日向ぼっこの駄目犬
ありがたくもない通知表を受け取った。明日から夏休みだ。学生達の去った校舎は一仕事を終え、
溜息でもつくように静けさに満ちていた。僕はひとり、三階の物理室の窓からぼんやり外を眺め
ていた。ここは普段我ら帰宅部、もとい無線部が部室として使っている教室。僕の名は小林雅俊、
公立高校に通う三年生だ。来年は受験だというのに緊張感のかけらもない学生窓際族を謳歌して
いる。
「どうしよっかな」
しかし真剣になんとかしたいと思っている訳じゃなかった もうそんな段階はとうに過ぎ。
チベットの僧侶のように、宇宙の成り立ちを思い描くような理解不可能な領域に脳みそを放り込
んでいた。簡単に言えば残り物の納豆にラップをし、冷蔵庫の奥に置き忘れたまま1年と2ヶ月
経ってしまったような状態だった。だから『どうしよっかな~』という気の抜けた言葉しか出て
こない。そんなふうだから時間はあっという間に過ぎていった。
「はあ」
幾つ目かの溜息が夏の風に運び去られていった時、中庭の楠の向こうのプールに人影が現れた。
姫の登場だ。彼女の名は大間百合子、同じ高校の三年生だ。常に県内模試で上位にランクされる
秀才であり、インターハイの水泳選手に何度も選ばれる実力の持ち主、加えてルックスも申し分
ない。例えるなら宝塚の男役、しかし大地真央のような威圧的な顔じゃなく、天海祐希似の涼し
げな目元のすっきりとした美人だ。これほど才能と美貌を持ち合わせた人間が存在していいのか、
神様に不満を言いたくなるのは僕だけじゃなはずだ。でも大間と廊下ですれ違う瞬間、そんな
嫉妬は泡のように消え、無理してこの進学校に入学して良かったと思ってしまう。とにかく恋愛
感情を抱くなど恐れ多いほどに、近くて遠い存在が大間なのだ。だから僕はこうやって日向ぼっ
こをする駄目犬のようにサッシに首を引っかけ、大間に見入るしかなかった。突然、溜息混じり
の声が後ろ僕の頭にふりかかった。
「小林・・・、聞いたぞ数学の他に古文も赤点なんだってな、どうするつもりだ」
振り返ると遠藤先生がいた。彼は僕の担任であり、無線部の顧問だ。先生は実験機材の入った
長持を抱えこちらを睨みつけていた。僕は苦笑いをしながら頭をかいた。先生は呆れ顔で長持を
緑色の大きな教卓の上に置き、中に入っていた書類を僕に押しつけた。
「上田先生からだ、ほら」
それが何か、見なくても判っている。再テスト用の自習テキストだ。上田という数学担当の教師
はいつもこうなのだ。長年の教師生活で作りためた自作テキストを、事ある毎に生徒に配る、奴
はそれで授業をしたつもりになっている。しかし、内容たるや少しもかみ砕かれておらず、上田
の性格そのままの細か過ぎる文字が並び、読む気を失せさせるのだ。(睡眠薬には最高だが)
「追試は10日後、先生たちは毎日学校にきてるから解らない所があれば聞きに来るんだぞ、上
田先生がいなければ私が教えてやるから」
そういうと遠藤先生は横を通り過ぎ、僕が見ていた窓から同じように外を見た。
「なんだ、またおまえ大間を見ていたのか」
「またって .先生」 ..
