隼人
「オバマ!!」
背後で、アメリカ大統領を呼び捨てにして叫ぶ声が聞こえ、隼人は思わず立ち止まる。振り返るとそこに立っていたのは、口を押さえて立ち尽くすエリだった。廊下全体に響き渡る大声だった為、周りの生徒たちも驚いた表情で2.人を見ていた。だが、その視線がエリを捉えると、驚いた表情から笑いを堪えるような表情へと変わっていった。やはり事件の影響で、エリを取り巻く環境が大きく変わっているらしいということを、隼人は改めて認識した。
「先生」
隼人が廊下を行き交う生徒たちの視線に注意を引かれていると、目の前に突然エリの顔が現れた。エリが近付いて来ていたことに全く気付いていなかった隼人は、驚いて思わず声が出そうになる。だが、目の前で自分の顔を見つめるエリが、今までに見たこともないくらい真剣な眼差しだった為、すぐに表情を引き締める。
「先生」
「どうした?」
エリの強い眼差しと声に知らぬ間に緊張し、声が上擦りそうになるが、何とか持ち堪えて返事をする。何を話す為に目の前まで来たのかを瞬時に考えるが、頭の中は真っ白になってしまっていた。だが、しばらく待ってみてもエリの口から次の言葉は聞こえてこなかった。先ほどまで強い眼差しを注いでいたエリだったが、その顔は少し俯き加減になってしまっており、そのまま2人の間に沈黙が流れ続ける。
「移動、するか?」
隼人は周りの視線を気にして聞いてみる。すると、エリは小さく頷き、「ごめんなさい」と呟いた。隼人には、それが自分をオバマと呼んだことに対してなのか、呼び止めたのにも関わらず何も言えないことに対してなのかわからなかった。
とにかく移動しようと隼人は歩き出す。行き先はどこにしようか迷ったが、1つ思い付く場所があったので、そこに向かって歩くことにする。
歩きながらふと、さっきの言葉は、事件に対しての謝罪だったのかもしれないと思ったが、そんなことはどうでもいいと思い直す。エリが何に対して謝ろうと関係ない。最も重要なことは、エリが謝罪の言葉を口にしたという事実なのだ。
歩きながらそっとエリの様子を窺ってみると、相変わらず俯き加減ではあったが、しっかりとした足取りで隼人の後ろを歩いていた。そのエリの瞳を見た時、隼人は確信する。
もう大丈夫。絶対に戻れる。
そう思わせるほど、エリの瞳は生きていた。