美優
久しぶりに外気に触れ、美優は大きく伸びをする。病院の屋上は、洗濯物でいっぱいだった。屋上に洗濯物が干してあるなんて、ドラマの世界の中だけの話だと思っていたので、少々驚いた。快適な環境の中で長いこと過ごしていた為、この陽射しの強さは辛かったが、それでも時々思い出したように吹き抜ける風は心地よく、美優は洗濯物の日陰に隠れ寝転んでいた。
目を瞑っていると、時の流れを忘れ、果てしない時間旅行に旅立てるような、そんな気がした。だが、どの時間に旅立っても、美優の隣には常にエリがいた。
「ヒャッ」
そんな時間の旅を満喫していると、突然美優の顔の上に何かが落下してきて、思わず悲鳴を上げもがく。すると、次は頭上で誰かが笑う声が聞こえた。その声を聞いた瞬間、美優のパニックは歓喜へと変わった。
「エリちゃん!」
美優は慌てて顔に掛かっているものを取る。そこには、エリの顔が逆さに映っていた。
「久しぶり」
エリは少し照れくさそうな表情でそう言う。
「久しぶり!」
美優は、エリの3倍ほどのボリュームで答えた。すぐに起き上がり、エリの顔を正面から見つめる。エリの顔には、最近では見ることのなくなった、柔和な優しさが溢れていた。
「あ!」
美優がニコニコしながらエリの顔を見つめていると、突然エリが指を指しながら叫んだ。驚いてその指の先を見ると、さっきまで真っ白だったはずのベッドシーツが、小石や砂利にまみれ、黒くなってしまっていた。
「あ~!!…どうしよう」
美優は焦り、パニックに陥る。この短時間で起こった数々の出来事に、美優の頭は全くついていけていなかった。
美優が自分の犯した失敗に何も出来ずにただアタフタとしていると、エリがシーツを取り、叩き始めた。そして、「よし!」と言い、物干し竿に引っ掛ける。シーツの汚れは黒く残っていたが、エリはもうシーツを見ていなかった。
「逃げよ!早く!」
そう言って、小走りにシーツの間を駆けていくエリを、美優は呆然と見ていた。しばらく進んだエリがこちらを振り向き、手を招く。いたずらっ子のような笑顔が、そこにはあった。美優も慌てて追い掛け、2人は汚れたシーツから1番遠いシーツの陰に逃げ込む。
しばらく息を潜めていたが、誰も来る気配はなかった。美優の心臓は、晃太と会った時とは違う意味で、激しい鼓動を続けていた。その興奮をエリに伝えようと、美優は小声で話し掛ける。
「小学校の時みたい」
「小学校?」
「うん。小学校の時にエリちゃんが先生の車に落書きしたの。覚えてる?」
エリはしばらく考え込んでいたが、頷きながら答える。
「覚えてる。あれはあいつが悪いんだよ。みぃに暴力振るうから」
美優は、小学生の時から忘れ物の多さだけは誰にも負けなかった。それを怒った担任が、美優の頭を叩いたのだ。美優自身はほとんど痛みを感じていなかったが、エリは激怒し、担任の新車に油性ペンで落書きしたのだ。
「あの時もこんな風に隠れて見てた」
「最高だったね。あいつのうな垂れる後ろ姿」
「2人で家に着くまで笑ってた」
「ざまあみろって言いながらね」
その光景は、今も昨日のことのように思い出すことが出来る。それはエリの同じなのだろう。それが、美優には無性に嬉しかった。
「なんで寝転んでたの?」
もう安全だと思ったのか、エリは小声ではなかった。美優はエリの質問に何と答えようか迷う。まさか、時間旅行をしていたなんて、恥ずかしくて言えなかった。
「う~ん、気持ちいいからかな。風がね、気持ちいいの」
「そうなんだ。…よいしょ」
美優がそう答えると、エリは先ほどの美優と同じように寝転がった。
「ホントだ。涼しくて気持ちいい」
美優もエリの横に寝転がる。ふと、今日が始業式だったことを思い出した。
「今日、始業式だったんだよね?」
「うん。オバマの演説があったよ」
「本当に?聴きたかったなぁ」
朝、隼人が来たことを美優は思い出していた。隼人は、エリの為に出来ることをやったのだろう。実際に内容を聞かなくても、何となくわかった。エリが、今日来てくれた理由も、わかった気がした。
「ホントは知香と靖子でカラオケ行く予定だったんだけど、フラれちゃったんだ」
だから、突然エリがこんなことを言い出しても、美優には照れ隠しの言い訳だと、すぐに見抜くことが出来た。
「そうなんだ。じゃあフッてくれた2人に感謝しなきゃ」
美優は本当に感謝していた。知香にも靖子にも、そして、隼人にも。
しばらく2人とも目を閉じ、シーツの下を通り過ぎる初秋の風を感じていた。
「ねえ」
「何?」
「一緒に戻ってくれる?」
「……うん。いいよ」
「………ありがとう」
目を開けると、目の前に雲一つない青空のキャンバスが広がっていた。これから、エリと何を描いていくのか、それはまだわからないが、真っ青な空は何を描いてもとても美しくなるだろう。
拙くても、下手でも構わない。
2人で一緒に筆を持つ。
それが何よりも大事なことに思えた。




