婚約破棄されたので、浮気相手に王太子妃の引き継ぎ面接をしたら、何もできませんでした
婚約してから六年が経っていた。
十六歳の春、父に連れられて王宮に上がった日のことを、私はよく覚えている。
謁見室の扉が開いた瞬間、宰相府の主席補佐官が私の手に書類の束を押しつけた。
「カルヴェール嬢、これが未決裁の案件です。十四件、今週中にお願いします」
挨拶より先だった。
私は受け取った。他に選択肢がなかったし、国のためになるならと思っていた。
その日から六年、私は毎朝六時に執務室へ入り、誰よりも遅く退室した。
十七歳の冬、国境紛争の調停文書を徹夜で書き上げたとき、窓の外に初雪が降っていた。綺麗だと思う余裕もなかった。書類を乾かすために窓を開けただけだった。
十八歳の春、アカデミーの卒業パーティに出席できなかった。その夜、東部の水害対応で緊急予算の組み替えをしていた。同期の令嬢たちが踊っている頃、私は電卓と格闘していた。
十九歳の夏、外交交渉の場で初めて相手国の大臣に「あなたが書いたのか」と聞かれた。
「はい」
と答えたら、少し間があって、
「優秀だな」
と言われた。アルノー殿下ではなく、隣国の大臣に。
二十歳の秋、殿下が初めて私の名を呼んだ。
「リゼット、例の書類はどこだ」
私は机の第三引き出し左側と答えた。それ以外の会話をした記憶が、あまりない。
二十一歳の冬、私は宮廷で一番多くの書類を処理し、一番少ない休日を取り、一番他の人間に感謝されない令嬢になっていた。
誰かに「ありがとう」と言われた回数を数えたことがある。
六年間で、十七回だった。
そのうち十四回は、相手国の外交官だった。
まあ、いい。国が回っていれば、それでいい。
そう思いながら、私は今日も書類を持って、卒業祝賀パーティの会場へ入った。
◇
「リゼット=カルヴェール。俺はお前との婚約を破棄する!」
大広間が静まりかえった。
シャンデリアの光が降り注ぐ中、王太子殿下アルノー=ヴァルコワが腕を広げ、隣の薄桃色ドレスの令嬢――男爵家の三女ミレイユ――の手を握り、高らかに宣言した。鍛えた顎のラインが照明で映える。完璧な構図だった。
本人は気づいていないが、背後の蝋燭台が傾いていた。
私は手元のシャンパングラスをそっとテーブルに置き、懐から手帳を取り出した。
「承知いたしました」
「……え」
「退職の意向は確認しました。では次期王太子妃殿下、本日より引き継ぎ面接を開始いたします。立候補者はそちらにいらっしゃいますよね?」
「り、立候補者……?」
「ポジション名は〝王太子妃〟。業務内容は国政補佐・外交儀礼・財務監査補助・慈善事業統括・他多数。試用期間なし、残業あり、逃げ場なし。よろしいですか」
アルノー殿下が眉をひそめた。
「リゼット、なぜそんなに冷静なんだ。普通は泣くだろう」
「泣く暇があれば引き継ぎ資料を作ります」
「……は?」
「国が止まると国民が困ります。私情は業務終了後に処理します。それで、面接はこちらで始めてよろしいですか」
殿下が何かを言おうとした口を閉じた。
会場の誰かが、こっそり笑いをかみ殺した。
「えっと……面接、ですか?」
ミレイユ嬢が目を丸くする。
愛らしい顔だ。抜けるような白い肌、くりくりとした青い瞳、ふわふわの金髪。悪く言う気はない。ただ現実として、彼女の目にはいま「えっ、なにこの人こわい」という文字が透けて見えた。
「はい。まず書類選考から。履歴書はお持ちですか」
「持っていません……」
「では口頭で。最終学歴と実務経験をどうぞ」
「えっと、王立アカデミーを卒業しました!」
「成績は」
「中くらい……でしょうか」
「専攻は」
「お花の生け方と、刺繍と、ダンスです! ダンスはクラスで一番でした!」
「それは教養課程の選択単位ですね」
私は〝実務経験:ゼロ〟と書いた。
「では志望動機をどうぞ」
ミレイユ嬢は、ぱっと顔を輝かせた。
「アルノー様を、愛しているからです! 真実の愛があれば、何でも乗り越えられると思っています!」
会場の何人かが「おお……」と声を漏らした。アルノー殿下が「ミレイユ……」と感極まった顔をする。
私はペンを走らせ、一行書いた。
「〝志望動機:感情的理由のみ〟。評価対象外です」
「えっ」
「愛はポジション要件に含まれていません。それより実務の確認をします」
