エリ
8月17日。
エリは渋谷にいた。
美優が宏樹たちに襲われて、ケガをしてから1週間が経っていた。エリはあの日以来、1度も病院には行っていなかった。行かなかったのではなく、行けなかったのだ。
美優は一命は取り留めたものの、依然意識不明の状態であるらしい。あの日から誰にも会わずに過ごしてきたが、誰かから連絡が来ることもなかった。
美優に意識が戻れば自分は逮捕されるだろうか。少なくとも美優には確実に見捨てられるだろう。そうなれば、自分はいよいよこの世には必要のない人間になってしまう。これまで何度となく浮かんだ考えを、エリは再び考えていた。そして、その度に恐怖を覚えるのだった。
だが、身も凍るような恐怖を感じながらも頭の隅では、全ては自分が犯した過ちが原因なのだからという、冷静な考えも浮かんでいた。事件後のエリの頭の中は、その2つの対称的な考えに支配され、混乱し続けていた。
「へい、彼女」
エリが座って混乱した頭を整理しようとしていると、誰かが上から声を掛けてきた。今時「へい、彼女」なんて声の掛け方など聞いたことがなかったし、今はそれどころではなかったので、エリは無視することにした。が、その男は懲りもせず話し掛け続けてきた。
「お茶でもしようよ。ねぇ、カーノジョ」
エリはそのまま無視し続けようとも思ったが、あまりにも鬱陶しく、さっさと追い払ってしまおうと、顔を上げ相手を睨む。
「ウザいんだけ……ど」
だが、顔を上げたエリの目の前に立っていたのは、遊び人のチャラチャラしたバカ男ではなく、常に口元に微笑みを湛えるあの女刑事だった。
「探したわよ」
そう言うと、女刑事はエリの横に座り、タバコを取り出す。
「…何の用ですか?」
エリは驚いたがすぐに立て直し、探りを入れる。
「あなた、家に帰ってないらしいわね」
女刑事はエリの探りなど完全に無視し、深々とタバコを吸い、煙を吐き出しながら全く関係のない話をし出した。何度話しても、常に相手のペースで進む会話に、エリは無力感すら感じ始めていた。
「だから何ですか?」
「どうして帰らないの?お母さん心配してるわよ?」
「関係ないでしょ」
母の話をされた為、エリは苛立つ。冷静に対処しなければならないと頭ではわかっているはずなのに、気が付くと完全に飲み込まれていた。
「関係あるわよ。あなたの居場所を探すのに苦労したんだから。病院にお見舞いに来るかと思ったら全然来ないし」
「……それで、私を探して何の用ですか?」
エリは相手の言葉に苛立ちを隠さずもう一度聞く。何でも答えるから、早く終わらせて欲しかった。
「帰ったほうがいいわよ」
「そんな話をしに来たならどっか行って!」
エリの大声に、道行く人々が振り向く。だが、それは一瞬のことだった。数秒も経たぬうちに、エリの大声などなかったかのように全員前を向いていた。そして、目の前にいる女刑事の表情も少しも変わらない。相変わらず微笑みを口元に保ちながら、静かに核心に迫る。
「清水宏樹っていう男の子はあなたの知り合いかしら?」
あまりにも衝撃的な問いに、エリは言葉が出なくなる。自分の表情が歪み、息も荒くなるのがわかる。数秒間の沈黙の後、何とか平静を保とうと表情を作るが、うまくいっているかは甚だ疑問であった。
「お友達?」
そんなエリの不安を見透かすように、女刑事は問い掛けてくる。
「…そうですけど。それが何か?」
それだけ言うのにも、エリは精一杯腹に力を込めていた。
「佐藤さんが落ちる数時間前にね、清水宏樹を含む3人組が意気揚々とクラブから出ていくのが目撃されているの」
「クラブから出ていくのに問題があるんですか?」
もう詰みだ。そうわかっていたが、この女刑事に負けるのが悔しい。その思いだけで、エリは抵抗を続けていた。
「そうね。それだけじゃ別に問題ないわね。まぁ、未成年がクラブに行っているのは問題と言えば問題だけど、それは今回はいいってことにしましょう」
「問題ないなら別…」
「けどね、その3人組がクラブから出る直前に電話で話してるの。すぐに会話は終わったらしいけど、近くにいた別のお友達がね…」
エリが反論を言い終わらないうちに刑事はさらに話し出す。その表情は先ほどと変わらず微笑を保っているが、なぜか少し哀しそうであった。
「“エリ”って言ったのを聞いてる。彼らの周りでエリって名前の子はあなただけ。それであなたに話を聞きに来たのよ。あの時、何を話したの?」
「……」
「あなたが話さないなら彼らに話を聞きに行くわ。…時間の問題だと思う」
女刑事は静かに、優しく語りかけるように話す。エリは、この女刑事に勝てないと悟った。始めから逃げ切ることなど諦めていたが、最初から最後まで一度も勝てなかった。
「何で…何で宏樹が浮かんだんですか?」
エリはどうしても気になった質問を1つだけする。エリがこの質問をするということは、自分の事件への関与を認めているようなものであった。それを女刑事も汲み取ったようで、少しだけ目を伏せ、相変わらずの優しい声音で答える。
「警察はあなたが思っている以上に仕事が出来るのよ。補導なんかとは全然違う。事件性があれば、虱潰しに聞き込みをしまくるの。そして、真相を突き止める」
そこまで言うと再び顔を上げ、エリの瞳を見つめたまま、「それに、最初からあなたが怪しいと思ってた。だからあなたがよく行く所を重点的に調べただけよ」と言った。
エリは大きく息を吐き出していた。やはり最初からバレていたのだ。逃げ切れないとわかっていたのだから何も怖がる必要はない。逮捕されてどうなるかはわからないが、どうなっても仕方がないだろう。
