美優
シン、と静まり返った病室に、美優は1人横になっていた。先ほどまで隼人が椅子に座り、たくさん色々な話を聞かせてくれていたが、好子と一緒に帰ってしまってからは、ずっと1人だった。隼人は事件ついては何も聞いてこなかった。美優のケガの状況と、心の状況、それだけを確認しに来たようだった。
結局、誰にも本当のことは話さなかった。1度も嘘をついたことがない母親の好子にも話さなかった。だが、本当にこれが正しい選択なのか、美優にもわからなかった。エリを守るつもりで嘘をついたが、嘘をつくことがエリを守ることになるのだろうか。エリがもし、あの3人と付き合い続けたら、もっと取り返しのつかない事件を起こすことになるかもしれない。そうなったら、美優がエリの為にと嘘をついたことが、逆にエリを深く真っ暗な穴底に突き落としたことになるのかもしれないのだ。そう考えると、美優には何が正しいのかがわからなくなってしまうのだった。
“トントン”
美優が、答えの見つけることの出来ない問題に頭を抱え悩んでいると、ノックの音が弱々しく病室に鳴り響いた。こんな時間に誰だろうと時計を見ると、夜の8時を回ったところだった。面会の時間は過ぎているのに病室まで来るということは、警察かもしれない。
「…はい」
そう思った美優は、警戒しつつ返事をする。だが、返事をしても扉が開く気配がなく、しばらく待っても全く動きがなかった。もしかしたら声が聞こえなかったのかもしれないと、もう一度返事をしようとした時、ようやく扉が開いた。
警察が立っていると警戒していた美優は、扉の向こうに現れた予想外の顔に衝撃を受ける。
「やぁ」
扉の向こうに立っていたのは、大村晃太であった。美優は晃太の突然の出現に言葉を発することが出来ず、ただ呆然と晃太の顔を見つめてしまった。
「元気?」
「え?」
混乱した美優の頭には、“元気”というたった3文字の言葉でさえ、理解不能になってしまっていた。
「元気?」
「あ、うん。元気だよ」
美優の見つめ続ける視線に、晃太は恥ずかしそうに下を向いてしまう。晃太のそんな姿を見て、自分が見つめ続けていたことに気付いた美優も、思わず赤面してしまった。
「…そっか。よかった。看護婦さんにお願いしたら、少しだけなら面会してもいいって言われて」
「そうなんだ。あ、入って?」
「うん」
未だに扉の向こうに立ち尽くしていた晃太は、どこかギクシャクした動きで、ベッドサイドまで歩いて来て椅子に腰掛けた。美優はあまりの緊張に頭が働かず、何の言葉も浮かんでこなくなってしまっていた。
「ケガの具合はどう?」
「え?」
真っ白になっていた頭の中に突然晃太の声が響き、美優はまたも聞き返してしまう。自分が日本語を忘れてしまったのではないかと思ってしまうほど、晃太の言う言葉の意味が理解出来なかった。
「ケガの具合はどう?」
「あ、うん。全然平気だよ。意識がなかったなんて信じられないくらい」
「そうなんだ。美優ちゃんがケガしたって聞いてびっくりしたけど、本当に良かった」
「びっくりだよね。階段から落ちて死にかけるなんて自分が1番びっくり。まぁ昔からタンスの角に小指ぶつけたり、窓が開いてると思って走って行ったら閉まっててぶつかったりとかはよくあるんだけどね。けど死にかけるほどのドジなんて恥ずかしいよね。他にもドジはたくさんあるんだけど、例えば…」
「フフ」
「え?」
「あ、ごめん。美優ちゃんが元気そうでよかったと思って」
気付けば無意識のうちに喋り続けていた美優は、晃太の笑いで我に返り、恥ずかしさであっという間に真っ赤になってしまった。晃太と話している時は何度も赤面してしまう。
「ごめんね。ペラペラ喋りまくっちゃって。なんか恥ずかしい」
「ううん。全然大丈夫。美優ちゃんの話聞いてると楽しいし」
「本当?」
「うん」
「じゃあよかった」
喋っている間、晃太と同じようにずっと下を向いていた美優は、ふと晃太の顔を見る。すると、晃太も美優のことを見ていた。普段なら恥ずかしさですぐに目を逸らしてしまう美優だったが、この時はなぜか目を逸らしてはいけないような気がして、じっと晃太を見つめていた。
そんな風に見つめ合っていると、徐々に晃太の顔が近付いてくるように感じる。錯覚かと思ったが、それにしてはやけに近くに晃太の顔が見えた。
ゆっくりと近付いてくる晃太。
晃太の顔がどんどん大きくなる。
50cm、40cm、30cm、20cm………。
「そ、そろそろ帰るね」
「ふぇ!?」
「じゃ、じゃあまたメールするね。あ、やっぱり電話のほうがいい?あ、けど病院だしメールのほうがいいのかな?あ、けど病院なんだからメールもしないほうが、……あの、とにかくまた連絡するね。じゃあ、おやすみ」
「え!?あ、うん…」
美優が返事をした時には、晃太の姿はどこにもなかった。
ベッドに座り、呆然としていた美優は大きく息を吐き出し、苦笑してしまう。
「おやすみ。大村くん」
そう言い、布団に潜り込んだ美優は、晃太とどんなことを喋ったか改めて思い出そうとした。しかし、どれだけ考えても、自分が何を喋っていたかまるで覚えていなかった。喋った内容どころか、晃太が病室の扉の向こうに現れた瞬間から先のこと全てが、おぼろ気で、霞が掛かったかのように不鮮明になってしまっている始末であった。
ただ、どんなに混乱した頭であっても、真実は話さなかった。あくまで自分で落ちたと言い張った。それが、月明かりに照らされる病院の硬いベッドの中で、美優の出した答えであった。