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洞窟の親友

「ねえ、まだ?」

大間はバックを胸に抱え自転車の後ろをついてきた。

「もう少しさ」

僕らは角田山の本道から逸れ、細い山道を登っていた。角田山は高校の西側にある標高481メートル

の山だ。僕の家は麓から少しあがった場所にあり、この辺は子供の頃からいつも遊び回っていた場所、

生い茂る木々の隙間からは稲のジュータンを敷き詰めた田圃の真ん中に僕らの高校がよく見えた。

「でも、ほんと学校に近いのね」

「距離だけはね、でも僕の頭じゃ今でも遙かに遠い所にある学校さ」

「どういうこと?」

「東大の近くに住んでる人が東大に行ける訳じゃないってことさ」

「でも受かったんでしょ」

「それが不思議なんだ」

「他人事みたいな言い方」

「そうだね」

「そうだねって、もう・・・、ねえまだ?」

大間は首筋の汗をハンカチで拭いながら肩で息をした。途中自転車を捨て、僕は彼女の手を引き、

道無き道に分け入った。勢いよくのびた雑草が壁のように行く手を阻んだ。

「ちょっと、どこまでいくのよ」

少し切れかけかな?まずいな~と思ったその時、目印の木を見つけた。

「この下さ」

僕は小道から下を見下ろした。今まで登ってきた山道の傾斜とは比べものにならぬ程きつい斜面、

大間は隣にやってきて僕の腕を掴み下をのぞき込んだ。

「もしかしてここを降りるの?」

「大丈夫」

近くの木の根本の草を掻き分け、工事現場で使うような黄色と黒のビニールの紐綱を取りだした。

そして、それを木に結びつけ斜面の下に放り投げた。

「捕まって降りて」

僕は綱を掴みロッククライマーのように斜面に向かって降り始めた。彼女は動こうとしない。

それどころかしゃがみ込んで首を振った。大間の生足が目の前に近づいた。ともすると下着が

見えそうだった。しかし、視線をずらすとかえって嫌らしくなってしまいそうで出来なかった。

「怖いわ」

「大丈夫だって、さあ」

左手で綱を握ったまま右手を大間に伸ばした。それでも彼女はためらった。

「ならこうしよう」

僕はもう一度大間の所まで戻った。そして彼女の背中を抱くようにして綱を握り、彼女を包み

込む籠になって斜面をくだり始めた。

「重いわよ」

「まかせとけって」

自分でも驚くほど大胆になっていた。大間は僕の胸に体重を乗せた。甘い香りが鼻先をくすぐる。

夢の中の出来事のような気もした。大切なものを守るんだと僕は男になった。右足、左足、右足、

左足、号令をかけながらゆっくりと斜面を降りていく。枝に止まっていた野鳥が訝しげにこちら

をのぞき込んだ。心臓が爆発しそうなほど高鳴った。大間にこの音が聞こえてはいないだろうか?

