エリ
目の前をユラユラと立ち上る湯気を見ながら、エリはなぜここに来てしまったのかを考えていた。先ほどまで、麗子の作ってくれた料理を食べ、今は高級そうなソファーに座り、麗子が淹れてくれた、これまた高級そうなコーヒーを飲んでいる。麗子はシャワーを浴びてくると言い、部屋に入って行ってしまった。おそらく浴室なのだろうが、エリにはわからなかった。
麗子が作ってくれた手料理は、手の込んだものではなかったが、とても美味しかった。適当に野菜を放り込んでいるように見えたスープも、口に入れてみると感動すら覚えるような美味しさだった。パンやサラダも美味しかったが、はっきり言って手料理と呼べるものはスープしかなかった。高級そうな物ばかりの部屋で、料理だけは安っぽかったが、そんな料理でもエリには久しぶりの手料理であった。
なぜついて来てしまったのかわからなかったが、麗子と話していると何かを隠したり、意地を張ったりすることが、どこまでも無意味な気がしてしょうがなくなってしまう。エリの頭の片隅では、もう1人の自分が、「まだ逃げることが出来る」と必死に呼び掛けているのが聞こえたが、エリはその声を無視して、ここにいることを決めた。
「エリちゃんもシャワーどう?」
エリがもう1人の自分と格闘していると、背後から麗子の声が聞こえ、思わずドキッとしてしまう。だが、振り返って麗子の姿を見た瞬間に、エリの心臓はさらに跳ね上がってしまった。そこに立っていたのは、バスローブを着た麗子だったが、その頬にはほんのり赤みが差しており、艶やかな黒髪や、スラッと伸びた長い脚も相まって、驚くほどに美しかった。こんなにも刑事らしくない刑事を見たのは初めてで、エリは麗子から視線を外すことが出来なくなってしまった。
「…何?」
あまりにもエリが見つめていたのを訝ったのか、麗子はそう聞いてくる。その時になってようやく、エリは自分が麗子のことをずっと見つめていたことに気付く。
「あ、いや、何にもない…です」
エリは急に恥ずかしくなり、下を向きながら答えるが、使い慣れていない敬語がたどたどしくなってしまい、顔を上げられなくなってしまった。
「そう?で、シャワーどうするの?」
麗子はそんなエリの反応を楽しんでいるかのようにニヤニヤしながら聞き直してくる。
「えっと…後でいいです」
麗子の対応にエリは少しムッとするが、不思議と腹は立たなかった。
「そう。じゃあ…っと」
麗子はエリの横に座り、ゆっくりとタバコに火を点ける。そして、「さぁ、話してごらんなさい」と言い、深々とタバコを吸い始めた。
「何を?」
エリには何を話さなければいけないのかよくわかっていたが、それでも敢えて聞き返す。麗子に話しやすいきっかけを作ってもらいたかった。
「あなたの話したいこと」
だが、麗子は正面を向いたまま、タバコの煙が宙に漂うように、緩やかに言う。
「え?」
エリはてっきり、麗子が事件のことを聞きたがっていると思っていたので、そんな抽象的なことを言ってくるとは思わなかった。
「みぃがなんで落ちたのか聞きたいんじゃないの?」
「みぃちゃん?あれはみぃちゃんのドジ話でしょ?」
「でも…」
「そんな話がしたいの?」
正面を向いていた麗子がゆっくりとエリのほうに顔を向ける。その目は穏やかで、それでいて、エリの心の最も暗い部分を睨み付けるようであった。
「あなたが私に話したいことはそんなことじゃないでしょう?あなたの話したいこと、あなたの全てを教えて?」
「私の全て?」
そう言われても、エリには何を話せばいいのかわからなかった。麗子のほうを見ても、すでに麗子は正面を向いて、タバコを吸い続けていた。
「私の…全て」
そう声に出してみると、なぜか、今まで自分に起きた様々な出来事が頭の中に溢れてきて、自然と口が動いていた。
「小学校までは、ごく普通の女の子だった…と思う」
「じゃあ、なぜ中学校に入ってから変わってしまったの?」
麗子の、穏やかで優しい声が、エリの耳にゆっくりと到達し、エリの次の言葉を誘う。
「きっかけは…なんだろう?…親の離婚かな?」
「離婚?」
「うん。離婚自体はどこの家でもよくあることだし、別に大したことないって思う。だけどやっぱり、少しだけ落ち込んでたのは否定できない。…そんな時期にあいつに会ったから」
「あいつ?そのあいつがあなたの人生を変えたのね?」
