水を叩く

尾びれの音も聞こえない。いたたまれず大声で叫んだ。しかし、それもすぐに静けさにの

み込まれた。何度も何度もブルーを呼んだ、何も変わらない、死んだと思った。大切な友

達を殺してしまった 言いようのない後悔が背筋を凍らせた 膝を落とし地面に手をつき、

頭を池につっこむように崩れ込んだ。声にならない嗚咽が水面をふるわせた。どれくらい

そうしていただろう。池に浸した顔の周りがふぅっと碧く光り始めた。水の中に顔を入れ

目を見開いた。いつの間にかブルーは池の奥底に沈みその体からほんのわずかだが光を放

っていた 息をのんだ 心臓の鼓動のようなリズムを刻みながら碧い光は少しずつ強さを増

した。気づくとブルーの身体が浮かび上がってきていた。たまらず水の中に手を伸ばした。

小さな身体を手の平に乗せたとたん目も眩むほどの閃光が闇を一変させ、と同時に元気の

いい尾びれの感触が手を叩いた。あの時の喜びは今も忘れない。

「じゃあ一生この横穴にいなくちゃならないって事?そんなの酷いわ」

大間がくってかかってきた。持っていたビニール袋の水が飛び跳ね僕の頬を濡らした。僕

はそれを手の甲でぬぐった。

「でも、それがブルーの運命なんだ」

ブルーが恐る恐る水面に顔をのぞかせた。

「ごめんな、ブルー」

頭をなぜながら謝ると、ブルーは指を軽くかんだ。痛みと言うほどではないがささやかな

抗議だった。しかしすぐに尾びれを振って僕の手に身体をこすりつけてきた。大間にはそ

れが我慢ならないようだった。

「ブルー、おやめなさいよそんなこと、こんな乱暴な奴のどこがいいの」

けれどブルーは離れなかった。嬉しそうに指の間をすり抜け、いつものようにじゃれた。

それはまるで僕の指に輝く宝石のようだった。

「 ・・・ ブルー 見損なったわ このいくじなしと一生この穴蔵で過ごしたらいい さよう

なら」

捨てぜりふを残し大間は出て行った。日の光を受け彼女の背中が横穴の入り口に影を作っ

た。何か言葉をかけてほしそうに影は暫くそこにとどまった。

「もう来ないのかい」

「ええ、これ以上教える気持ちにもなれないし」

そういうと大間の背中は消えた。さっきまで楽しく話していたというのに、僕たちの時間

はあっという間に砕け散った。初めから綱渡りしている事ぐらいわかっていた。大間が気

まぐれで僕とこうしていた事もだ。夢から覚めた脱力感が瞼を重くした。彼女の笑い声が

耳に残っていた。

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