「そろそろ告白でもしないか?」
「そんなんじゃないですよ」
「じゃあなんなんだ、一年生の頃から夏になると、柳の幽霊みたいにずっとここから大間を見て
たじゃないか、流石に三年も続くと夏の風物詩みたいにみえるぞ」
先生は長持の中の実験道具を教室の後ろにある棚に片づけながら言った。
「そういえば大間も、まだ進路を決めてないみたいだぞ」
「嘘、この時期に」
「顧問の先生も困ってたなあ 三年生でもう部活もないのに一人ああやって泳いでるって、まあ
おまえと違ってどこの大学でも行ける自信があるんだろうな」
「へぇ~」
素直に感心する僕を見て遠藤先生は肩を落とした。
「おまえはいいよなあ、予備校一直線だものな」
先生の言う通り、今の学力では三流大学も狭き門だった。恐らく、いや半分以上の確率で予備校
に入れる自信があった。しかしその為には無事高校を卒業しなくてはならない、今はそれが最大
の目標になっていた。
「とにかく、古文の再テストも同じ日にあるんだ、小学生の夏休みみたいにダラーと寝てないで
勉強するんだぞ、いいな!!」
遠藤先生は僕の尻を黒板用のでかいコンパスで叩いた。鞭を入れられた馬ならヒヒーンと嘶くの
だろうが、2、3歩前に歩み出た程度で『ハイ』とうなずいて見せた。
「もうすぐ教室閉めるぞ、早く帰れ」
先生は又大きなため息をつき、物理教室脇の補助室に入っていった。
「ええ、もう少しいちゃだめですか」
補助室に顔を向け、わざとで甘えてみた。半開きになったドアの隙間から、先生が白衣を脱ぐの
が見えた。ワイシャツをめくり弛んだ下腹があらわになった。
「忙しいんだ、おまえのお楽しみにつき合ってられるか」
バッグからシャープペンシルのような物を取り出し、先端を腹に押し当てた。これから昼食をと
るのだろう、事前にインスリンを打ち血糖値を下げているのだ。先生は酒好きが災いし昨年の秋、
糖尿病で入院した。それからはインスリンを打ってからでないと食事もできない。もちろん禁酒
なのだが、こっそり飲んでいるようだ。命まで縮めても飲みたい酒とはそんなに美味しいものな
のだろうかと先生の白い腹を見て思った。
「なにしてる、早く帰れ」
僕の視線に気づいた先生は、ズボンにYシャツを突っ込みながらこちらを睨んだ。仕方なく鞄を
右手に抱え、ドアの隙間から左手を振って教室をはなれた。さあこれからどうしよう?けれど、
やはり答えなどなかった。物理教室を出た後、高校の近くのコンビニのベンチでコーラを飲んで
いた。正確に言うとコンビニじゃなく、雑貨屋が大手パン屋の指導でそれらしく見えるように改
造されたナンチャッテコンビニだ。学生はこの店を『付け屋』と呼び、その名の通り金の無い時
は付けにしてパンを買っていた。喉を流れ落ちる炭酸の液体、刺すような泡にもだえながら顔を
あげた。セルリアンブルーの空が真夏の太陽を黄門様の印籠のように掲げている。眩しすぎて腹
立たしいほどだ。飲み終えたら今度こそ帰ろう、そう思った時、陽炎の立ち上る校舎脇のアスフ
ァルトを、大間百合子がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。僕はペットボトルの口を加え
たまま固まった。大間は右手にカバン、左の二の腕にオレンジ色のスポーツバッグを抱え、店の
自動ドアの前に立った。僕は息を殺し目を伏せ前屈みになった。大間が店内に入ると僕は忘れて
いた呼吸を思い出した。いったい何を買いにきたのだろう。しかし振り返って中を覗くわけにも
いかない。しかたなく自動ドアが開く音に耳を澄ませた。
「ありがとうございました」
店番のおばちゃんの声とともに大間が出てきた。そして事もあろうに僕の隣に腰を下ろした。
大間はレジ袋に手を突っ込み中から薄っぺらい箱を取りだした。エスキモーのピノだった。
「食べない?」
赤と青のプラスチックの爪楊枝が突き刺さったピノが目の前に差し出された。一度も話しも
したことのない彼女から突然声をかけられリアクションに困った。
「いや、今これ飲んでるから」
コーラのボトルを見せ、ぎこちなく笑ってみせた。大間はつまらなそうに、赤いプラスチック
爪楊枝が刺さったピノを口にくわえた。昼下がりの午後、照りつける太陽は店先の日よけの傘