気になって彼女を覗くと怖いのか目をしっかりつぶっていた。

「まだ?」

「いいよ目を開けて」

斜面途中の小さな平地に降り立った。大間は綱を握ったままゆっくりと目を開けた。そこには人

ひとりがようやくしゃがんで入れそうな横穴が口を開けていた。

「ここ?」

「そう、僕しかしらない洞窟さ」

「コウモリとか虫とかいない?」

大間は怪訝そうに中を覗いた。

「コウモリはいないけどムカデくらいは」

言い終わらないうちに大間は僕の背中を穴の中へ押しやった。

「まってょ、準備があるんだから」

僕はポケットからライターを取りだした。何でライターを持っているの?という目で彼女はこっち

を見た。それはすなわちタバコを吸う人?て聞かれている事と同じだった。

「吸わないよ、これは部室でお湯を沸かすとき使うためのものさ、ホントだって」

そういうとライターの火を暗闇にかざした。ぼんやりと穴の内壁を明かりがなめた。頭を低くし少し

ずつ中へと入っていった。奥の冷気が足下を流れていく、体を横にし大間を手招きした。意を決した

のか彼女はポケットから輪ゴムを取りだし髪を束ねた。

「ちゃんとみててょ、いい?」

大間は膝をかがめウサギ跳びのように中へと入ってきた。そして近くまで来ると言った。

「これじゃまるでインディージョーンズじゃない」

不安そうな彼女の手を引いてさらに奥へと向かった。徐々に穴の上部が高くなり、既に外の光も届

かない。僕は大間の肩をたたき、彼女の視線の先にライターの炎をかざした。すると目の前に神秘的

な光景が広がった。それは山のから染み出した水で出来た鏡のような池だった。炎が水面に僕と大間

の顔を映し出した。彼女は目を瞬かせ見入った。僕はハンカチを取りだし平らそうな岩に敷き、大間

を座らせた。

「綺麗ね」

僕は膝を抱え彼女の脇にしゃがみ込んだ。

「驚くのはまだ早いよ」

彼女の言葉を制止しライターの火を消した。

「なによ 、怖いわ」

「大丈夫、心配ないから、でも少しだけ静かに」

僕は池に手を入れパシャパシャと水を叩いた。そして池底に向かって話しかけた。

「ブルー、おいでー、僕だよ、ブルー」

すると真っ暗だった池の底から碧い点の光が浮かび上がった。光はゆらゆらと水の中を揺れながら

ゆっくりと水面に向かって上ってきた 大間は僕の腕を強く握り身体を固くした。

「ブルー、ここだよ」

小さな点だった碧い光は次第に大きくなり、野球の球ほどの大きさになった。そして指先にそーと

近寄りピタリと止まった。僕は大間の方を向き彼を紹介した。

「ブルーだよ」

恐る恐る彼女はその光を覗き込んだ。碧光の正体は小魚だった。全身の鱗から碧い光を放ち、まるで

人魂のように揺らめいていた。

「ネオンテトラ?」

「熱帯魚じゃないよ、それにネオンテトラは光らないでしょ?」

「じゃあなにこの魚、なんでこんな所にいるの?」

「なんでだろうね、でもブルーは僕の小さい頃からここに住んでるんだ」

僕もブルーがなんなのかよく知らなかった。

「じゃあ誰かが飼えなくなってここに捨てたとか」

「さあ、どうなんだろうね、でもここには誰も来ないよ、言っただろ秘密の場所だって」

両手で水ごとブルーをすくい上げ、大間の目の前に差し出して見せた。彼女の眉間は青白く照ら

された。ブルーは彼女の方を向くと尾びれをぷるぷると振った。その様子はとても愛らしく喜ん

でいるように見えた。緊張していた大間の表情がゆるんだ。

「可愛い、でも不思議、なんで光るんだろ、突然変異の新種かな」

僕はブルーを池の中に戻した。勢いよく水中を泳ぎ回るブルー、まるで久しぶりに友達がやって

きて嬉しくてたまらないというようだ。

「かもね」

「生物の先生に調べてもらったら?大発見かもよ」

「どうでもいいよ、そんなこと、ブルーはそんなこと望んでない」

ブルーと初めて出会ったときのことを彼女に話して聞かせた。それは中学の入学を目前に控えた

