終章 エリ
9月1日。
9月に入っても暑さが和らぐ気配は一向になく、太陽が狂ったようにアスファルトを熱している。何とか地面の向こう側へ光を届けようと躍起になって照りつけている、そんな感じだった。エリはそんな太陽の独りよがりを真正面から受け止めながら、高校への1本道を歩いていた。
まだ朝の8時を少し過ぎた頃だというのに、エリの額にはうっすらと汗の玉が浮かび上がっていた。このままの調子でいくと、昼過ぎには40℃に達するのではないか、そんな風に思わせるほどの暑さだった。
あれから2週間が経ったが、結局美優の所には1度も行くことはなかった。なぜ行かなかったのかは自分でもよくわからない。色々なことがあの1日で起き過ぎた為に、頭の中の整理がつかなかった。そう言えれば楽なのだが、実際はただ怖かっただけだろう。美優の痛々しい姿を見る度に、好子の疑うことの知らない微笑みを見る度に、最も傷付けてはいけなかったはずの美優を最も傷付けてしまったという事実が、自分の胸に突き刺さりそうで、それが怖くて逃げているだけなのだ。エリは自分のことを必死に守ろうとしてくれた美優に、未だに向き合うことが出来ていなかった。
結局あの日から今日までの2週間、ずっと麗子の家で寝泊まりさせてもらっていた。行く所もなく、母の待つ我が家に帰ることも出来ないエリに、麗子は何も言わず鍵を渡してくれた。ただ、渡すと言っても、直接渡されたわけではない。あの日、泣き疲れてそのままソファーで眠り込んでしまったエリが朝目を覚ますと、毛布と鍵、そしてしばらく部屋を使っていいという置き手紙が置かれていた。その厚意に甘えて部屋を使わせてもらっているエリだったが、部屋の主である麗子は仕事が忙しいらしく、ほとんど帰ってこなかった。その為エリは、麗子の自宅で独り暮らし状態になっていた。
エリは、麗子が忙しい中自分の為に時間を割いてくれていたことを知り、改めて感謝していた。そして、麗子のことを刑事としてではなく、1人の女性として心から尊敬し、こんな女性になれたらな、などと考えるようになっていた。
「おはぁー」
エリが真夏の9月に1人で立ち向かっていると、後方から2つの甲高い声が飛んできた。声を聞いただけで誰かわかるいつものハイテンション。振り向けばいつでも目の前にあるギャル2人。夏休み前まで当たり前だった光景を、エリはそこに見た。変わったことと言えば、夏休み前よりさらに暑くなったこと、そして、エリの心が1月前には感じることのなかった温もりを感じていることくらいだった。
「なぁにニヤニヤしちゃってるわけ?」
エリに並んだ靖子は怪訝そうに聞いてくる。そこで初めてエリは、自分がニヤけてしまっていたことに気付いた。
「は?あ…別に普通だよ。こういう顔なんだよ」
靖子の思わぬ指摘に、エリは慌ててごまかす。
「ふ~ん。エリってブスッとした顔ばっかしてるイメージだったけどなぁ」
今度は知香が靖子と目配せをしながら言う。2人の口元には先ほどまでエリが2人に見せていたと思われるニヤけた笑いが張り付いていた。それを見たエリは、自分が2人に遊ばれていることに気付く。常に優位に立っていたはずの立場が、いつの間にか逆転していた。だが、エリはそこでもう一つの事実に気付く。3人の立場は最初から変わっていなかったのだ。逆転ではなく、初めからずっと同等の立場だったはずなのだから。エリはその事実に再び顔が緩みそうになるが、グッと堪えて反撃に転じる。
「イメチェンしたんだよ!イメチェン!そんなことより知香ってそんな眉毛薄かったっけ?ないよ?」
「はぁ!?マジ!?汗で落ちた!?」
エリがそう言うと、知香は慌てて鏡を取り出そうとカバンを漁り始める。
「あれ?ねぇ、靖子もヒゲ生えてるよ?」
次にエリはマジマジと靖子のアゴを覗き込み、そう言う。すると靖子も「マジ!?」と叫んだかと思うと、知香の取り出した鏡を奪い取ろうとする。そのまま2人は鏡の争奪戦を開始してしまった。
「うちの鏡なんですけど!」
「とりま、見せてよ!」
「いやいや、意味わかんねぇから!」
「あんたの眉毛がないことなんかどうでもいいんですけど!」
「はぁ!?あんたのヒゲのがどうでもいいし!」
「ふざけんな!」
「ふざけんな!」
最後は罵声のデュエット。エリはそんな2人の掛け合いを見て、堪え切れずに吹き出してしまう。それを見た2人は不思議そうにエリが爆笑するのを見ていた。
「何がおかしいわけ?うちらにとっては死活問題なんですけど!」
「ハハハハハハ。…ごめんごめん。…嘘だよ。嘘」
エリは必死に笑いを堪えながら白状する。それを聞いた2人は、ふざけんな!だの、殺す!だの次々と罵声でデュエットをしていたが、次第にその勢いも落ち、最終的には3人で爆笑のハーモニーを奏でていた。笑いながらエリは、知香と靖子とは、泣くのも笑うのも、電話でも面と向かってでも同じような感性で感情表現をすることの出来るのだという、そんな他愛もない共通点に今まで感じたことのないほどの幸せを感じていた。