麗子
麗子は公園の階段の上に立ち尽くし、一点を見つめていた。階段の下には、大量の黒い血が溜まっていた。アスファルトに溜まった出血の量を見るだけで絶望的な気持ちになる。
「槙村さぁん」
麗子を呼ぶ声が聞こえ振り返ると、部下の近藤が走ってきていた。
近藤啓二。刑事になる為に生まれてきたような名前。だが、刑事になる為に生まれてきたはずの近藤の性格は、驚くほど単純で騙されやすかった。容疑者を泣き落とそうとして、自分が泣き出してしまうほど。そんな間抜けな刑事を、麗子は嫌いではなかった。そんな刑事が1人くらいいてもいいんじゃないかと思うのだ。上司がクズなら、部下は必死にならなくてはならないが、逆に上司がしっかりしていれば、部下の1人や2人使えなくても問題ないのだ。そして、麗子はもちろん後者のタイプの上司だった。
噴水の辺りから全速力で走ってきた近藤は、麗子の目の前で止まり、文字通り麗子の目の前に携帯を差し出してきた。
「何?」
「噴水の前に落ちていました」
「誰のなの?」
「自局番号表示の所には、佐藤美優と書いてありました」
「佐藤…美優」
麗子はその名前を口の中だけで呟く。どこかで聞いたことのある名前だった。
「事故っすかねぇ?」
近藤が呑気に言った声で麗子は我に返る。そして、その発言に耳を疑った。
「事故なわけないでしょ。いえ、結果的には事故かもしれないわね」
「どういうことっすか?」
近藤は大きな目をキョロキョロさせながら聞いてくる。興味がある話題になればなるほど、その瞳はよく動く。相手の話を聞きながら、周りの状況や相手の細かい動きを確認しているのだ。そういう刑事の癖が、麗子と話している時でも出てしまう。それ自体は何の問題もなかった。問題なのは、普通の刑事はそれを相手に悟られないように行うという点だ。残念ながら近藤の場合は、それを相手に見せ付けるように行う。それも無意識で。聞き込みには全く適さない癖だった。
「事故だったら、噴水の前に携帯が落ちているのはなぜ?ここから噴水の前まで50m以上あると思うけど」
「ああ!そうっすよね。てことは…誰かに突き落とされた?」
事件の臭いがしたからだろう。近藤の瞳は動きだけではなく、輝きまで増した。
「かもしれないし、違うかもしれない」
「違うかもしれない?違うとしたらどういうことですか?」
「わからないわ。そんなことより、他に何かわからない?」
麗子がわからないと言った瞬間に、近藤はあからさまにガッカリした表情を見せる。麗子はその表情の単純さを見て、近藤以上にガッカリしてしまう。改めて、この刑事を教育しなおさなければいけない。そう思わざる負えないほどに。
「他に、と言いますと?」
「だから、メモリーとかから親とかわからないの?」
麗子は近藤の頭の悪さと、刑事としての勘の鈍さに呆れながら言う。
「あぁ。それはもうバッチリです。ご両親に連絡したらすぐに病院に来るそうです」
「そう。他には?」
「他…ですか?……そういえば着信が10件以上来てました。しかも同じ人から」
なぜそれをすぐに言わない。喉元まで出かかった罵声を飲み込み、聞く。
「誰から?」
「エリちゃんです」
「エリちゃん?」
「はい。着信履歴にエリちゃんから12件、着信アリとなってました」
近藤はそう言うと、携帯を開き着信履歴を見せてくる。
「あなたの彼女と同じ名前ね」
「え?いや、俺の彼女はエミです。エ・ミ」
「そうだっけ?」
自分の彼女の話になった途端にデレデレとし出した近藤の手から携帯を取る。
「何やるんですか?」
「エリちゃんに掛けるの」
「え?勝手にそんなことしていいんですか?」
近藤は麗子の行動に焦ったように聞いてくる。
「なんか文句ある?」
「いや、ないっすけど」
「よろしい」
麗子はエリちゃんと表示されている画面で通話ボタンを押す。呼び出し音が鳴り始めると、すぐに相手は出た。
「もしもし?みぃ?今どこ?」
「佐藤美優さんは病院よ」
「……誰?」
電話に出た瞬間から矢継ぎ早に話し出した相手は、麗子の声を聞いて一気に警戒心を露わにする。かなり焦っている様子だった。
「青崎警察署の槙村って言います。あなたはエリちゃんね?」
「警察?…みぃが病院?」
麗子の研ぎ澄まされた感覚は、エリのその反応を敏感に感じ取った。
「ええ。あなたの名前は?」
一瞬の沈黙。麗子は相手が電話を切ろうとしたのを察知し、鋭く言い放った。
「切らないで!ここで切ったら印象悪いわよ?」
「……」
「名前だけでも名乗りなさい」
「…神谷エリ」
「高校生?」
「もう名乗ったから切る」