12歳の春だった。その頃まだ元気だった爺さんと山菜取りに山へ登ったときだ。空は澄み渡り、

日の光を受けた山肌は朝露できらきらと光っていた。僕は爺さんの止めるのも聞かずタラノ芽の

木を探しに奥にわけいった。ゼンマイなど見向きもしなかった。タラノ芽を天ぷらにして腹いっ

ぱい食べたい、ただそれだけだった。そのうち山道からはずれ、獣道に迷いこんだ。気が付くと

爺さんの声も聞こえなくなっていいた。頭上を見上げると木が鬱そうと茂っていた。さっきまで

見えていた集落も見えない。どっちから歩いてきたのかさえも解らない。急に怖くなり大声を出

して斜面を下りはじめた。けれど爺さんの声は返ってこない。唇をかみ、こぶしを握った。いつ

のまにかタラノ芽を入れた袋はどこかへ落としていた。突然、大粒の雨が降ってきた。春といっ

てもまだ早い時期、雨に濡れた体からは急激に体温が失われていった。ぶるぶると震えながら泣

き出した。濡れた下草で足が取られ思うように降りる事さえできない、もどかしくて走り出した。

僕は切り株につまづいた。頭から激しく回転し斜面を転がった。一瞬だったような長かったよう

な、どちらにしても僕は意識を失った。目を覚ますと星が見えた。辺りはすっかり闇に包まれ野

鳥の不気味な鳴き声が山に響いていた。不安と空腹で声も出ない。立ち上がろうとすると右足首

に激痛が走った。折れている、歩けないと思った。死の恐怖を感じた。その時だ、数メートル先

に碧白い光が浮かび上がった。火の玉?幽霊が僕を殺しに来たと後ずさりした。けれど碧光りは

その場からまったく動かなかった。それはまるで僕を怖がらせないようにしているように見えた。

しばらくして好奇心が恐怖心に勝った。足の痛みも忘れ、犬のようにヒザで這いながら碧光りの

する方へ寄っていた。もうすぐたどり着く、そう思った時、ふっと碧光りが消えた。辺りを見回

すと月明かりに照らされた斜面に、小さな横穴が口を開けていた。穴の奥であの碧光りがまるで

息をするように光の強さをゆっくりと変えていた。僕は碧光りを追いかけ穴の中へ、そしてブル

ーに出会った。

「まって、おかしいじゃない、碧光を見たのはこの洞窟の入り口なんででしょ」

「そうだよ」

「ならこの魚は宙を飛んだってことになるわ」

「そうだよ」

僕はブルーと見つめ合った。

「トビウオでもあるまいし、こんな小さな魚にそんな事ができるわけないじゃない。私に

は幽霊の火の玉の方がまだ真実みがあるように思えるんだけど?」

大間は信じようとはしなかった。僕は言い返さなかった。

「ブルー」

ブルーの頭を優しく撫で水の中に戻し、心の中で『飛んで』と語りかけた。するとブルー

はぶるぶると身体を震わせた。そして更に強い光を放つと水の中からふわりと浮き上がっ

た。それはあたかも僕たちのいる場所が無重力の宇宙になったような光景だった。大間は

大きく目を見開いた。

「嘘 」

ブルーは小さな月のように洞窟を照らし、蛍のようにやわらかく闇を舞った。大間は口を

押さえた一言も発せない。

「僕だって信じられなかったさ」

あの時の驚きは今も忘れない。寒さも足の痛みも忘れ、洞窟の夜を泳ぐブルーに見とれ、

いつの間にかそのまま眠ってしまった。翌朝目を覚ますとブルーの姿はどこにもなく、不

思議なことに足の痛みも消えていた。夢を見たのだと思い洞窟を出た。斜面にはうっすら

と雪が降り積もっていた。刺すような寒さに身を震わせながら山を下った。そして消防団

の捜索隊に発見保護された。後から聞いて知った話だが山に迷ったその夜、季節はずれの

寒波が押し寄せた。そんななかの僕の生還は奇跡だと皆喜んだ。ブルーのことは誰にも話

さなかった。これといった理由があったわけじゃない、敢えて言うなら話して聞かせるに

は真実みにかけていたし、曖昧な記憶しかなかったからだ。

「それから暫くした春祭りの日、学校から帰った土曜の午後、親に友達と遊びに行ってく

ると嘘をついて家を出たんだ。この目でもう一度あの日見た空飛ぶ光る魚を確かめたくて