エリは立ち上がり、女刑事の顔を真っ直ぐに見る。初めて恐怖や怯え、嫌悪以外の感情でこの女刑事の顔を見つめることが出来た気がした。
「あたしを警察に連れて行くんですよね?」
そう言ったエリの言葉は、携帯の着信音によって遮られる。鳴っているのは女刑事の携帯らしい。
女刑事は、「ごめんなさい」と言いながら電話に出る。少し離れたところまで移動し、携帯で話し始めた女刑事を見ながら、エリは美優のことを考える。エリにとって今何よりも重要なことは、美優の今後だった。
美優は目覚めてくれるだろうか。一命を取り留めたと聞いた時には自分の犯した罪など忘れてしまうほどに安心した。
美優が目覚めた時に自分はそばに居られるだろうか。居られないだろう。もし逮捕されていなくても、美優は全てを知っている。エリのしたことを全て知っている。そんな美優と、面と向かって会うことなど出来るわけがなかった。
「よかったわね」
「はい?」
そんなことを考えていると、女刑事の声が突然聞こえ、エリは間の抜けた返事をしてしまった。いつの間にか電話を終えた女刑事がエリの目の前に立っていた。
「佐藤美優さんが意識を取り戻したらしいわ」
「…え?」
そう言われても、一瞬何のことか理解出来なかった。たった今まで考えていた美優のことなのに、エリには女刑事の言葉がすぐには頭に入ってこなかった。だが、徐々にその言葉の意味を理解し始めると、喜びが押し寄せる。
「ホントに?みぃが起きたんですか?」
「ええ。起きたらしいわ。今から病院に行くけどあなたも一緒に来る?」
エリはすぐにでも病院に行きたかったが、先ほどの考えが頭の中を満たしていく。美優と顔を合わせた時、美優は反応を示すだろうか。エリは恐怖で首を縦に振ることが出来なかった。
「…あたしは…行きません」
その答えを女刑事は予想していなかったのであろう。驚いたように眉根を寄せるが、すぐに理由に思い至ったようで、静かに息を吐く。皮肉にも、エリは初めてこの女刑事に驚きを与えることに成功していた。
「…そう。美優ちゃんがあなたに会いたいって言ってるらしいけど、それでも来ない?」
「え?」
女刑事の言葉に、次はエリが驚く。美優が自分に会いたがっているなんて少しも考えていなかった。
「行きましょう」
そう言って、女刑事はエリの答えを待たずに歩き出した。エリは無意識のうちに、その背中を追って歩き出していた。
病院の待合室で待っている間、エリは何度も帰ろうと思った。病室には、先に警察が話を聞きに入った為、エリはそれが終わるまで待っているのであった。
美優が自分に会いたがっていると聞いて、もしかしたら美優は何も気付いていないのではないかと思ったが、よくよく考えてみると、ただ単にエリを問い詰める為に呼んだのかもしれない。何も気付いていないとかもしれないと思った自分がどうかしていたとしか思えなかった。時間が経てば経つほど、逃げ出したい気持ちが強くなっていく。
そんなエリを待合室のベンチに留まらせているのは、先ほど見た好子の姿であった。病院に入り、病室に向かっている時、廊下で擦れ違った好子。擦れ違うエリたちに深々と頭を下げ、礼の言葉を述べた好子。美優の着替えを取りに家に戻るのだと、嬉しそうに喋る好子。
どの表情も幸せに満ち溢れていた。美優への愛の深さを感じさせた。あの表情になるまでの1週間、好子はどれだけ苦しんだのだろうか。どれだけ不安や悲しみに苛まれたのだろうか。それを考えると、美優や好子に謝らずにはいられなかった。その気持ちだけが、エリを待合室の固い椅子に座り続けさせていた。
どのくらいの時間が経ったのかわからないが、前方から2人の刑事が歩いて来るのが見えた。2人の刑事はエリの前に立ち、エリを見下ろす。
エリも立ち上がり、2人の目を交互に見る。遂にこの時が来たとエリは思った。美優に全てを聞いた警察が、エリを被害者に会わせてくれるだろうか。会わせてくれないに決まっている。それでもエリは、少しだけでも美優と話をさせてもらえるように頼むつもりだった。だが、エリが何か言う前に刑事の口から出た言葉は、エリが全く予想していなかった言葉であった。
「署に帰るわ。美優ちゃんが待ってるから会っていってあげなさい」
女刑事の表情からは相変わらず何も読み取ることが出来なかった。
「でも、あたしは警察に行くんでしょ?」
エリはからかわれているのかと思った。その為、自分から警察へ行く話をしてしまう。
「…何の話かしら?」
だが。女刑事から返ってきた答えは、エリをさらに困惑させるものだった。
「何のって…どういうこと?」
警察は美優から話を聞いて、エリが事件に関わっているのは知っているはずなのに。何が起こっているのか全くわからなかった。そんなエリの困惑を見透かすように、女刑事は話し始める。
「佐藤美優さんから話を聞いて、事件性はないと判断したのよ」
「事件性がない?」
「そう。彼女は家に帰るのに近道をしようとして公園を通り、誤って階段から落下したそうよ。だから事件じゃなくて事故」
「そんな…」
エリはあまりの驚きに言葉が出なかった。女刑事から話を聞いた今でも、何が起こっているのかわからなかった。
「だから帰るわ。さっさと彼女の所に行きなさい。じゃあね」
そう言って、2人の刑事はエリの前から立ち去った。2人の内の片方。男の刑事の方は明らかに納得していない表情であったが、それはエリも同じである。
エリの頭の中は何が何だかわからないほどに混乱していたが、それでもその足は、自然と病室に向かって1歩を踏み出していた。