「で、でも! 愛って大事じゃないですか!!」
「それには同意します」
私はきっぱりと答えた。
「ただ愛では隣国の関税は下がりませんし、凶作時に麦は降ってきませんし、外交文書は五カ国語で書いても愛語では書けません。では実技試験①に移ります」
「隣国レムナ王国が先月発動した穀物輸入への追加関税――現行十四パーセント――に対し、我が国の農業省と外務省が提示している三つの対抗案と、それぞれのメリット・デメリットを述べてください」
ミレイユ嬢の口が、ぽかんと開いた。
「……じ、じゅっ……かんぜい……?」
「関税です。輸入品にかかる税金です」
「あ! 知ってます! お買い物のときに払う、あれですよね!!」
「消費税とは別の概念です」
「え、違うんですか?」
「違います。次の質問に――」
「あの!」
ミレイユ嬢が手を挙げた。
なぜか自信満々の顔をしていた。
「関税って、きっと、誠実にお話しすれば下げてもらえると思うんです! 国と国でも、心が通じ合えば……!」
「隣国の財務大臣は先週、議会で〝感情論による交渉は一切受け付けない〟と公式声明を出しました」
「……じゃあ、プレゼントを贈ったら?」
「贈賄になります」
「え、そうなんですか?!」
「なります。では難易度を下げます。初級問題です」
「過去十年における本国の小麦収穫量の推移と、第七年目に発生した凶作の主因、およびその際に王室が実施した緊急備蓄の放出量と財源をどうぞ」
ミレイユ嬢の顔が、ゆっくりと曇り始めた。
「……お、お麦……?」
「小麦です」
「白くて、粉になるやつですよね?!」
「そうです」
ミレイユ嬢は、ぱっと顔を輝かせた。
「知ってます!! お菓子に使うんです! シュークリームのシューも小麦ですよね!!」
「正解です」
「やった!」
「ただ今の問いとは関係ありません」
「え」
「凶作時の収穫量の推移と財源をお答えください」
ミレイユ嬢の顔が、もう一度曇った。今度は深く。
「……え、えっと……お天気が悪かったら……減る……?」
「方向性は合っています。具体的な数字と財源をどうぞ」
「す、数字……」
「はい」
「……愛があれば、きっと収穫量は……増える……」
「土壌改良と灌漑整備のほうが確実です。評価対象外です」
そのとき、アルノー殿下が再び割り込んできた。
「リゼット! いい加減にしろ! お前は意地悪でミレイユを困らせているだけだ!」
「困らせる意図はありません。ポジションに必要な知識を確認しています」
「こんな意地悪な面接、普通じゃない!!」
「では申し上げますが」
私は手帳を閉じ、殿下を見た。
「この問題は、私がアカデミー在学中に自習で習得した内容です。誰かに教わったのではなく、必要だと思ったので独学しました。十七歳のときです」
静寂。
「同じ年齢の令嬢が舞踏会の練習をしていた時期に、私は農業統計の読み方を覚えていました。それが〝普通じゃない〟とおっしゃるなら、そうかもしれません」
大広間が、しんと静まる。
アルノー殿下の口が開いたまま止まった。
「……でも俺が、サポートする。それでいいだろう」
「先ほどからそうおっしゃっていますね」
私は懐から封筒を取り出した。
「では確認します。昨日殿下にご確認いただいた第四四半期予算の決裁書類です。三箇所、計算が誤っておりました」
「そ、それは――」
「一箇所目。農業補助金の合計、十万の誤差です」
「疲れていた――」
「二箇所目。軍備予算の前年度比較、引き算を足し算と誤解されています」
「それは――」
「三箇所目。日付が先月です」
「……凡ミ――」
「先月の日付では法的効力が変わります。リーゼ侯爵との通商契約が無効になるところでした。私が差し止めなければ、今頃係争になっていました」
三枚目の書類を取り出す。
「これが差し止めの記録です。日付入りです。今度は合っています」
会場のどこかで、笑いが漏れた。複数箇所から。
アルノー殿下の完璧な顎のラインが、ぴくぴくと震えた。
「……お前は俺をバカにしている」
「バカにしていません。サポートが可能かを検証しています。現状では困難という結論です」
「俺はこれから成長する!!」
「それは大変喜ばしいことです。成長された暁には、ぜひ後任の方々と素晴らしいお仕事をなさってください」