じっと前を向いて話を聞いていた麗子が、エリの瞳を覗き込むように聞いてくる。エリの話が、最も重要な部分に到達したと、感じ取ったのかもしれない。
「どうだろう?もちろんきっかけにはなったかもしれないけど」
「聞かせて?」
「初めて会ったのは中1の春先くらい。親が離婚して2週間後くらいだったかな。母親は毎日パソコンに向き合って難しい仕事ばっかしてた。だからあんまり家に居たくなくてよく1人でプラプラしてたの。そしたら男が声掛けてきて、それが龍二だった」
「りゅうじ?それがあいつ?」
「そう。ナンパ。そん時龍二は高2で、あいつはあたしのこと高校生くらいだと思って声掛けてきたみたい。あたし結構ませてて、中学生なのに化粧とかもバッチリだったから。だけどまさか高校生に見られるとは思わなかった」
「それで?」
「向こうがあたしのこと高校生だと思ってるのに、実は中学生です。なんて言ったらバカにされる気がして、遊び慣れてる女子高生って感じで演技した。そしたら遊び行こうって言われて、好奇心でついて行ったの」
「どこに連れて行ってもらったの?」
「ゲームセンター。ゲーセンなんてプリやりに行くくらいしか用ないからあんまり好きじゃなかったけど、龍二と話してると楽しかった。その後は龍二の家に行って、キスして、そのままSEXした。遊び慣れてる演技してたけど、やっぱりヤッたら一発でバレちゃって。そん時に龍二がね、奪っちゃったから一生大事にしなきゃな。って言ったの」
エリはその時の情景を思い出し、思わず吹き出してしまった。
「フフッ。今思うとホントにバカバカしい。遊びで、ヤリたくて甘い言葉囁いただけなのに、そん時のあたしは夢見る少女だったから信じちゃった」
「騙されたの?」
「騙すほどのことでもなかったよ、きっと。だって合って3時間後には裸で抱き合ってたんだから」
「…そう。それから?」
「それから2週間くらいは毎日会ってSEXした。数えきれないくらいヤリまくった日もある。だけど、突然連絡着かなくなって。心配になって家まで行ったらすごい勢いでキレられた。勝手に来るな!中学生だって知ってるんだ!騙しやがって!って言われた」
エリの頭には、その時の龍二の顔が昨日のことのようにはっきりと映っていた。大事なものが消えてしまった瞬間。あっという間に無くなってしまった何か。それが何なのか、5年近く経った今でもわからなかった。
「だけど本当の理由は別にあった。それをエリちゃんのせいにして逃げたんだ。そいつ」
エリの回想は、麗子のステップを踏むような軽快な言葉によって遮られる。麗子は、何でもないことのように真実を言う。
「麗子さんって、何でもわかるんですね」
エリは麗子の勘の鋭さに、改めて舌を巻く思いで言う。
「そりゃ30数年生きてれば、浮気されたり、したりくらいあるわよ」
「…したこともあるんだ」
「私みたいな美人は男がほっとかないのよ」
確かに麗子くらいの美人なら仕方ないかもしれない、とエリは妙に納得してしまった。
「それで?」
脱線しかけた話を、麗子がすぐに戻す。
「もうわかってると思うけど、龍二には彼女がいて、その彼女にあたしのことがバレそうになって慌ててあたしのことを切ったみたい。夢見る少女のあたしでもさすがに気付いた」
「気付いて、どうしたの?」
「別にどうもしない。ただ、何もかもめんどくさくなって、壊れちゃった」
「壊れた?」
「そう。神谷エリは壊れちゃいました」
エリは無理に笑顔を作り、おどけてみせる。だが、麗子はそんなエリの姿を見ても、顔色一つ変えない。
「壊れるって、具体的にはどういう風に?」
顔色一つ変えずに質問してくる麗子のことを見つめながら、こんな人がホントにお姉ちゃんだったらな。などと、全く関係ないことをエリは考えていた。
「具体的には、援交とかかな。自慢じゃないけど、お金くれた奴とヤらなかったことないよ」
「本当に自慢じゃないわね。そんなこと刑事に自慢する娘いないもの」
麗子のキツいツッコミに、エリは麗子が刑事だということを思い出す。不思議なことに、麗子と話し出してから、麗子が刑事だということをすっかり忘れてしまっていた。
「他に犯罪は?」
「え?」
突然麗子の口から出た不穏な言葉に、エリは言葉を失う。
「犯罪?」
「そう。援交は犯罪よ。他には?」
「他?えっ…と」
犯罪という言葉と、目の前にいる女性が刑事だったという事実が、エリの言葉を詰まらせる。
「ほら、早く言いなさい。お姉ちゃんに」
