エリ
コンビニのやけに明るい電灯。ガソリンスタンド店員の威勢のよすぎる掛け声。そして、生まれ育った街の変わらぬ香り。懐かしい記憶が、エリの目の前に広がっていた。
見慣れた風景のはずだったのに、いつの間にか見えなくなってしまった風景。目も耳も鼻も、五感全てが狂っていた。毎日歩いていた我が家への道を歩きながら、エリはそんなことを思った。
自宅に帰るのは何年振りだろうか、思い出すことが出来なかった。
帰ることへの不安はあった。それでも帰ろうと思ったのは、麗子が言った「確認しなきゃいけない」という言葉や、隼人が言った「戻ることが出来る」という言葉に背中を押された部分も確かにあった。だが、エリが帰ろうと思った一番大きな理由は、ただ、母に会いたかった。もう母の顔なんて覚えていないと思っていたのに、母の顔をイメージすると、すぐに思い出すことが出来た。
幼い頃、よく「お母さんに似てるね」と言われて嬉しかった。仕事も出来て、料理も出来て、そして何より、綺麗だった。そんな母はエリの憧れだった。いつの間にか母も、この見慣れた風景と同じになっていた。見えなくなって、聞こえなくなって、匂わなくなった。母に会いたい。そう思った。母が自分をどう思っているのか聞かせてほしい。そう痛切に願った。
そんなことを考えながら家へと続く最後の角を曲がると、正面に真っ白な我が家が現れた。昔は、周りの家々と並んでいても、白さだけは際立っていたはずなのに、今はどことなく茶色掛かり、哀愁のようなものすら感じた。もしかしたら、昔から真っ白ではなかったのかもしれない。どちらが正しいのか、もう確かめようがなかった。だが、いつかスタートに戻ることが出来たら、この家は真っ白に戻っているかもしれない。そんな下らないことがエリの頭を過る。その下らなさに思わず苦笑しながら、エリは我が家の玄関に立った。
呼び鈴を押すか、鍵で家に入るか、束の間悩んだ後、エリは鍵を取り出す。長い月日を経た今でも、その鍵は、カバンの底に変わらずに存在した。
ゆっくりと鍵穴に鍵を差し込み、回す。この鍵ではもう開かないんじゃないかという一抹の不安も、カチャリと音を立てて開いた扉に瞬時に拭い去られる。
扉を開くのと同時に、不安や緊張を感じると思っていたエリは、自分が大きな安心感を感じていることに驚いていた。見た目も匂いも、何も変わらない、エリの居場所がそこにはあった。
短い廊下を歩いていくと、リビングに通じるガラス扉の向こうに、母の後ろ姿が見えた。背筋がピンと伸びた美しい姿勢で、母はパソコンに向かっていた。それは、エリが最後に母を見た時と、寸分違わぬ姿だった。扉越しに母の後ろ姿を見つめていると、何かの気配を察したのか、母の動いていた手が止まる。そして、ゆっくりと母が振り向いた。
エリは逃げなかった。目を逸らさなかった。母と向き合う為に、2人の間に立ち塞がるガラスの壁を、引き開けた。
母は、目を大きく見開いたが、それは一瞬のことだった。美しい母の顔は、いつも見ていた感情の読み取れない表情に戻っていた。
「おかえり」
それだけで十分だった。
「…ただいま」
エリは、溢れる涙が零れ落ちる前に扉を閉める。扉が閉まる直前、母が微笑んだような気がしたが、それを確かめる余裕もないまま、エリは階段を上がり自分の部屋に逃げ込んだ。
エリの瞳から涙が止めどなく流れ、床を濡らす。その部屋も、何一つ変わっていなかった。ホコリ一つない床に、エリの涙が大きな水溜まりを作った。その水溜まりに窓から差し込む陽の光が反射する。太陽の光さえ届かない、真っ暗な暗闇に閉ざされていたエリの心を、二つの太陽が照らし出す。眩しいほどに。
エリは小学生の時以来座っていなかった勉強机に腰掛ける。座ってみると、やはり随分低かった。体はしっかりと成長したが、心のほうは、随分間違った成長をしてしまったのかもしれない。
携帯を開く。電話帳には、数え切れないほどの悪が詰まっていた。その悪を次々と消去していくと、残ったのはわずか十数件だけだった。
次に、1枚の画像を呼び出す。そこには、猿渡が写っていた。猿渡の横には、見たこともないくらい不細工な女。これがエリの切り札だった。その切り札も、エリは消去する。
エリの心は、言い様のない落ち着きに満たされていた。その落ち着きを与えてくれているのは、言うまでもなく、6つの愛だった。
エリはふと、あることを思い付く。記憶を引っ張り出し、机の引き出しから小さなキティちゃんがプリントされた便箋を取り出す。キティちゃんは、昔も今も変わらぬ、可愛らしい笑顔でエリを見つめていた。そのキュートな表情は、どことなく美優を思い描かせた。
顔を上げると、窓の外に真っ赤な夕日が見えた。
真っ青だった空が、真っ赤に染め上がり、そしてもう数時間後には、真っ暗な漆黒の闇へと変貌を遂げる。
エリの心も、新月で月明かりすら届くことのない漆黒の空から、夕日が真っ赤に染める、夕焼けの空まで、少しだけ進めたような、そんな気がした。