第1節『不確かで確かなもの』
恐る恐るカレンダーに歩み寄る。じわりと汗が出て、背筋を伝っていくのがはっきりとわかった。しかし、これは緊張から来るものであって決して不快なものではなかったと言って良い。冷や汗とは、似て非なるものであった。
誠はなんとも不思議な感覚を味わっていた。まるで、総理大臣、いや物語のヒーローにでも抜擢されたような。それは既存の日本語で強いて言うなら、『使命感』、そこから生じる『優越感』に限りなく近かった。誠はこの狭い三次元の静止画の中で動く唯一無二の存在、支配者になった気さえしていたのだった。
刹那、誠はあることに気づき、驚愕した。それは、自分の『死』への興味が既に薄らいでおり、この怪現象を究明することに意識を傾けていたことであった。
誠は、総理大臣であり、英雄であり、科学者であり、全知全能の神と化していた。限られた世界での思い込みは思い込みではなく、事実でさえあったのである。誠は間違いなく覇者であった。
「SFの世界じゃあるまいし、此処だけ異空間となってしまった、だなんてことは有り得ないよね?てことは、単純に……」
誠は我が目を疑った。カレンダーの11月1日の欄の文字がみるみる増えていく。それも、『増えていく』というように突如出現するのではなく、『書き加えられていく』と言った方が正確だった。
科学者、誠は迂闊に信じるわけにはいかなかった。そして、必死に現実に起こりえることの検索を試みた。
「そうだっ!」
誠は右手を見た。その手には当然、ペンなど握られているはずなどなく、動いてさえいなかった。無意識にカレンダーへ書き込む自分。その可能性は否定されてしまった。誠は11月1日に視線を戻す。
「『ポルターガイスト現象……でしょ?正解。』」
誠はかつてない程、目を見開いた。予想はしていた。だが、それは誠にとって現実であってはならない現実だった。誠は本物の冷や汗をかき始めていた。この世界の覇権は、当の昔にカレンダーの住人によって奪われてしまっていたのである。
「嘘だ……うわぁ!」
誠はその場にへたり込んだ。
「有り得ない、有り得ない、有り得ない……」
誠は独り言を続ける。
「信じないことがこれ程難しいだなんて今まで、一度も思ったことなかった。だって、無理だよ?状況証拠が揃いすぎてる……」
しかし、誠はいつまでもこうしてはいられないことがわかっていた。誠の母が帰ってきて、自殺計画が全て露見したとしたら。彼女の監視の目は厳しくなり、これからはしたくても自殺なんてできなくなる、二度のチャンスは無いんだ、そう思っていたからである。
誠は意を決してカレンダーを見た。
「『無視?まあ、いいよ。で、答えは?』」
前の書き込みは綺麗に消えていた。下に書き込んでいくのが、スペース的に困難になったからだろう。書き込みによる更新は続いた。
「え?何の話?」
また、書き込まれた。誠はそれも操られたように読み上げる。
「『もしかして頭悪い?だから、死にたいのかって聞いてるの。焼け死にたいなら数分前に戻してあげるけど。』」
次々に消えては書き込まれ、消えては書き込まれて行く。
「まるで黒板だね、君は」
「『笑えるんだね、あんた』」
「えっ?」
誠は笑っていた。知らぬ間に。
「ああホントだ。僕……笑ってる」
「『じゃあ、いいよね?答えは『死にたくない』でさ』」
「うん、死にたくない。まだ僕笑えるしね……ふふふ」
「『残念、あたしも死にたくないあんたの命を無理やり奪うほど野暮じゃないよ。わかった、じゃあね』」
「うん……あっ、そうだ。君の名前は?」
直後、眼の前が真っ暗になった。
意識が戻ると、辺りはいつの間にか鎮火していた。時計の針は……動いている。目の前には吐き出した、汚い錠剤が散在していた。
「き、君の名前は?」
カレンダーに問いかける。彼女の答えはなかった。