最初の勢いはなくなり、携帯を耳に押し当てても聞き取りづらいほどの小声で、エリは話す。
「そう言わないで答えて?」
「……青崎高校」
かなりの沈黙の後、ようやくそう答えた声が聞こえた。
「そう。ありがとう。今日はもう遅いから明日にでも病院に来なさい。じゃあおやすみ」
「……」
電話が切れる。麗子は携帯を近藤に渡し、歩き出した。
「どうでした?」
近藤は興味津々といった感じで聞いてくる。顔は見ていないが、どんな表情をしているのかはわかった。わかりすぎて、絶対に見たくなかった。
「聞いてなかったの?名前と高校名しか聞いてないわ」
「そうっすよね。どこの高校でした?」
「青崎高校」
「青崎高校?それって…」
青崎高校と聞いた近藤は、続く言葉を言うべきか悩んでいた。
「そう。弟の勤める高校ね。もっと言えば、たぶん弟のクラスの生徒だわ。聞いたことのある名前だった」
「マジっすか?」
麗子は近藤に変な気を遣われるのが癪だったので、自分から話す。隼人のクラスの生徒だということまでは予想していなかったのだろう。近藤は心底驚いたという顔をしていた。ちょっと意外な事実や証言が出るといつも大袈裟に表情が変わる。一般人なら無邪気で可愛いが、刑事としては最悪だった。
刑事は何があっても感情を表情に出してはいけない。常に冷静に、客観的に物事を捉えることが重要なのだと、あれほど教えた自分がバカみたいで情けなかった。
「嘘言ってどうするのよ。そんなことより、聞き込みしっかりして。目撃者がいるかも」
「やっぱり事件ですか?もしかして、エリちゃんが犯人!?って、んなわけないか」
「犯人かはわからないけど、何か知ってるかもね。あと、エリちゃんじゃなくて神谷エリさんよ」
麗子は話しながらも足を止めることはなかった。その横に、近藤がピッタリとくっ付く。
「その神谷エリさんがなんで何か知ってると思うんですか?被害者が落ちたと思われる時間、神谷エリさんは何度も電話を掛けてるんですよ?」
「電話を掛けてるからよ」
「はい?」
「電話を何度も掛けて、やっと繋がった相手が刑事だった。その刑事に友達が病院に運ばれたと教えられる。近藤ならどうする?」
「僕ならですか?僕なら病院に行きます」
麗子は立ち止まり、近藤の顔をまじまじと見つめる。そして、大きな溜め息を吐いた。ここまで来ると、この刑事がなぜ殺人などの重大事件を扱う捜査一課に配属されたのか全く意味がわからなかった。
「信じらんない。それでも刑事?ていうか刑事じゃなくてもわかるわよ?」
「え?…あ!そうか!病院に行くとか言う前に、なんで病院に運ばれたのか聞きますね」
しばらく考えた後、ようやく答えを出した近藤に、麗子は呆れながら、溜め息と共に説明する。
「そう。普通は病院に運ばれた理由を聞く。ましてや何度も電話を掛けてる。今すぐ話さなきゃいけない何かがあったはず。それなのに病院に運ばれたって聞いても理由を聞いてこなかった。なんでだと思う?」
「病院に運ばれた理由を知っていた?」
「ご名答」
麗子は近藤に気のない拍手を送った。近藤はそんなことは気にもしていない様子でしきりに頷いている。
「それに、病院に対する反応に比べると、警察に対する反応が弱すぎる。まるで、警察が自分の所に来るのを知っているみたいだった」
「そういうことっすか。じゃあその神谷エリって子を問い詰めればいいんじゃないんですか?」
近藤のその言葉に、麗子は先ほどの拍手を早くも撤回したくなる。
「今の話は私の印象でしかない。証拠があるわけでもないし、事故か事件かもわからないのよ?その状況で尋問して、はい。私がやりました。なんて言うと思う?」
「…ですよね」
「とにかくその辺の野次馬からでもいいから、話を聞きまくって情報を集めなさい」
そう言って麗子は再び歩き出す。
「槙村さんはどこに?」
「病院」
「何の為にですか?まだ被害者は意識不明ですよ?」
「でしょうね。神谷エリさんをちょっと見ておくわ」
麗子が歩きながらそう言うと、近藤は不思議そうにする。
「え?でも槙村さんが明日にでも来なさいって言ってたじゃないですか」
ここまで歩いてくる間も、近藤はずっと麗子の隣にくっ付いていた。そのまま病院までついてきそうな勢いで。
「そうね。でも彼女は来るわ」
麗子の中では話は終了していたが、近藤はまだ何か言っていた。麗子はそんな近藤を無視。手を振り、「早く聞き込み!」と一喝する。その言葉で近藤は慌てて聞き込みに走り出した。従順で、素直。
麗子はようやく1人で病院に向かって歩き出す。
「絶対に来る」
歩きながら、麗子はそう呟いた。