ね」

「また遭難しちゃうんじゃないかって思わなかったの?」

「少しはね、でも前もって地図で確かめておいたし、それに何かあってもまたブルーが助

けに来てくれるって心のどこかで思っていたのかな」

地図を頼りに山を登った。そしてこの前転がり落ちた獣道にたどり着いた。下を見下ろし

ても何も見えない、斜面を慎重に下りながら横穴を探した。けれどいくら探してもそれら

しきものは見あたらない、やはり夢だったのかと諦めかけたその時、生い茂るソテツの葉

の隙間に碧い光が見えた。ソテツを掻き分けると横穴があり、奥の方で小さな月がゆらゆ

らと揺らめいていた。

「正直、2度目の方が驚いたよ」

「なぜ今まで誰にも言わなかったの?光る魚っていうだけで凄いのに、宙に浮いて自由に

泳ぎ回る魚なんて大発見じゃない」

「君は自分の親友をさらし者にして有名になりたい?」

「でも魚でしょ」

といいながら大間のブルーを見る目は魚をみる目じゃなかった。彼女が必死に冷静な判断

をしようとしているのを感じた。そんないっぱいいっぱいの大間をよそにブルーは尾びれ

を可愛らしくふった。

「ブルーはもう一度僕を救ってくれたのさ」

「もう一度って?」

僕は中学でいじめにあっていた。それもチクチクと刺すような陰湿なものだった。必然的

に休みがちになった。親には学校へいくと嘘をつき、よくブルーの所にやってきては本を

読んで一日を過ごしてた。ブルーが照らしてくれるから明かりなんていらなかった。そん

なある日、上級生に呼び出された。なにか面白くないことあったのか、かつ上げをされた

後、気に入らないと酷く殴られた。そんな顔を親に見せる訳にもいかないから、またブル

ーの所で泣いていた。死にたい、もう死にたいと叫んでいた。するとブルーが僕の頬を突

いた。顔を上げるとブルーがじっとこっちを見て、口をぱくぱくと何かいいたそうにして

いた。僕には解った 『だめだよ、だめだよ』ってそう言いたいのだと思ったが、もうな 。

にもかも嫌だと、家の納屋から持ちだした農薬のビンのふたを開けた。その時、ブルーが

洞窟の壁に体中の光を集めてある光景を映し出した。

「嘘、そんな事も出来るの?」

大間は僕の方に体を向けた。

「海の見えるベランダで、髪の長い女性が女の子を膝に乗せて話をしているんだ。たぶん

5,6歳くらいなのかな、女の子はグーフィーのぬいぐるみの両耳を右手と左手にもって

グルグル回しててさ、母親がそれをみて可哀想でしょって娘をさとしているんだ」

「どういうこと、話が見えないよ」

鼻をかきながら話を続けた。

「その女性、僕の奥さんだと思うんだ」

大間は怪訝そうな目で僕を見た。

「ホントだって、母親が女の子に写真を見せてたんだ。そこには産着につつまれ猿みたい

な顔の赤ん坊をうれしそうに抱きかかえた僕が写っていた。母親は写真の僕を指さし泣き

真似をしたんだ。言葉は聞こえなくても彼女の口の動きと手振りで何を言っているのかわ

かったんだ『お父さんエンエンって泣いたのよ』ってね」

大間は吹き出して笑った。

「笑うならやめるよ」

「ごめん、続けて」

大間は口を手でおおった。

「これが未来の家族?ってブルーに聞いたんだ」

「そうしたら?」

「僕の周りを嬉しそうにぐるぐると回ったんだ」

「信じたの?」

「君には間抜けにしかみえないんだろうね。でもその時の僕は勇気づけられたんだ、こう

なれるならがんばってみようかなってね」

あまりに真剣に話すものだから大間もそれ以上いわなくなった。そして彼女は宙を漂うブ

ルーをじっと目で追っていた。

「努力しだしたのはそれからさ、いじめは続いていたけれど学校には欠かさずいくように

なった。次第に勉強も解るようになり、友達も何人かできた。そしたらいつの間にかイジ

メは消えていたよ」

「そう、それで高校へも合格したってことか .それを聞くと小林にとってのブルーが ..