が作るクッキリとした影で僕のつま先と道路を分けていた。時折、目の前を大きなトラックが
横切り、そこからはき出される排気ガスの熱風が足にからみついた。僕らは蝉の鳴き声に包ま
れながら沈黙した。コーラの残りが後少しになった時、大間はもう一度話しかけてきた。
「ねえ、さっき三階の窓から見てたでしょ」
質問とも非難とも区別の付かない言葉が僕の前に放り投げられた。順調に喉を流れていた液体
が急激にその進路方向を気道へ変えた。むせる、はき出す、呻る。返事を返す余裕もない、
咳を繰り返し何とか息を整えようと必死になった。そんな僕をよそに大間は顔色一つ変えず空
を見上げた。
「いいのよ、ずっと前から知ってたし」
ようやく声が出せるようになった頃、大間は更なる攻撃を仕掛けてきた。
「私のこと好きなの?」
大間は両足をぶらつかせて見せた。僕はコーラを持った右手を激しく振った。
「ならなんでいつも見てるの」
「ごめん」
「なんんで謝るの」
透明人間のつもりでいた自分が情けなかった。そっと横を見ると大間は涼しそうな目元で微笑
んでいた。綺麗だった。ほのかに赤い唇、それを見た途端思い描いていた白黒デッサンが鮮や
かに色付いた。ペットボトルについた水滴が落ちて、学生ズボンに染みていくのも気づかず、
僕は恥ずかしさも忘れ見とれてしまった。
「見られるの嫌いじゃないよ」
「あ、ごめん」
「いいのよ、他の男子もそうだし。それに大抵そのうち興味なくして離れていくし」
それはある面正しかったが、ある面間違っていた。というのも我が校精鋭のイケメン達が大間を
口説き落とそうと戦いを挑んでいたのは確かだ。しかし悉く惨敗し、敗戦情報が校内に知れ渡り、
プライドを打ち砕かれた男達は、手近な女で手を打つしかなくなってしまった。それが嫌で最近
は敵前逃亡するものが多くなっていたというのが実際の所だった。
「ねえ、どこか行かない」
耳を疑った。そしてそれはすぐに諦めに変わった。本心じゃない、おちょくられている。まるで
猫が目の前のネズミを軽くネコパンチするような(犬が甘噛みするようなでもいい)ものだと思
った。僕は少々開き加減だった口を閉じ無視した。
「なんか予定でもあるの?」
「勉強しないと」
「あら真面目なのね、でも終業式の日くらいいいじゃない?」
「君はいいよ、どこの大学でも行けるから」
彼女はさらりといって返した。
「大学はいかないわ」
大間は最後のピノを頬張ると口の中でそれをゆっくりと回した。彼女の言葉が信じられなかった。
東大でも行ける頭脳を持ち、学校からも期待されている彼女が受験しないはずはない。
「嘘だろ」
「え?何であなたに嘘つかなくちゃならないの」
髪を耳に掛けなおし、くすくすと笑った。
「じゃあ何故行かないんだ、その方が不思議さ、いや不自然だよ」
「勉強できたら大学へ行くのが自然?」
大間はスカートに落ちたゴミを摘んでアイスが入っていた空箱にそれを入れた。
「もったいないよ、君なら何にだってなれるのに」
そのとき素直にそう思った。しかし大間は首を振った。
「なりたいものなんて無いわ」
「つまんなくない?」
「なんでよ、いいじゃない」
大間は頬をふくらませて見せた。白い肌がまあるく飛び出し、それがまた可愛いらしく見えた。
初めて見るおどけた表情、その時ようやく僕の緊張がゆるんだ。遠い所にいた大間が少し近く
に感じた。すると向かいの民家の松の木に止まっていた蝉がフルパワーで鳴き始めた 。
僕は急に大胆な気持ちになった。
「ねえ、本当に僕とどこかいきたい?」
「なにか怪しい聞き方ね、もしかしてなにか別の事考えてる?」
大間は首をかしげた、僕は思わせぶりな口ぶりで彼女を誘った。
「違うって、おもしろいもの見せてあげようかなってさ」
「なに?」
「小さい頃からずっと秘密にしておいた場所さ」
「何かあるの?」
「ある」
「怖くない?」
「ん~ん」
その時の僕は彼女の喜ぶ顔が見たくて仕方なくなっていた。
「私が見ていいの?」
答えるよりも前に大間の手をつかんだ。彼女は僕の手を握り返し頷いた。今思えばただの気ま
ぐれだった。しかし、気まぐれだからこそ素直な自分を見せられたのかもしれない。夏のある日、
そこにいたのは僕と彼女だけ、ただそれだけの事だったのかもしれない。