エリ
1階にある教室から、隼人は階段を3階も上った。教室は3階までしかない為、3回目を上った先には屋上の扉しかないはずだった。屋上は施錠してあるうえに、学校は屋上に出ることを禁止にしているはずなので、なぜ隼人がこんなところに移動してきたのかエリにはわからなかった。
案の定、屋上の扉の前で隼人がノブをガチャガチャと回してみるが、扉はビクともしない。すると隼人は、エリのほうを振り返りニヤリとしてから小声で言う。
「どうやって開けるんだ?」
エリは驚き、マジマジと隼人の顔を見てしまう。いつの間に気付いていたのか、エリたちが屋上の扉の鍵を開けられることを知っていたのだ。
「なんで知ってるの?」
こんなところに誰も来るはずもないので小声で話す必要などないのだが、なぜかエリまで小声になってしまった。
「担任だからな」
隼人はエリの問いに即答で答える。次の瞬間、エリは声を上げて笑っていた。隼人は怪訝そうな顔をしていたが、その表情がまた可笑しかった。
「先生、今のであたしが感動すると思ったの?」
エリが笑いながらそう言うと、隼人の表情が険しくなった。図星だったらしい。そして、どうしてわかったんだ、と顔で聞いてくるので、答えてあげることにする。
「さっき小声だったくせにそこだけボリューム上げ過ぎ。鼻の穴までヒクヒクしてたし」
エリは答えながら、隼人のアホ丸出しのドヤ顔を思い出し、再び笑ってしまった。隼人は麗子と比べるとポーカーフェイスには程遠く、姉弟だとはとても思えなかった。
笑いを堪えながらチラリと隼人のことを見ると、隼人は頭を掻きながら苦笑いを浮かべていた。校庭を決意に満ちた表情で歩いていた時とは全く違う、とても穏やかな表情だった。
「そんなことより、開けられるんだろ?」
隼人は話題を変えようとしてか、扉の鍵の開け方を再び聞く。だが、エリの答えは全く別のものであった。
「ここでいい」
「ここで?」
隼人はエリの答えに再び怪訝そうにする。階段を上がっただけで、ほとんど廊下と同じ環境だからだろう。
ホコリっぽく、空気もあまり循環されない不衛生なこの空間が、今の自分を象徴しているようで、エリは居心地のよさすら感じていた。エリは1つだけ、最も聞きたかった質問を隼人にする。
「先生。あたしは戻れるかな?」
不思議そうにしていた隼人の表情が引き締まる。緊張して強張ったように見えたが、その顔はすぐに穏やかな表情に変わる。穏やかではあったが、校庭を歩いていた時と同じ強い意志を感じた。
小さく頷く。
何度も。
何度も。
「戻れるさ。必ず」
全てがスローモーションに見えた。ほんの数秒の間が、エリには何時間にも感じられた。答えを待つ間、無意識のうちに息を止めていた。それに気付き、エリはゆっくりと息を吐き出す。
「何年歩いてきた?」
隼人は相変わらず穏やかな表情のまま聞く。その穏やかな表情の中に、麗子の顔を見た気がした。
「5年半、くらいかな」
「じゃあ、5年半で戻れるよ」
「5年半、か。結構長いね」
隼人に聞かれ、初めて自分がどれほど長い時間、間違った道を歩み続けてきたのかを実感する。1歩目を踏み出した瞬間から、この道が間違っていることに気付いていたはずなのに、止まることが出来なかった。そんな自分の弱さが腹立たしかった。
「…走れば、3年で戻れる」
エリが過去の自分の弱さを振り返り、その不甲斐なさに苛立っていると、隼人が突然瞳を覗き込むようにしてそう言った。
「…どういう意味?」
エリは隼人の言った言葉の意味がわからなかったので聞き返す。いや、正確には、言葉としての意味はわかったのだが、その真意がわからなかった。すると隼人は、少し困ったように言った。
「いや、落ち込んでいるように見えたから。…違ったか?」
そう言われ、エリは全てを理解した。そして、再び可笑しさが込み上げてきて、声を上げて笑い出していた。隼人は、エリが5年半も掛かることに落ち込んでいると思い、何とかフォローしようとしたらしい。当の本人は落ち込むどころか、自分の歩んできた道を振り返り、その道を戻ることにかつて感じたことのないほどの気力を感じていたのにだ。エリが笑っているのを見て、隼人はさらに困ったような顔になる。
「ありがと。じゃあ走って戻るよ」
エリは困ったような表情をする隼人を見ながらそう言う。隼人はその言葉で救われたような顔になった。
「じゃあ、戻ろうか」
そう言って隼人は歩き出す。だが、すぐに立ち止まってこちらを振り返る。その企みを含んだ表情に、エリは猛烈に嫌な予感を感じた。
「そういえば、なんでオバマなんだ?」
「え?な、何が?」
やはり予感は当たっていた。エリは何とか誤魔化そうとするが、全く言い訳は浮かんでこず、仕方なく白状することにする。
「えっとぉ…、演説上手だから」
「演説ねぇ。それでバカにしてたのか」
「バカになんて…してたけど」
エリは、自分の顔が熱くなっていくのを感じていた。隼人はそんなエリを見て笑う。その笑い顔を、エリは恨めしそうに見上げるが、隼人の笑い顔が以外にも可愛らしく、思わず吹き出してしまった。エリの突然の笑い声に、隼人の笑っていた表情はみるみるうちに困惑した顔に変わっていった。
「何か可笑しかったか?」
「…ううん。何でもない。早く戻なよ。オ・バ・マ大統領」
エリの小バカにしたような言い方に、隼人はまた苦笑いを浮かべながら、階段を下りていった。
残されたエリは、同じ学校であるにも関わらず、他の場所とは切り離されたかのように暗く、ホコリっぽい廊下に1人立ち尽くしていた。これが、今の自分を表すピッタリの場所のように感じる。
3年後、この場所から、明るく清々しいほどの爽やかな風の吹く扉の先に立つ自分の姿を想像してみる。扉の先には、4人が立っていた。
エリは大きく深呼吸をして、淀んだ空気を肺いっぱいに取り入れた。もう二度と、この空気を吸うことがないように。