どんな存在かうなづけるわね」

大間は驚きという鎖から解放され、今の状況を冷静に整理し始めたようだった。そして一

通り消化したのか、まるで世間話でもするように何気なく聞いてきた。

「ねえ、その時に見えた女の人ってどんな人だった?綺麗な人?」

照れながら答えた。

「うろ覚えなんだけれど .右の頬にえくぼが出来るんだ、ストレートの髪を肩の後ろ ..

に流す仕草がなんかグッときてさ」

「えくぼか、あれ可愛く見えるわよね、へえ、でもそういうのが趣味なんだ、じゃあ私な

んかえくぼもないしタイプじゃないってことよね」

確かに涼しげな目元の大間とは違って 華やかな感じのする女性という記憶が残っていた 、 。

しかしかといって大間がタイプじゃないという訳でなく、でもそんな事を言うとじゃあ誰

でもいいのとつっこまれそうで敢えて言わないでおいた。

「その女の子、小林に似ていた?」

「アンパンマンみたいにぷくぷくしててよくわからなかったよ」

「そう、でもいいわね、側にいてくれる人がいて」

大間は握っていた僕の腕を離した。

「そんなふうに言うなよ、ずーと先のことで僕の思いこみかもしれないし」

「でも、信じてるんでしょ?」

それでも大間の顔のくもりは晴れなかった。

「そうだけど、ねえ、どうしたの?何か悪い事を言った?」

首を振りうつむく大間の顔を僕とブルーはそーとのぞき込んだ。

「私の側には誰もいない」

「沢山友達いるだろ。それに親だって」

「表面上仲良くしてる人は沢山いても私を理解してくれる人はいないわ、それに親といっ

ても自分勝手な母親が一人いるだけ、家じゃいつも一人なのよ」

そう言えば大間の父親は彼女が小さいときに自動車事故で亡くなったとクラスメートが話

しているのを聞いた事があった。

「でも君の母さん、予備校の先生なんだろ?生徒にも人気のある綺麗な人だって浪人して

いる先輩が話してたよ」

「確かに頭はよくて美人ね、でも男にだらしのない人、家庭なんて関係ないの、女でいら

れたらそれでいいそんな人」

大間は水面を軽くはたき、ブルーを池に戻るよう促がした。ブルーは躊躇うこともなく水

にその身を浸した。

「いい子ね .ブルー」 ..