また笑いが漏れた。今度はもっと多くの箇所から。
「待ってください!!」
ミレイユ嬢が、突然大きな声を上げた。
全員が振り向く。
彼女は頬を紅潮させ、拳を握り、決意に満ちた目をしていた。
「わ、私、頑張ります!! 愛のために、なんでも覚えます!! リゼット様の言った……かんぜい、も、むぎ、も、全部!!」
会場が少しあたたかい空気になりかけた。
私は手帳を開いた。
「では確認します。先ほどの関税問題に戻ります。レムナ王国の追加関税に対し――」
「やります!!」
「十四パーセントの対抗案を――」
「十四……!」
「三案、それぞれのメリットデメリットを――」
「さ、三……!」
「財務省・農業省・外務省の連携スキームも含めて――」
「れんけい……?」
「今この場でどうぞ」
ミレイユ嬢の目が、ゆっくりと泳ぎ始めた。
「……え……えっと……れ、レムナは……どこの国でしたっけ……」
「隣国です」
「お、お隣の……えっと……関税って、もう一度言うと……」
「税金です」
「ぜ、税金は……え、でも……十四って……十四個……? 十四人……?」
「パーセントです」
「……ぱー……」
ミレイユ嬢の目が、少しずつ遠くなっていく。
「……農業省って……農業の……お省……? お省ってなんですか……」
「官庁です」
「かん……ちょう……」
「国の行政機関です」
「くにの……ぎょう……」
ミレイユ嬢の口から、うーという音が漏れた。
「……なんか……頭が……あつい……」
「知恵熱かもしれません。椅子はありますか」
「あ、あつい……あつい……あつい……愛で、かんぜいを、レムナのむぎで、十四の農業が……」
「混濁しています」
「あつ……い……あ……い……が……あれ、ば……」
ぱたん。
ミレイユ嬢が倒れた。
今度は白目だった。
大広間が騒然となる。
「ミレイユ!!」
アルノー殿下が膝をつく。
「リゼット、お前のせいだ!! お前が難しい質問ばかりするから!!」
「記録しておきますが、今の問題は王太子妃業務の初日に処理する案件レベルです」
「そんなわけがあるか!!」
「昨年の四月一日、私が処理した案件の一覧です」
私は手帳の別のページを開いた。
「東部水害の緊急予算組み替え。レムナとの漁業権交渉の事前資料作成。北部貴族三家の税務申告不正の調査補助。あと殿下の誕生日パーティの座席表も作りました。四十七名分です」
「…………」
「四月一日は新年度の初日です。通常より少ない方の日程です」
アルノー殿下が、何か言おうとして――何も言えなかった。
「殿下」
私は静かに続けた。
「私は六年間、一度も『大変です』と申し上げませんでした。国のためだと思っていましたし、誰かがやらなければならない仕事だったからです。ただ」
一拍、置く。
「一度でいいから、書類ではなく私に『ありがとう』と言っていただけたら、もう少し違ったかもしれません。それだけです」
大広間が、しんと静まった。
アルノー殿下の顔から、怒りの色が消えた。代わりに浮かんだ表情を、私には名前がつけられなかった。
沈黙が、五秒続いた。
十秒続いた。
そして殿下は――
「……お前が悪い。そんなに仕事をするから、俺が必要とされていないみたいで、居場所がなかった」
私は三秒、目を閉じた。
それから手帳に書いた。
〝反省なし。確定〟
「承知しました。では面接結果をまとめます。採用不可」
◇
そのとき、玉座の方角から靴音が近づいてきた。
一歩一歩が静かで重い。
王妃殿下だった。
銀糸の混じる黒髪、数十年の政治経験、そして今この瞬間、氷河のような目。
「アルノー」
「は、母上……これは――」
「聞いていました。全部」
王妃殿下は扇を閉じ、息子を見た。
「計算が三箇所間違い、日付も間違い、それを六年間補佐してもらい続けて――仕事ができる婚約者に〝居場所がなかった〟、ですって」
「……それは――」
「その台詞、東部の農家の前で言いなさい。リゼット嬢が徹夜で書いた補助金申請書のおかげで今年の冬を越せた人たちの前で」
殿下の顔が白くなった。
「アルノー=ヴァルコワ」
王妃殿下の声が、大広間に静かに響く。
「王都での執務を当面停止します。東部辺境・ラドミール行政区へ赴任し、一から地方行政を学びなさい。予算は自分で計算すること。書類の日付は自分で確認すること。〝居場所がなかった〟という感想は、現地で一人で向き合いなさい」
