エリ
グラウンドに姿を見てから5分後、教室の扉が開き、隼人がゆっくりと教壇に立つ。エリは、随分早い隼人の登場を少し不審に思うが、さして深く考えることもなかった。深く考えれば考えるほど、自分にとってプラスになるような理由が次々と消え去ってしまうような気がした。
「先生、汗だくだよ」
1人の生徒がそう言ったのを聞き、エリは何気なく隼人を見る。隼人も、エリを見ていた。
「今日は暑いからな。しかも遅刻しちゃったし」
すぐに目を逸らし、笑いながらそう言ったが、エリはそんな隼人から目を離すことが出来なかった。一瞬合った瞳の奥に、今までに見たことのないほどの強い意志を感じた。
そんな強い意志を見せたかのように見えた隼人だったが、その後は何事もなかったかのようにホームルームを開始する。いつものように誰も聞いていないように見えたが、隼人が事件のことを話すのを期待して、全員が意識の半分以上を隼人の言葉に向けているのは明白だった。だが、その期待を裏切るように隼人は事件に触れぬまま淡々とホームルームを進め、時間だけが経過していた。時間と共に教室内の空気は重くなっていき、息苦しさすら感じるようになっていった。
「あのぉ、佐藤さんは何で休みなんですか?」
その空気に耐えられなくなったのか、ついに1人の生徒が口火を切る。
「ケガしたって聞いたんですけど」
その小さな種火は四方八方に広がり、教室の至る所に、「俺も聞いた」、「私も」と飛び火する。教室中に広がった炎は、あっという間に隼人を飲み込んでしまうが、もちろんその言葉の半分はエリに向けられたものであった。エリにもそのことは十分すぎるくらいにわかってはいたが、下を向き、炎の嵐が過ぎ去るのを黙って待つことしか出来なかった。
「聞いてくれ」
それまで静かに生徒たちの様子を眺めていた隼人がようやく口を開く。エリは、隼人が大声で生徒たちを止めるか、焦ってあたふたし出すかのどちらかだと思っていたので、隼人の落ち着き払った穏やかな声音を聞いて、思わず顔を上げる。
「佐藤は確かにケガをした。夜道を歩いていて過って階段を踏み外したらしい。これは警察が調査した結果わかったことだから間違いない」
隼人がようやく話し始めたことで、一気に静まり返った教室内だったが、その答えを聞き、全員の顔から明らかに失望の色が滲み出る。それでも隼人は落ち着いたまま話し続けた。
「今から私の話を聞いてくれ。それで今日は終わろう」
それを聞き、再び教室中に期待が膨らむ。
「今日は、“道”の話をしよう」
再び膨らんだはずの期待は、隼人の次の言葉を聞いた瞬間にあっという間に萎んでいった。教室のあちらこちらから、「関係ないじゃん」、「また長話かよ」などと不満の声が上がるが、隼人はそんなあからさまな失望にもお構いなしで話し続けた。
「そう。またちょっと話をさせてくれ。まず、道と言っても、車が走るような道の話ではない」
「じゃあ何の道だよ」
「私たち1人1人が生きてきた道だ」
隼人が優しく、それでいて力強い言葉でそう言うと、教室内はざわめいた。もちろんそのざわめきの大半は、隼人をバカにするような嘲笑であるのは言うまでもない。
「静かにしろよ!」
隼人をバカにしたような嘲笑の中、突然声を張り上げたのは靖子だった。エリは靖子がそんな風に教師を庇うのを初めて見たので少し驚いてしまう。
「先生。続けて」
靖子の声に続いたのは知香だった。2人は真剣な顔をして、隼人を見上げていた。隼人は、「ありがとう」と小さな声で言い、さらに続きを話し始める。
「人間には、人それぞれ歩んできた道というものがある。1人1人違う様々な道だ」
そこで、隼人はゆっくりと生徒全員を見回す。エリは隼人と目が合いそうになった時、思わず下を向いてしまった。先ほどまで隼人の瞳の奥を覗き込もうとしていたのに、いざ目が合いそうになった瞬間、なぜかその瞳を見ることが出来なかった。
「その道のりで、時には間違った方向に進んでしまうこともあるかもしれない。なぜなら、その道が合っているかどうかなんて誰にもわからないからね。進んでみて初めて間違いに気付く」
「間違ったらもう終わりじゃん。過去には戻れないんだし」
教室のどこかで小さな声が上がる。声を出すのを躊躇っていた生徒たちも、こんな話をいつまで聞かせるんだと言わんばかりの視線を、隼人に注ぎ続けていた。
「もちろん過去には戻れない。だけど、自分の進んできた道を進むことは出来るんだ。間違いに気付いたらそこでUターンをして自分の進んできた道をもう一度進めばいい。立ち止まったまま、進めるか進めないかを悩んでいるよりもそっちの方がよっぽど有意義だよ。私は、君たちにたくさん間違えてもらいたい。もちろん法に触れるようなことはしてはならないけど、間違いを犯して傷付くことを恐れてほしくないんだ。怖がって進む前に逃げ出してしまうようにはなってほしくないんだ。間違えてもいいんだ。戻ればいい。進む前に逃げちゃいけない」
隼人は一気にそこまで言う。再び重たい空気が教室を支配しようとするが、それを知香の勢いよく挙げた右手が払い去る。
「過去に戻れないんだったら意味ないじゃん。過ちは消えないし、傷も消えない。違う?」
知香の声は、勢いよく挙げたはずの右手とは対称的に、小さく、掠れて聞き取ることも困難であった。だが、隼人はしっかりと頷く。
「過去には戻れない。だから自分の進んできた道に向かって進むんだ。間違いを犯す前の自分まで進んで、そこからまた前を向いて歩けばいいじゃないか。時間は掛かるかもしれないが、次は必ず正しい道を進めるよ」
隼人は知香を見ながら話していたが、その言葉が自分に向けられたものであると、エリは知っていた。
「君たちには仲間がいる。いつでも手を差し出してくれる心強い仲間がいる。一緒に泣いて、笑い合える仲間がいる。少なくとも、私は君たちの仲間だよ」
エリは瞼を閉じる。暗闇に閉ざされた瞳の裏に、甘い物を食べ、幸せそうな知香がいた。下らないことで笑い転げる靖子がいた。そして、ずっとエリに微笑み続ける美優がいた。
あの頃の神谷エリに戻れるだろうか。
目を開けると、そこに隼人はいなかった。いつの間にかホームルームは終わっていたらしい。
エリは、真夏日の午後をどのように過ごすかで盛り上がる教室から飛び出し、遠ざかる背中に叫んでいた。
「オバマ!!」