褒められたのがよほど嬉しいのだろう、ブルーは池の中をグルグルと回って見せた。目を

細める大間、喜ぶブルー、あっという間にうち解けてしまったようで少し悔しかった。

「でも、うちの母親みたいにガミガミ言うだけのおばさんよりいいだろ」

急に大間の眉間に皺が寄った。そんな辛く切なそうな表情は今まで一度も見た事がなかっ

た。

「無害ならね・・・でもあの人は毒の固まり、あの人は私の父さんを殺したの」

憎しみのこもった声は今まで感じなかった洞窟の湿気を気づかせた。そして大間はぽつり

ぽつりと話し始めた。彼女が小学校の4年生の夏休みのある日、家族でデパートに買い物

に行く約束になっていたらしい、しかし朝起きると テーブルにメモが置いてあった『 仕

事で呼び出されたので行けなくなりました。必要な物はメモしてあります。二人で買い物

に行ってきて下さい』と書かれていた。仕方なく大間は父親と二人で買い物に行った。か

えって父親を独り占めに出来て嬉しかったようだ。とにかく思いっきり甘えたデートをし、

上機嫌の帰り道、家の近くの公園で父娘は信じられない光景を見た。母親が若い学生と車

の中で抱き合っていた。父親は無言で大間の手を引きその場を立ち去った。それから家の

中から家族の笑い声はなくなった。毎日父親と母親の怒鳴りあう声がきこえた。

父が死ぬ前の晩 母親が父親に言った言葉を大間は今でもはっきりと覚えていた。

「母は髪をかき上げ、面倒くさそうにって吐き捨てたの『貴方といてもつまらないの』」

父親は女性をグイグイ引っ張っていくタイプの男性ではなかったらしい。しかし父親が母

親を心から愛していたのを彼女も知っていた。父親は自分も仕事で疲れているのに母親を

気遣い、家事の手伝いをよくした。言葉少ない人だったけれど小さな思いやりを母親は沢

山感じていたはずだと大間は言った。それなのに母親は大間の大切な恋人である父親を侮

辱し捨てた。翌日、父親は文房具屋へ買い物に行った帰り、交通事故に遭い帰らぬ人とな

った。赤信号の横断歩道でバイクに轢かれたのだ。警察は自殺を疑った。しかし横断歩道

の真向かいで美容店を経営している女性が一部始終を店内から目撃していた。話によると

父親は俯きながら黄色に点滅を始めた横断歩道を入っていったらしい。まもなく信号は赤

に変わった。けれど父親はそれに気づかない。ピアノ発表会の為に美容店に来ていた少女

がセットを終え、付き添っていた両親と店を出てきた。奇麗になってはしゃぐ少女の声が

耳に届いたのか、歩道を渡る父親は足を止め顔をあげた。仲良さそうな家族を見つめる表

情は物悲しげだったと女性は語ったという。そしてそこへバイクが突っ込んできた。

「その時、お父さんがどんな気持ちでいたかって思うと切なくて」

通夜の晩、目を真っ赤にして泣いている母親を見て大間は『貴方が殺したんだ』と思った

そうだ。それからいっさい母親とは話す事がなくなったという。一旦冷え込んだ母と娘は

他人よりも遠い存在になった。母親は時たま帰ってきては金をテーブルの上に置いていく

ようになった。大間は母親を憎む気持ちで自分を保ちながら暮らしてきたらしい。

「これが私たち親子、どう仲がいいでしょ」

大間は僕の肩に頭を乗せた。どきどきなどしなかった。肩を貸してあげられてよかったと

思った。小さな頭、長い髪が彼女の左目を覆った。大間の肩に手をかけ引き寄せた。嫌ら

しい気持ちではなくそうしてほしいと彼女が望んでいるように思えたからだ。

「おしえてあげようか」

大間は鼻を押し当てた。

「私ね、悪い事いっぱいしてるのよ」

「?」

「優等生って仮面かぶって、人にいえない事を続けてる」

大間の震えが肩に伝わる、泣き出しそうなのが解る。いつの間にかブルーも泳ぐのをやめ

池の真ん中でじっとこちらを見ていた。

「君がかい」

「ええ、吐き出したくなるようなもう一人の自分がいるの」

力無いその言葉は僕を緊張させた。

「冗談はよせよ、せっかく君を喜ばせようと連れてきたのに」

大間の告白を聞くのが怖かった。

「そうね、ごめん .ねえ、このまま少し眠っていい?」

「うん」

大間の口を塞いだ意気地のなさが恥ずかしくて、小石を投げるような返事しか出来なかっ

た。でも彼女は静かな目で僕を見て頷いた。

「ありがとう、それからブルーもそこにいてくれると嬉しいな」

そう言うと大間は目を閉じ、まもなくすうすうと寝息をたてた。ブルーに照らされ眠る大

間の横顔はどことなく疲れて見えた。こんなに近くに憧れの女性がいるというのに悲しく

なった。そして大間の言う悪い事とは何なのか気になった。けれど大間はそんな僕をよそ

に深い眠りに落ちていった。ブルーも少し光を弱めにし大間を見守った。

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