第3節『攻勢の女神』
「ああ、もう生きるの疲れたな~死のうかなぁ」
誠はカレンダーに向かって、大声で叫んだ。完全に棒読みだった。しかし、本人は自殺表明のつもりらしい。残念ながら、誰が聞いても演技であることは明白だった。
「カッターあったかなぁ~どこだっけなぁ」
彼はカレンダーを凝視していた。もちろん、特に11月16日を。
「……」
(「来い。来い……」)
「『うるさい、大根役者。死にたきゃ、死になよ』」
「いーよっしゃ!」
彼は思わず、ガッツポーズを決めていた。不在の母親以外、彼を縛る者はいない。
「待ってたよ、君のこと。さあ、名前教えてね」
「『嵌められた……』」
「さあ、さあ」
彼はにじり寄った……つもりだった。実際はカレンダーが顔にくっついてしまうのではないかと思えるほど、近づいただけだったが。
「『あんた、面倒臭いね』」
「うん、よく言われるよ。で、名前は?」
彼は全く気にしていなかった。むしろ、嬉々としていた。
「『あたしの名前はイチエ。奥村一枝。これで満足した?』」
「ふーん……君、人間だったんだ」
「『やっぱり、一回死んでおこうか、マコト君?』」
「君が言うとリアルだからやめてよね……。ねえ、そういえば今まで何で出てこなかったの?何度も呼んだんだよ?」
「『面倒臭いから』」
「あっそ。そんなんじゃ死神失格だよ?」
「『死神じゃない。あたしは人間。俗に言うところの……』」
すかさず、彼は口を挟む。
「幽霊?」
「『正解』」
「じゃあ、理由は面倒臭いでいいよ」
「『面倒臭いね、あんた。あのね、ホントの理由はそうじゃないんだよ……あ』」
「僕ね、意外とそこらの馬鹿と違って頭良いんだよね。君ってさ、きっと馬鹿だよね。簡単な誘導尋問に引っかかってさ」
「『……』」
「で、理由って何なの?」
しばらく書き込みが止まった。彼は『彼女』、一枝の返事を待った。
彼はその間、過去の書き込みを見ていた。言わなかったが、とても丁寧で、綺麗な字だった。機械的に増える、人間的な文字。変な気持ちだった。そんな他愛のないことを考えていると、いつの間にか書き込みが始まっていた。ぽつり、ぽつりと書かれていく繊細な字群は彼には、芸術のようにさえ思えた。
「『黄泉裁判があったの。上に行ってた』」
「……え?」
彼はさっぱりわけがわからなかった。呆けた表情をしている。
「『死人が裁かれる場所。そこで、転生するか否か、どういったものに生まれ変わるか決まるの。あたしは今度も人間。どうも、あたしが生前、不幸だったことを考慮に入れてくれたらしくて。人間になれる人なんて一握りなんだよ?あんたにはわからないだろうけど』」
「おしゃべりだね、君?」
「『うるさい。あんたってホントに面倒臭い奴ね。あたし、幽霊にこんだけ話す人、見たことないよ』」
「それはありがとう。ほめ言葉と受け取っておくね。ところで、そんなことより一つ重要な質問いいかな?」
「『質問によるね』」
「君はなんで死んだの?」
彼はいたって真面目だった。顔付きは真剣そのものである。
「『それは秘密』」
「ええ、なんで?」
「『黄泉裁判法、第三十八条。地縛霊は生者に死因を漏らしてはいけない、を破るから。もし破ったら、転生できなくなる』」
「へぇ、地縛霊なんだ。じゃあ、開かずの部屋は調べなきゃね」
「『もし、調べたら祟り殺す』」
「じょ、冗談だよ……そんなことしないし、このことは秘密にしておくよ。他言無用でしょ?」
彼は冷や汗をかきながらなんとか言った。
「『当たり前。じゃあ、今度はあたしから質問していい?』」
「な、何?」
彼はたじろいでいた。
(「まさか、僕なんかに興味を持つなんて……」)
「『あんた、友達いないでしょ?』」
「……え?」
彼は二の句がつげなかった。反論しようにもできない。事実である上に、彼女が彼の日頃の言動を聞いていた可能性も否めないからだ。墓穴を掘るだけ、そう判断し、彼は諦めた。
「そうだよ、いないよ。悪い?」
日頃の冷めた彼はどこへやら、開き直った彼はもはや怒っていた。
「『あたしが友達になってあげようか……暇だしね。それにあんたってなんか面白いし』」
「……へ?」
きょとんとする彼の姿がそこにはあった。彼は気づかぬうちに守勢に回っていたのだった。
「『どうなの?』」
彼はすかさず言った。
「いや、お願いします。友達になって下さい」
「『よろしい、友達になってしんぜよう』」
相野誠対向井一枝の一回戦は向井一枝の勝利に終わったのだった。
(「こんなはずじゃなかったのに。口が勝手に……。まあ、いいかな。……ん?でも良く考えたら……」)
「唯一の友達が幽霊だなんて死んでも言えないよ~」
悲痛な叫びを上げた彼に、彼女は冷静に指摘する。
「『誰に言うの?言う相手なんていないでしょ、あんた?』」
「そ、それもそうだね……」
言いくるめられ、安心したのか、カレンダーから眼を離し、椅子に座る為に背を向けた彼は11月16日の最後に書かれた一行を見落とすことになった。
「『さあ、そろそろ馬鹿誠の為に『一仕事』始めるとしますか』」
誠は今にして思う。『彼女』、向井一枝にはいつも驚かされ、振り回されていたけれども、そのことが決して苦ではなく、むしろ喜びでさえあった、と。
誠にとっての『彼女』は死を与えるという本分を忘れてしまった死神でもなく、生者に話しかける死者でもなく、そして、高飛車な友達でもなく……彼の短く、つまらないもので終わるはずだった人生に彩を与えてくれた、生きる希望を与えてくれた女神であったと。