言葉に詰まるエリに、麗子が掛けた魔法は、エリの心の氷を溶かすには十分過ぎるものだった。
「お姉ちゃん…」
「そう。全部話しなさい。お姉ちゃんに」
「…援交、万引き、リンチ、恐喝、後は、シンナーかな」
「シンナーはずっと?」
「ううん。ちょっと吸ったら気持ち悪くなってすぐやめた」
「覚せい剤は?」
「やったことない。高いし、あたしのとこに来る前にみんなが買っちゃうから」
「じゃあ来たら買ってた?」
「たぶん」
「そう。じゃあ運がよかったのね」
麗子はホッとしたようにそう言う。
「運がいいのか悪いのかわからない。みぃにあんなことするなら、薬中になってたほうがよかったのかも」
エリはまたおどけたように笑顔を作って麗子を見る。相変わらず麗子の表情は変わらない。と思った瞬間、麗子の顔がみるみる赤くなっていった。
「ふざけないで!いいに決まってるでしょ!次そんなこと言ったら私はあなたを許さない!」
麗子の物凄い剣幕に、エリはたじろぎ言葉が出てこない。少しの声も出せないまま下を向いてしまい、顔を上げることが出来なくなってしまった。しばらくすると、麗子が吐息を吐き出すのが聞こえてきた。
「エリちゃん」
呼び掛けられ、恐る恐る顔を上げると、そこには穏やかな表情に戻った麗子が優しく微笑んでいた。
「エリちゃん。これだけは約束して。二度と自分で自分を傷付けるようなことは言わないこと。わかった?」
「……はい」
「いい子ね」
返事をして再び俯いてしまったエリの髪の毛を、麗子が優しく撫でる。こんなに叱られたのはいつ以来だろうか、思い出すことが出来なかった。エリは叱られて涙が出そうになる自分に驚き、思わず麗子のバスローブを掴む。そんなエリの心境に気付いたのか、それまで優しく撫でていた麗子の手に少しだけ力が加わり、エリの頭はゆっくりと麗子の胸に抱き寄せられた。
「お母さんから連絡はないの?」
その状態のまましばらく時が経ち、エリの心も平静を取り戻し始めた頃、頭上から麗子の声がした。その声は先ほどまでの美しい声音ではなく、少しだけ掠れていたが、それでも相変わらず優しい響きを保っていた。
「…ない。うちの親はあたしがどうなろうと関係ないから」
エリは麗子の胸に顔を埋めたまま、自嘲気味に言う。また麗子に叱られると思ったが、麗子から返ってきた声は、意外にも穏やかなままだった。
「さっきの約束、もう忘れたの?」
「…ごめんなさい。だけどホントのことだから」
「どうしてそう思うの?」
「だって、最初の頃は毎日電話あったし、メールも来てたけど、今は全然連絡ないから。たぶん諦めたんだよ。あたしなんか娘じゃないって思ってるよ、きっと」
麗子との約束を破るつもりはないのに、自然とネガティブなことばかりが口から出てしまう。止めたくてもどうしようもなかった。
「確認したの?」
「何を?」
「お母さんがあなたのことを娘だと思ってないって」
麗子が言った言葉の意味が一瞬わからなかったが、エリはすぐに苦笑する。
「確認するわけないじゃん」
「どうして?」
「わかりきってるもん」
そうエリが言うと、麗子が再び吐息を吐くのが聞こえた。
「確認しなきゃダメよ。自分で勝手に決めつけちゃダメ。あなたの想いを言葉にしなさい。そして、相手の想いをしっかり聞きなさい」
エリにはよく意味がわからなかった。言葉にしなくても、相手の態度や行動などを見ていれば、相手が自分のことをどう思っているのかわかるはずなのに。それをわざわざ言葉にしたら、逆に傷付くではないか。そう思ったエリは、麗子の言葉に反応することが出来ないまま、黙り込んでしまった。
麗子もしばらく何も言わなかった。それから数分が経った頃、「みぃちゃんは?」と麗子はようやく言う。
「みぃ?」
突然麗子の口から美優の名前が出たので、エリは動揺してしまう。そして、次にどんな質問が続くのか不安になる。
「みぃちゃんは親友でしょう?あなたのことを理解してくれてるんじゃない?」
エリの心配をよそに、麗子は事件とは全く関係のないことを聞いてくる。エリは一瞬の間の後、美優のことを真剣に考える。
「…どうだろう」
いくら考えても、美優がなぜこんなにも自分のことを大切にしてくれるのか全くわからなかった。
「みぃちゃんはあなたのことが本当に大好きなのね。目が覚めて真っ先にあなたのことを心配していたみたいだから。自分に何が起きたのかなんて全然気にしていなかった。そんな彼女のことをあなたはどう思ってるの?」
