隼人
4月4日。
昨日の始業式から1日経ち、今日から本格的に高校生活最後の1年が始まる。
教室に向かう廊下を、隼人は颯爽と歩いていた。隼人の転任後初めての授業はHR。普段なら何をやるのか、毎回決めておかなければならない時間なのだが、新学年が始まり、最初のHRは、大抵はクラス委員を決める。その例に漏れず、今日のHRはクラス委員を決めることにしていた。
教室の前まで来ると、扉を開ける前に立ち止まり、大きく1回、深呼吸をする。子供の時から、事あるごとに立ち止まり、深呼吸をしていた為、大人になった今でも、授業の前には必ず深呼吸をする習慣がついてしまった。
深呼吸によって自分の落ち着きを確認した隼人は、ゆっくり扉を開ける。その扉の先には、異世界が広がっていた。
男子の低い声と、女子の高い笑い声。その間を縫うように、ガムを噛む音や、お菓子の袋を開く音。様々な雑音が全て重なった時に起こるのは、眩暈がするほどの不協和音だった。
隼人が教壇に立っても、生徒たちは一向に気付く気配がない。おそらく、気付いてもあまり変化はないように思うが、授業を始めなければならない為、声を掛ける。
「始めます!」と言ってみても、思った通り変化なし。仕方なく何度も声を掛け4度目で何とか授業の形を作ることが出来た。
「今日の1限目はクラス委員を決めていこうと思います」
ようやくHRに入ることが出来た隼人だったが、もうすぐ教師生活10年を迎える経験上、このセリフに返ってくる返答は1つしかなく、このセリフはいるのだろうか、と自問自答してしまう。
「何でもいい~」
生徒たちは、隼人の予想と一言一句変わらぬセリフで答える。隼人は、思わずガッツポーズが出てしまいそうな自分を必死に抑え、授業を進める。
「まぁそう言わずに。まずは学級委員長を決めようか。誰か立候補はあるかな?」
クラス委員は多種多様、様々あるが、全てに共通して言えることが1つあった。それは、誰が何になっても何もやらない。一般常識の問題に出されてもおかしくないんじゃないかと思うほど、不変の共通項だ。だからといって、やらないならそれでいいと言うことも出来ないので、結局学級委員長がほとんどの仕事をやるはめになる。その為、毎年学級委員長だけはいつまで経っても決まらない。今年も例年通りの長丁場を覚悟していた隼人は、聞こえてきたやり取りに驚く。
「みぃ。やりなよ」
「え?私?学級委員長なんて出来ないよ」
神谷エリと佐藤美優だった。
小声でのやり取りならまだしも、全員の聞こえる声で強制するエリに、隼人は言葉が出なかった。エリに指名された美優は慌てて断っている。
「いいからやりな。わかった?」
「…うん。わかった」
エリが有無を言わせぬ強い口調で言うと、美優は学級委員長を引き受けた。
「先生。学級委員長はみぃで決まりました」
エリにそう言われても、隼人にしてみれば到底容認出来ることではなく、普通ならすぐに無効にする決定だった。だが、2人のやり取りを見ていた隼人は、そのやり取りの中に違和感を覚え、その違和感の正体を突き止めることに頭を奪われていた。
客観的に見れば、エリに無理矢理指名され、美優がエリに怯えて、仕方なくやることになったように見えるが、隼人には、美優が恐怖や怯えからエリの言うことを聞いたようには見えなかったのだ。むしろその逆。幸福感や喜びを感じているようにさえ見えた。
「佐藤。本当に学級委員長でいいのか?」
隼人は、その違和感を胸の内に押し留め、聞く。
「はい。大丈夫です」
やはり美優の返事には、恐怖や怯えは微塵も感じられなかった。
「じゃあ学級委員長は佐藤にやってもらおう。次は副学級委員長を決めなきゃな」
そう言い、再び立候補を待とうとした隼人だったが、ふと思い付き、続けて発言することにした。
「これは、神谷にやってもらおう」
「はぁ?なんであたしなの?勝手に決めんなよ」
隼人の独断での指名に、エリは当然のことながら抗議する。隼人は自分のことを睨み付ける少女に、諭すように話す。
「神谷は佐藤を指名したんだぞ?つまり君も誰かに指名される可能性がある。そうじゃないかな?」
そこからエリとの睨み合いがしばらく続いたが、結局エリが折れる形でこの闘いは決着が着く。
「意味わかんないし!…まぁいいや。めんどくせぇしやったげるよ」
「よし。じゃあこれで学級委員長が決まったので、ここからは2人に任せよう」
そう言って隼人は教壇から降り、窓際へ歩いていく。その短い距離を歩く間に、隼人の頭には、騒がしい異世界のような教室で、一言も喋らずに窓の外を眺め続けている少女と、その少女の背中を、微笑みながら見つめる少女。2人の少女の姿が浮かんでいた。