「そんな……!!」
「ミレイユ嬢も、同行されるなら結構」
王妃殿下がちらりとミレイユ嬢を見る。まだ気絶中だった。
「ラドミールは冬に零下二十度になります。防寒の準備を。あと農業統計の読み方を覚えてから来なさい。愛だけでは麦は育ちません」
侍女に運ばれるミレイユ嬢が、その声を聞いたかどうかは分からない。
ただ一瞬、
「あつい……かんぜい……むぎ……」
と呟いた気がした。
王妃殿下がこちらに向き直り、深く頭を下げた。
国母が。
「リゼット嬢。あなたが誠実に職務を全うしてきたことは、私が一番よく知っています。不当な扱いへの謝罪と、相応の退職金は王室が必ず責任を持ちます」
少しの間があった。
「……六年間、ありがとうございました」
私は一礼した。
六年間で、十八回目だった。
今度は一番、胸に沁みた。
◇
会場の出口に向かいかけたとき、声をかけられた。
「少々よろしいでしょうか、リゼット=カルヴェール殿」
振り返ると、銀灰の髪の青年が立っていた。
隣国ルフェリア王国の王太子、クロード=エルフィリア。先週から外交使節として来訪中と、日報で読んでいた。深い緑の目が、微笑んでいた。
評価者の目で。
「……お見苦しいところをお目にかけました」
「いいえ」
クロード殿下は静かに首を振る。
「本日の面接、拝見しておりました。関税問題の設問、境界線交渉の質問――すべて正確で、かつ現在進行形の実務に基づいていた。あの問いを即興で組み立てられる方が、この大陸に何人いるか」
「面接問題として使っただけです」
「それが凄いんです」
彼は一歩進み出た。
「単刀直入に申し上げます。ルフェリア王国は、あなたを必要としています。宰相補佐として迎え、段階的に国政全般をお任せしたい。待遇と裁量は現職を大幅に上回ることを保証します」
「……ヘッドハンティングですか」
「はい。ただ、正直を申し上げると、それだけではありません」
緑の目が、まっすぐこちらを見る。
「私はここ二年、外交の場でずっとあなたの仕事を見てきました。昨年の通商会議で、陰から交渉を支えていたのがあなただと把握しています。三カ国語で起草された代替輸出路の提案書――あれを読んだとき、書いた人間に会いたいと思いました」
「……よく調べていらっしゃいますね」
「好きな人のことは調べます」
私は、ほんの一瞬、返答に詰まった。
六年間、一度もなかったことだった。
「……一つ確認させてください」
「なんなりと」
「殿下は、ご自身で計算なさいますか」
クロード殿下が、一拍置いて――声を立てて笑った。
「ええ。先月も財務長官の報告書に誤りを見つけて、本人が青ざめていました。日付も自分で確認します。あと」
彼は笑みのまま続けた。
「我が国では王太子妃の昼食時間を三十分確保しています。繁忙期でも二十分は死守するよう、私自身が徹底しています。今まで何分でしたか」
「……十五分です。繁忙期は食べながら書類を読んでいました」
「それは今日で終わりにしましょう」
私は少し目を細めた。
「採用条件に、加えます」
「ぜひ」
クロード殿下が、もう一度笑った。
今度は少し、柔らかい笑い方で。
「それともう一つ。我が国では、職員の仕事に対して、きちんと感謝を伝えることを慣習にしています」
私は何も言わなかった。
ただ、胸の中で何かが、静かに溶けた気がした。
◇
翌朝、私は生まれて初めて、六時に目覚めて、何も開かなかった。
書類もなく、日報もなく、会議の予定もない朝。
窓の外、春の光の中で、私はぼんやりと昨夜のことを思い返した。
緑の目。声を立てた笑い。計算ができる王太子。三十分の昼食。感謝を伝える慣習。
胸の中に、仕事の充実感とは少し違う、小さな熱がある。
十七歳の冬、初雪を綺麗だと思う余裕もなかった。
今年の冬は、見られるかもしれない。
私は窓を開けた。
春風が、少し甘かった。
◇
〈余談〉
ラドミール行政区は、その年の冬、記録的な大雪に見舞われた。
農業補助金の計算を間違えたアルノー元王太子は、現地の農家に三時間説教された。
ミレイユ嬢は赴任初日、農業統計の資料を見て
「数字がいっぱいです……」
と呟き、また白目を向いたという。
誰も同情しなかった。