そう言われ、次は自分が美優のことをどう思っているのかを考えてみる。
痛々しい包帯姿の美優。
笑顔の美優。
今にも泣き出しそうな顔をする美優。
いつも横にいた美優。
どこにいてもすぐに来てくれた美優。
そんな美優のことを、自分はどう思っているのか。
「わかんない…」
わからなかった。だが、その時エリの脳裏には、意識を取り戻した美優が必死に自分のことを庇おうとしている姿が、はっきり映し出された。
「わかんない。けど…」
「けど?」
「みぃのこと、守りたい」
聞こえただろうか。麗子の胸に抱かれたまま言ったので、聞こえたかどうか不安だった。
「…そう」
そんなエリの不安は、しばらくして聞こえてきた麗子の返事によって解消される。だが、聞こえてきた麗子の返事は、今度は完全に掠れて、聞き取ることも困難であった。
再び部屋が静寂に満たされようとした時、携帯のバイブが振動する音が部屋に響き渡った。その音に麗子が反応して立ち上がる。
「ちょっと待ってて」
小さな声でそう言って、麗子は携帯を開き誰かと話しながら奥の部屋へと消えて行った。
エリはソファーに座り直し、麗子との会話を思い返す。麗子に自分の過去をほとんど話してしまった。こんなに1人の人と会話をしたのはいつぶりだろう。思い出すことが出来ない。会話をしたと言っても、ほとんどエリが一方的に喋るのを、麗子が聞いているだけではあったが、それでも誰かが話を聞いてくれるということが、こんなにも自分を安心させてくれるものだとは露ほども知らなかった。
誰かに叱られることがこんなにも恐ろしいということも初めて知った。今振り返ってみると、麗子に見放されたらどうしようかと思い、涙が零れるほど激しく動揺してしまった自分に心底驚いてしまう。
母との今の関係についても初めて誰かに話したが、エリが麗子と話していて唯一納得がいかないのがこの部分だった。なぜわかり切ったことをわざわざ確認しなければならないのか。もう何年も連絡は来ていないし、学校の行事に親を呼んだこともない。三者面談なども全て無視してきたが、親や教師が何か言ってくることもなかった。確かに毎日学校に来ているので、安否に関しては問題ないにしても。娘が毎日学校に来ているからといって、連絡もせずに放っておく親がいるわけがないのだ。何度考えても、母が自分を心配しているようには思えなかった。
エリがそんなことを考えていると、奥の部屋の扉が開き、麗子が現れた。麗子の格好は、先ほどまでのバスローブ姿ではなく、Tシャツにジーンズという軽装に変わっていた。
「ちょっと呼び出しを受けちゃったから出るわ。この部屋が寝室だから眠くなったら使って。じゃあ行くわ」
麗子は奥の部屋を指差し、早口でそう言いながら足早に玄関に向かう。エリは麗子が一度も振り向かないことを不審に思うが、あまりに早い行動に少し虚を衝かれ、呆然と見送ってしまう。
靴を履き、そのまま何も言わず出ていくと思われた麗子は、玄関のほうを向いたまま話し始める。
「ねぇ。エリちゃん」
「はい」
麗子がそのまま出ていくと思っていたエリは、麗子に話し掛けられ、再び虚を衝かれる。だが、返事は自然と出ていた。
「壊れたものは、修理出来るのよ」
「え?」
「おやすみなさい」
麗子はそれだけ言うと、暗闇の向こうに消えてしまった。残されたエリは、麗子が最後に残した言葉の意味を考える。
こんな風になってしまった自分を元の自分に直すことが出来るのだろうか。そんな可能性は全くないように感じる。だが、エリが今一番信頼出来る大人だと思い始めている麗子は、直せると断言した。
エリの頭の中では、“壊れたものは修理出来る”“確認しなきゃダメ”という、2つの言葉が目まぐるしく周り続けていた。その時、エリの携帯が大きな音を響かせ鳴り始めた。久しぶりに聞く自分の携帯の着信音に少し驚き、慌てて携帯を掴むと、そこには、“知香”と表示されていた。突然知香から連絡が来たことに、エリはどうしようもないくらいの不安を感じてしまう。なぜ今頃になって急に連絡をしてきたのか。まず間違いなく知香はエリが美優にしたことを知っているだろう。そう考えると、そのまま携帯を机に放り投げそうになってしまう。そんなエリに携帯を握り締めさせ続けていたのは、着信音以上の音量で頭の中に響き続ける、麗子が言っていた2つの言葉だった。そして、エリは携帯をゆっくりと開いた。